本文中の写真はクリックすると拡大表示します。
ブラウザーの「戻る」でお戻りください。
本文中の写真はクリックすると拡大表示します。
ブラウザーの「戻る」でお戻りください。
加古川駅は2004年12月19日に高架化し、加古川線用5,6番ホームが開業。神戸線ホームと比べて幅の狭い島式ホームです。もともと山陽本線とのつながりは薄く、相互の乗り入れは皆無で、地上駅時代の加古川線ホームは山陽線ホームから離れた位置にありました。現在は姫路方面から5番線に、神戸方面から6番線に出入りできる配線となっていますが、営業列車の行き来は皆無です。加古川線ホームへの出入りには中間改札を通過しなければならない構造になっています。
加古川を出ると左に大きくカーブして山陽線と離れ、北へ向かいます。1984年に廃止された高砂線はここから右へ分岐し、当時地平を走っていた山陽線を跨いで高砂方面へ向かっていました。高架線から再開発の進む加古川駅北地域を見つつ高度を下げ、地平の高さまで下って加古川バイパスをくぐります。
まもなく日岡へ。春は桜が咲き誇る日岡山公園が駅近くにあります。
加古川東岸を進み、住宅・団地群の間を通って神野(かんの)へ。神野周辺には市営住宅が建ち並ぶなど人口が多く、加古川線内では加古川を除いて最も利用者が多い駅です。日中は基本的にここで列車の行き違いが行われます。以前は南側(上りホーム側)にしか駅舎がなく、駅前広場のある北側(下りホーム側)には改札口のない不便な構造でしたが、2010年に北側に駅舎が新設されてそちらがメインになっています。
田んぼの中を直進して厄神へ。旧国鉄三木線から第三セクター化された三木鉄道(厄神〜三木間)が接続し、上りホーム(2番線)向かいにあった3番線から発着していましたが、2008年3月末をもって廃止されました。駅前ロータリーから旧三木駅を経て神戸電鉄恵比須駅へと結ぶ代替バスが発着します。3番ホームは閉鎖され、三木鉄道側の線路も撤去されましたが、加古川方から3番線側に伸びている側線(かつて加古川線と三木線がつながっていた名残)は今も残っています。
駅周辺は田園地帯ですが、加古川〜厄神間の運転頻度はラッシュ時には最短15分弱、日中30分間隔。三木線の列車が直通していた時代の名残でもありますが、ここまでが加古川市の都市圏であることを物語ります。99年に橋上駅化。また加古川駅の高架化に先駆けて加古川鉄道部が厄神に移設され、加古川線車両運用の要所ともなっています。
近代的な橋上駅舎となった厄神駅
三木鉄道(奥)と接続していた
この先、列車の運転頻度は半減します。左に大きくカーブして加古川を渡ります。真ん中だけトラス橋となった見晴らしのよい橋で、あまり特徴のない加古川線沿線において、随一のビューポイントです。ここからは新西脇の手前まで、加古川線は川の西側を北上します。
川岸近いところを進んで、山陽自動車道の下をくぐるあたりで小野市に入ります。市場は、電化の際に交換施設が復活した駅ですが、現状では朝のラッシュ時にしか活用されていません。神戸電鉄に同名駅がありますが、距離は離れています。続く小野町も、小野の市街地からは対岸にあたります。
電化にあわせて小野市内(市場〜青野ヶ原)の各駅はコミュニティスペースを兼ね備えた新しい駅舎に改築されました。特に小野町駅には、地元のそば粉を使用した手打ちそばを供する「ぷらっときすみの」という店が入っており、遠方からの来訪者もあるとのことです。
粟生(あお)手前で加古川支流の万願寺川を渡ると、右から神戸電鉄粟生線が沿ってきます。神戸電鉄は加古川線上り線の向かいに発着し、以前はホームを共用していましたが、自動改札導入に伴ってJRホームの反対側にホームを新設し、JRホームから改札機を通って出入りする構造になりました。
