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 客レ堪能


 1994年10月9-10日
 三ノ宮→大阪→赤碕→鳥取→倉吉→浜坂

  91年8月以来の夜行列車利用の、また宿泊を伴う鉄道旅行。今回は初めて「ミニ周遊券」を使用する(注1)。「鳥取・浜村ミニ周遊券」は、香住〜倉吉間などの自由周遊区間と、神戸市内からそこまでの経路を含めて7,620円。これは神戸と鳥取を単純に往復する運賃より安く、しかもミニ周遊券の場合は経路と周遊区間内で急行の自由席を利用できる。大盤振る舞いな切符だ。

  とはいえ「急行に乗れる」というメリットについて言えば、急行そのものが急速に減少してゆく中でその恩恵に浴せる機会は多くない。その数少ない列車として、今回は夜行急行「だいせん」と陰陽連絡急行「砂丘」を往路・復路それぞれで利用する。

  三ノ宮 22:00 → 大阪 22:19 [新快速 3600M/電・221系]

  今回の旅は三ノ宮からの出発。豪快に走ってくれる221系の新快速に身を任せ、大阪へ。「だいせん」の入線は1番線(注2)。ホームで待つ人は意外と多かったが、窓際の席を確保できた。

  大阪 22:35 → 赤碕 5:20 [急行「だいせん」705レ(倉吉から快速3735レ)/客・12系]

  「だいせん」はDD51ディーゼル機関車が5両の客車を牽引する。14系の寝台車が3両、12系の座席車が2両。自由席は最後部の5号車だ。席はおおかた埋まり、家族連れや中年の利用者も多い。客車列車らしく、先の新快速と比べると実に静かでゆっくりとした滑り出しで、これから遠くに行くというムードを高めてくれる。とはいえしばらくは、近年都市路線化の著しい福知山線を進む。

  三田あたりからしばらく意識が飛び、気づくと福知山。客はだいぶ減っていた。ここから山陰本線に入る。次に目が覚めたのは余部鉄橋のあたり。ここには昨年訪れているが、深夜3時半ごろでも足音の変化でそれだとわかる。もちろん外は真っ暗だが、この先は自分にとって初めて踏み入れる路線になる。

  4:12に鳥取、まとまった下車があった。これまでゆっくりと進んできた「だいせん」がスピードを上げる。外は見えないが平地部に入ってきたらしい。倉吉着は4:54。

  ミニ周遊券の周遊区間は倉吉が西端なので、本来はここで降りて東側に引き返すべきなのだが、ここで降りると次に乗りたい列車まで2時間以上待つことになる。こんな早朝に時間を潰すすべが思いつかないし、寝たか寝てないかよく分からない夜行列車の寝覚めは悪い。そんな躊躇があって腰が上がらないうちに、列車は倉吉を出発してしまった。そこで5駅先の赤碕まで乗り越すことにする。

  ここから急行「だいせん」は無名の快速となって終点出雲市を目指す。列車が末端区間でランクダウンするのは急行では珍しくないが、急行自体が減ったのでこれも貴重な経験である。

  赤碕は一応一部の特急が停まる駅だが駅前は寂しい。時間も時間なので窓口も売店も開いていない。1時間ほどあるので海に向かって歩き、ドライブインのような場所から日本海の水平線を見下ろす。だんだんと明るくなってきたが、あいにくの曇り空。

早朝の赤碕駅 

  赤碕 6:30 → 鳥取 7:55 [快速 3420レ/客・12系] 

  さて、ここから乗り込むのは鳥取行きの快速、赤碕を出る上りの一番列車だが、この列車はさきほどの「だいせん」と同じく、ディーゼル機関車が牽引する客車列車だ。山陰本線のような地方幹線には客車による鈍行が比較的近年までかなり残っていた。あと10年早く生まれて鉄道旅行ができていたら、旧型客車が我が物顔で走る山陰路線を堪能できただろうが、すでに客車列車自体が残り少なく、あえて選んでゆかない限りはキャッチできない存在になっている。

  この3420レは12系客車の3両編成。先ほどの「だいせん」と同じタイプなので既視感がある。もとは急行用の車両なのでハイグレードに感じられる。海に近い高台を軽やかに東進する。由良で5分停車し、同じような客車列車と離合する。

  明るくなると判ってくるが、倉吉は意外と辺鄙な場所だ。その次の松崎では、近くに東郷湖という湖がある。秋祭りの時期らしく、あちこちに地元の神社ののぼりが揚がっている。平日なら学生が増えてくる頃だが、今日は休日なので大して客は増えないまま終点鳥取に到着する。

山陰でも希少な存在となった客車鈍行

 砂丘を巡る

  鳥取に来て、まず押さえておくべきはやはり鳥取砂丘だろう。というわけで、朝食もそこそこにバスに乗りこみ、砂丘を目指す。

 鳥取 8:30 → 鳥取砂丘 8:50 [日本交通バス] 

