1991年8月、高校2年の夏休みでしたが、私は足かけ9日間にわたる中国・九州旅行に出かけました。
この旅行は、「青春18きっぷ」を使用した、泊まりがけの旅行として初めてのものであり、その後数知れず行うことになる夜行快速での車中泊も、いきなり3泊挟みました。生まれて初めて日本海を見たのもこのときです。
またこの旅行から、旅程のメモを残すようになりました。これが当サイトのタイトルである「トラベラーズ ノート」の由来です。
延々と列車を乗り継ぎながら、ここと決めたポイントで観光をするというスタイルは、このときから始まったものです。初の試みであったことから、今思えば要領の悪さや無理な動きも多々あったものの、この旅行は間違いなく、私の鉄道旅の原点となったものでした。
分割民営化から4年余、まだまだ国鉄形が幅を利かせる時代であり、利用した列車もほとんどが国鉄世代の車両でしたが、国鉄時代の画一的なデザインは鳴りを潜めつつありました。鈍行乗り継ぎの過程を通し、私の知る「国鉄」の姿が、確実に変貌を遂げつつあることを実感する機会となりました。
キハ58系と181系 ありふれた顔合わせだったが・・
寝台電車改造の715系。国鉄末期の逼迫財政の証
九州の今なき夜行急行「かいもん」
91年末には、やはり青春18きっぷを使用して、滋賀・福井方面への旅行を敢行しました。それまで、帰省先が九州だったこともあり、私の旅のベクトルは専ら西・南を向いていましたが、この旅は日帰りながら、事実上初めて、東・北を目指すものとなりました。
冬休みの時期にこちらの方向へ向かったのは、自分にとってなじみの薄い「雪景色」を見に行くためのものでした。その願い通り、大津・長浜・舞鶴などで積雪の中を歩き、新鮮な体験に感激。
この旅行を契機に、私の旅に「北」という方向性が加わりました。また、95年度以降ほぼ毎冬の恒例行事となる「雪見旅」の先駆けとなるものでした。
大津駅前の雪景色に興奮
1992年春、東海道新幹線に「のぞみ」号がデビュー。当初は試験的なダイヤであったとはいえ、1964年の新幹線開業以来、日本の鉄道の最上位に君臨してきた「超特急ひかり」が2番手に押しやられるという、歴史的な出来事でした。最高速度270km/hの300系は、翌年には東海道・山陽全線で終日運転されるようになり、本格的に「のぞみの時代」が到来しました。
1992年夏、帰省のさいに南九州一周旅。この夏、博多〜西鹿児島(現・鹿児島中央)を結ぶ特急「有明」が「つばめ」と改称されました。「つばめ」は戦前から存在した由緒ある愛称であり、1975年に山陽新幹線の全通に伴ってお蔵入りとなっていた、いわば「幻の特急」。JR九州は、自社の看板列車にその名を復活させたのです。
それだけに、同社の意気込みは並々ならぬものであり、「つばめ」用車両としてデビューした787系電車は、黒塗りの外装、高級感を醸す内装、当時の特急車の中でも最高峰のクオリティを誇りました。この時点で783系と半々で「つばめ」の運用に就きました。(96年に「つばめ」すべてが787系に。)
この旅行では、そのデビュー間もない787系に出水から西鹿児島まで乗車。485→783→787とグレードアップしてきた九州特急の質の高さに感嘆しきりでした。
名門特急「つばめ」、九州の地に復活
ただこの後、帰省の機会がなくなってしまったことと、私の旅行の指向が北向き・東向きに転じたことから、九州からはしばらく遠ざかってしまいます。私が次に鉄道で九州を旅行したのは、実に7年以上も後の、2000年のことでした。
1993年3月には兵庫北部へ。3月中旬でしたが朝方には雪景色も見られました。メインは山陰本線の余部鉄橋。荒波の激しく打ち寄せる轟音が絶え間なく響く入り江。漁村の頭上にそびえる赤い鉄骨の橋。その上をゆっくりと通過してゆく列車。まさに痺れる体験でした。