下りホーム向かいからは、国鉄北条線から第三セクター転換された北条鉄道(粟生〜北条町間)が発着。3社間で学生などの乗り換えが盛んです。ただし、加古川線は既に北条鉄道・神戸電鉄のいずれとも線路を分断しており、車両の行き来は不可能です。
小野市内の他のJR駅は電化前後に建て替えられましたが、粟生駅だけは旧来の木造駅舎が使われていました。しかし2009年に改築され、隣接する陶芸体験施設や、地元運営の飲食店「あわの里」と一体化した駅舎になりました。また下りホーム側に簡易的な出入り口が設けられ、駅舎と反対の駅西側からも出入りできるようになりました。
粟生を出るとすぐ北条鉄道が左へ分岐し、加古川線は川からいくぶん離れて、平坦な田んぼの中をまっすぐに北上します。河合西、青野ヶ原へと進んでゆく西側の丘陵地には、自衛隊の青野ヶ原演習場があります。
青野ヶ原の先で小さな山越え(山というほどのたいしたものではありませんが、全体的に平坦な加古川線にあっては珍しい)にかかり、小野市から加東市に入ります。国道372号のガードをくぐって、交換可能駅の社町(やしろちょう)へ。2006年3月に社・滝野・東条の3町が合併して「加東市」が発足しましたが、実はもともと社町駅は社町ではなく滝野町に属していました。旧社町は加古川の東岸に位置し、加古川線は全く通っていなかったことから、その「玄関口」という意味合いでこの名がつけられたのでしょう。ちなみにJTB時刻表では、この社町駅が「市の代表駅」という扱いになっています。
引き続き加古川西岸を北上し、中国自動車道の下をくぐります。この先の北西側の丘陵地は「播磨中央公園」です。その最寄り駅でもある滝野駅は、ギャラリー併設の駅舎で、駅の両側にロータリーが整備されています。(概して駅前が狭い加古川線の駅の中にあって珍しい。)
わずか1.1kmを走って滝駅へ。今度は一転、駅舎がなく、短いひさししか付いていない駅です。この付近では加古川の幅が狭まり、岩場を豪快に流れる「闘竜灘」として知られています。この先、両サイドに山が近づいてきて、加東市から西脇市へと入ります。
そして西脇市駅へ。かつては野村といい、1990年に廃止された鍛冶屋線との分岐点でしたが、市の中心駅が、鍛冶屋線をひと区間進んだ西脇だったこともあり、加古川方面からの列車はほとんどが西脇・鍛冶屋へ直通し、野村〜谷川間の運用と分かれていました。そんな昔の名残か、大半の列車はここで乗り換えを要します。またこの駅は通例とは逆に、ホームが駅舎側から3,2,1番線の順になっているのも特徴です。
鍛冶屋線廃止により西脇市の中心駅はここ西脇市駅となり、駅前も整備されていますが、位置的には市街地の南端にあたり、西脇駅ほどの集客力はないようです。鍛冶屋線廃止の折に、せめて西脇駅まで残せなかったのかと悔やまれる声がしばしば聞かれます。
このように、加古川線はことごとく市街を避けて走っているのが不利なところです。
この先列車の本数は大きく減り、線路に草が生えてすっかりローカル線の雰囲気になります。西脇市を出ると、鍛冶屋線の廃線跡と分かれて西へカーブし、加古川を渡ります。2004年の台風で加古川が氾濫し、西脇市内で大きな被害が出たことから、この付近では大規模な治水工事が進められており、この鉄橋もトラス橋に架け替えられました。
まもなく新西脇へ。これより先、駅のホーム長は列車2両分となりますが、通常この区間は125系単行での運転なので、これでも持て余してしまうのです。西脇市街を加古川対岸に見ながら、国道175号の下をくぐり、向きを北に転じて比延(ひえ)へ。再び加古川が左側に近づいてきて、次は加古川線で最も新しい駅である日本へそ公園。北緯35度、東経135度の交点に石碑が立つだけの公園ですが、駅前には美術館が設けられています。