  浜のほうに向かって20分ほど走ると「砂丘東口」というバス停に着き、そこから少し歩くと、見えてきました鳥取砂丘。一面に砂が広がる光景は、砂漠のようとまではいかないが、これは日本の景色かと目を疑う。そしてなだらかに盛り上がる砂の山。そこを歩く人々の姿が、なんと小さく見えること。

広大な砂丘 その向こうには日本海

  足を取られながら砂山を登り、その上に立つと見下ろされる日本海。遮るものがなくすっきりとした水平線が見渡される。普通の砂浜とはまた異なる趣で、鳥取砂丘のスケールのほどを改めて実感できる。

海を望む

  鳥取砂丘というと風が織りなす「風紋」が有名で、ガイドブックなどを見れば一面に砂が波打ったかのような模様が描かれた写真が載っているもの。そこまで美しい風紋に出会うのは難しかろうが、せっかく来たからにはせめてそれっぽい風景に出会えれば…と思って歩き回ってみる。だがやはりそう簡単にはゆかず、下の写真のようなガサガサの模様に出くわすのが関の山。

荒涼とした砂地が広がる

  一面の砂地、当然普通に歩くより負担は大きい。足が痛くなってきたのでこれ以上歩き回るのはやめ、あとは土産物屋を巡って物色する。変わり種として「梨ジュース」なるものを買ってみる。梨自体もともとこれという味があるものではないので、どんなものかと思ったが、梅ジュースを薄めたような微妙な味だった。

 鳥取砂丘 11:40 → 鳥取 11:58 [日本交通バス]

  再びバスに乗って鳥取駅に戻ったのがちょうど正午ごろ。駅弁の「元祖かに寿し」(アベ鳥取堂製)を買って列車の旅を再開する。

 周遊区間を行ったり来たり

  鳥取 12:33 → 倉吉 13:17 [普通/気・キハ181系]

  ここからまた西を向き、倉吉を目指す。列車は特急用のキハ181系。昨年春の旅行でも城崎から餘部まで乗った普通列車がキハ181系だった。山陰では特急や急行の車両が平気で鈍行に入るのかと驚くが、それだけローカル車両が手薄だということだろう。走りはさすがにパワフルだ。

  ここで鳥取駅弁の「かに寿し」を食しておく。ここのは並在るかに寿司の中でも由緒があるらしく(全国で初めて通年販売を可能にしたとのこと)、ふんだんな かにの身が贅沢な気分にさせてくれる。散らされた生姜が良いアクセントになっている。

  倉吉からはバスに乗って倉敷市街へ向かう。市中心部は倉吉駅から離れており、バスで10分余り走ったところ。かつては倉吉から市街地を経て山守に至る倉吉線が存在したが、1985年に廃止されている。

  かつて打吹城というお城があったという打吹(うつぶき)公園は市街地の南側にそびえる小山。小さな動物園のようになっていて猿が飼われている。城自体は江戸時代初めの一国一城令で廃されたものの、都市としてはその後も栄えたようで、町並みの中には昔の土倉群が保存されている。「倉吉」という地名もここから来ているのだろうか。

文字通り倉の街、倉吉 

  旧倉吉線の拠点駅だった打吹駅跡が「倉吉線鉄道記念館」として整備されている。この駅は1972年まで「倉吉駅」を名乗っており、現在の山陰本線緒倉吉駅は「上井駅」だったという。つまり名実ともに倉吉市の中心駅だったことになる。そんな駅が今や「遺跡」と化してひっそりたたずんでいるのはわびしい限りだが、こうしてその姿を偲べるだけ幸いかもしれない。(注3

旧倉吉線打吹駅跡の倉吉線鉄道記念館 

  倉吉 15:24 → 浜坂 17:06 [普通 3188D/気・キハ58系]

  バスで倉吉駅に戻り、あとは今日の宿泊地となる浜坂を目指す。列車はキハ58系とキハ47の2両編成。ローカル幹線らしい編成だが、乗り込んだのは急行形のキハ58なので、今日は結局特急または急行車両ばかり乗ったことになる。鳥取までしばらく寝ていた。

  ここから先は夜中に「だいせん」で通過したきりなので、実質上初めて臨む区間だ。鳥取を出るとしばらく市街地を進み、山間に入る。次の福部まで11.2kmもあり、その途中に滝山信号場がある。勾配の途中にあるためスイッチバック式になっており、列車は引き込み線に入って停車、下り特急の通過を待つ。ホームも何もない場所に8分間も停まるというのは不思議な気分だ。その後引き返して反対側の引き込み線に入り、そこから再び浜坂方面へと進み出す。(注4

  引き続き山がちな地勢の中を進み、居組からは兵庫県に移る。まもなく浜坂。今夜の宿泊は浜坂ユースホステル(YH)。YHの利用は91年夏の山口YH、広島YH以来。空は薄暗く雨がぱらつく中、浜坂駅から鳥取方面へ戻る方向に歩き、列車がトンネルでくぐってきた峠を登って20分ほどでたどり着く。