余部鉄橋というと、国鉄の民営化を控えた1986年に、痛ましい列車転落事故が起きた場所です。この事故以後風による規制が厳しくなったことや、鳥取方面へのバイパス線となる智頭急行の開業(1994年)、さらに1996年に山陰線京都〜城崎(現・城崎温泉)間の電化が完成したことなどから、城崎以北の流動は衰退の一途を辿り、2007年春時点で、余部鉄橋を通過する特急は「はまかぜ」2往復のみとなってしまいました。同鉄橋そのものもコンクリート橋に架け替えられ、役目を終えることになっています。
山陰本線の運行を支え続けてきた余部鉄橋
1994年10月、91年夏以来となる泊まりがけの旅行は鳥取、浜坂方面へ。鳥取砂丘・倉吉・浜坂などを訪ねました。大阪〜赤碕間で夜行客車急行「だいせん」、赤碕〜鳥取間においては、客車快速に乗車。客車独特の軽く、どこか緩慢な走りが印象的でした。合理化の流れの中、ローカル幹線を中心に幅を利かせていた客車列車も激減。かつて客車鈍行が長距離を走り抜いた山陰本線でしたが、この時点で残るはわずかとなっていました。
ディーゼル機関車に牽引される客車列車
このほかこの旅行の際には、特急の間合いで運行されていたキハ181系使用の普通列車や、キハ58系使用の急行「砂丘」に乗車。今や存在さえ希少なものとなってしまったそれらの車両が、まだ国鉄時代の特色を強く残す仕方で使われていた時代でした。
岡山と鳥取を結んだ急行「砂丘」
なお、1994年9月には関西国際空港が開港し、それに先立つ6月に関西空港線が開業。そのさい、関空快速用車両として223系が登場しました。後述のとおり、この223系が翌年以降「新快速」にも投入され、アーバン圏の新たなスタンダードとして増備されることとなります。現状、空港に乗り入れるJR線は、この関西空港線のほか、成田空港線(1991年)、千歳線(1992年)、宮崎空港線(1996年)がありますが、いずれもJR化後の開業。JRと航空の連携の歴史は、意外と浅いのです。(このほか2007年3月には、第三セクターの仙台空港鉄道を通して、仙台空港への乗り入れが実現しました。)
関空快速の223系(02.3)
1995年1月17日早朝、現代日本にとって未曾有といえる災害が、突如臨みました。兵庫県南部地震、いわゆる阪神・淡路大震災。大都市圏での直下型地震であったことが災いして、阪神間の広い範囲に甚大な被害がおよび、6,000人以上が死亡する大惨事となりました。私もその激しい揺れを体験した人間のひとりで、周囲にはそこまでの被害はなかったものの、その影響をしばらく受け続けることとなりました。経験もなく想定もされていなかった災害であっただけに、その対応は手探りで、当然ながら混乱も相当なものでした。
横倒しとなった高速道路や、中央部が押しつぶされたビルと並んで、地震のすさまじさを物語る光景としてしばしば取り上げられたのが、JR東海道本線六甲道付近で、高架部分が崩壊して線路がぐにゃぐにゃになった姿など、鉄道施設の被害でした。
これらの被害により、阪神間の鉄道網はすべて麻痺し、被災地での移動が困難を極めただけでなく、物流のかなめである東海道・山陽本線、ならびに山陽新幹線も寸断されたことで、その影響は広範に及びました。このため、いわゆるライフライン復旧の一環として、鉄道運行の再開が急がれることとなりました。
JR西日本は、他社の支援も受けつつ復旧を急ぎ、震災からおよそ2ヶ月半後の4月に在来線・新幹線とも開通にこぎつけました。当初の被害の甚大さを考えると、驚異的な速さでした。なお、不通の期間には、福知山線〜播但・加古川線を使っての迂回輸送が行われました。前年末に開業したばかりの智頭急行「スーパーはくと」用の車両も、播但線での代替輸送にかり出されました。また、車両数確保のために、新快速用223系が当初予定より前倒しで投入されました。
併走する阪急・阪神は6月に全通しましたが、先に復旧したJRに流れた客も多く、以降私鉄陣営がJR相手に苦戦を強いられる一因となりました。12年が経過し、阪神間の震災の爪痕はかなり目立たなくなりましたが、災害に対するこの国の取り組み方は、このときを境に大きく変わりました。同時にそれは、鉄道業界にとっても、ひとつのターニングポイントとなる出来事でした。