加古川の東岸をさらに進み、25km/hの徐行制限がかかるカーブのあたりが西脇市と黒田庄町の境界でしたが、2005年10月に黒田庄町は西脇市に吸収合併されました。田んぼの中を北上して黒田庄へ。合併前に駅舎が改築され、コミュニティホール併設の建物となっています。西脇市以北では唯一、列車の行き違いが出来る駅でしたが、2004年4月に単線駅になりました。このあたりに、「非常時の代替路線確保」という電化の「建前」とは裏腹の意図を感じなくもありません。
ここから本黒田へと至る直線区間では、電車はかなりの速度を出します。相変わらず川沿いののどかで単調な風景が続きますが、山々が西脇以前よりこんもりしたかたちになり、やや変化を感じます。線路際の木々が、車体をこすらんばかりに迫ります。
加古川線の旅も大詰め。木に囲まれた船町口は、いかにもローカル線の小駅といった雰囲気。
加古川の支流にあたる篠山川を左に見、久下村駅手前で西脇市から丹波市山南町へ。文字通り、「播磨」から「丹波」に入ることになります。パルプ工場が間近にそびえ立つ久下村駅を出ると、最後は篠山川を渡り、福知山線の線路が近づいてきて終点・谷川へ。福知山線ホームの片隅に入るかたちで、線路配線の構造上、福知山線への直接の乗り入れはできません。
元来加古川は水運の要であり、高砂から加古川・小野・西脇・丹波方面、支流として三木などをつなぐ役割を果たしていました。途中闘竜灘が往来を妨げていたため、江戸時代にはここを中継地点として上流・下流で水運が行われていました。明治に入って闘竜灘を開削、直接行き来ができるようになりました。
加古川線およびその支線(高砂・三木・北条・鍛冶屋線)は、その水運に代わるものとして敷設されたことから、ほとんどが加古川とその支流に沿っています。このため必ずしも人口密集地を通っているわけではなく、貨物輸送の衰退とともに苦境に立たされることになりました。
国鉄末期の赤字ローカル線清算に際して支線はすべて切り離され、第三セクター化された三木鉄道(旧三木線)も振るわず2008年に廃止。残るは北条鉄道(旧北条線)のみとなっています。「本線」の加古川線も、JR化後の早い時期からワンマン化など合理化が推し進められており、減便・月1日の保守運休・徐行区間の設定など、近畿圏にありながら閑散ローカル線並の待遇を受けてきました。
1995年の阪神・淡路大震災で神戸線が寸断された際に迂回路線のひとつとして活用された経緯などから、非電化だった加古川線の電化計画が現実味を帯び、2002年に着工、2004年12月に完成しました。これは加古川駅付近の高架化事業とも連動したものでした。この一連の事業に際しては、新型車両(125系)の投入、駅舎の改築、駅前道路や駐車場の整備など、かなりのてこ入れがありました。ただ、これらはおおかた沿線自治体によるもので、当のJRはといえば、これを機会にさらなる合理化を推し進めていった感があります。
加古川市内の加古川〜厄神間では列車の本数が多く、利用者も多い。しかし厄神以北では本数が半減。前述の理由から市街地と離れており、集客力において限界があります。三木・小野からは、神戸方面へ通ずる神戸電鉄や神姫バスがあり、北条・加東・西脇からは大阪方面へ高速バスが直通するため、加古川でJR神戸線につながっているメリットを考慮しても、長距離利用に関しては不利が否めません。地域間の通勤・通学需要が頼りというのが実情でしょう。
西脇市以北はさらに深刻で、1日9往復(土曜休日は8往復)、終日1両で事足りてしまうのが実情です。西脇〜丹波は流動そのものが小さいと思われ、黒田庄駅の交換設備も廃止されるなど、ぎりぎりの運営となっています。