  明日は平日ということもあり、今夜の客はなんと自分ひとり。にもかかわらず食事は豪華でなんだか申し訳ない気持ちになる。部屋はコンパクトな中に二段ベッドという、なんだか林間学校の宿舎を彷彿させる雰囲気。予報によれば、残念ながら明日も天気は芳しくないようだ。

 山越え急行「砂丘」


 1994年10月11日
 浜坂→鳥取→岡山→粟生

  翌10月11日。昨日からの疲れもあって予定より遅い起床となった。たった一人の客のために諸々の用意をしてくださったペアレントさんたちに改めて感謝。浜坂は今回巡る時間が取れなかったので、いつか再訪したいと思いつつ後にする。(注5

浜坂YHの裏から望む日本海 

  浜坂 9:00 → 鳥取 9:53[54] [普通 167D/気・キハ40系]

  幸い天気は思ったほど悪くない。今日のトップとなる列車はキハ47の2両編成。山陰で純粋なローカル車両に乗るのは今回はこれで最初で最後になる。東浜から再び鳥取県に入る。文字通り鳥取の最も東に位置する浜で、松林の連なる砂浜の向こうに日本海が広がっている。ここもいつかは訪れたい場所だ。(注6

  鳥取 10:15 → 岡山 12:53 [急行「砂丘3号」603D/気・キハ58系]

  鳥取からは岡山行きの急行「砂丘」に乗り込む。4両編成の3号車はキハ65、車内は昨日乗った12系客車に似ている。全体的に柔和なデザインのキハ58系の中にあって、角張った雰囲気の車両だ。席はおおかた詰まっている。このあたりはさすが陰陽連絡急行として機能しているということか。この先因美線を経由して津山へ、そして津山線を経て岡山へと向かう3時間ほどの行程だ。

  鳥取の街を後にして郡家(こおげ)。ここで「鳥取・浜村ミニ周遊券」の自由周遊区間が終わり、この先は神戸市内へと戻る復路に入る。ここで青とピンクの模様が入った見慣れない車両とすれ違う。来たる12月3日に開業する智頭急行の車両が試運転しているようだ。

  大阪・姫路方面と鳥取を結ぶバイパス線として計画された智頭線(上郡〜佐用〜智頭)は、国鉄末期の建設凍結の後第三セクター「智頭急行」が工事を再開し、ついに開通にこぎ着けることになった。これが開通すれば関西と鳥取の間の所要時間が大幅に短縮されるはずだ。ただし高規格の智頭急行区間に対し、経路の一部となる因美線(智頭〜鳥取間)は旧態依然で、ギャップが激しそうだ。

  そんな智頭急行の開通を待つばかりとなった智頭を出ると、「砂丘」は山越えにさしかかる。非力な旧式気動車はてきめんに速度を落とし、揺れも激しい。ノートに書こうとする字がゆがむ。駅を通過するときには更に速度を落とし、今にも停車しそうなくらいだ。この区間では今や希少なタブレット授受が行なわれており、通過駅では走りながら受け渡しがなされるためだ。ポイントの操作も転轍機による手作業。

  併走する国道には梨の直売所が出ている。やがて鳥取県と岡山県の境界となる物見峠を越えると一転下り坂となり、あえぎながら進んできた気動車がうそのように軽快に走り出す。それでも相変わらずよく揺れ、やはり山陰「本線」などとは格が違うんだなと思う。ちなみに智頭あたりから2号車に移動した。「キロハ28」つまりグリーン車と普通車が半々となった車両だ。もとは全車グリーン車だったのを改造したのだろう。グリーン席とは仕切られ、当然ながら半室なのでいささか狭苦しい。今や半室とはいえグリーン車が連結された急行は珍しい。

美作加茂の転轍機 

  やがて盆地が広がり、岡山北部の中心都市・津山に至る。ここは因美線・津山線と姫新線が交わる要衝であり、かつては優等列車を含めて多くの列車が行き来していたのだろう、広々とヤード跡が広がるが、今はかなり縮小されていると見え、1,2両程度のワンマン列車が車庫にたむろしているくらいだ。

  岡山まであと1時間余。津山線に入り、なだらかな山々に囲まれた田園地帯を進んで行く。平地が広がってスピードが出てきたなと思うともう岡山が近い。智頭急行が開通すれば、バイパス線の高規格ぶりとこの因美線〜津山線ルートの貧弱さは何かと比較対照されそうだが、その開業前に陰陽連絡急行の旅を味わっておけたのは幸いだった。

岡山に着いた急行「砂丘」 

  岡山 13:21 → 姫路 14:45[46] [普通 1416M/電・115系]

  あとは山陽本線を東に進むのみ。7両編成の姫路行きは一昨日の新快速以来の電車。走行のメリハリはここまで乗ってきた列車たちと比較にならない。ボックス席を占有できたので、岡山駅で購入した「桃太郎の祭ずし」を昼食にいただく。容器は岡山の桃太郎にあやかって桃のかたちをしている。やや甘めの寿司飯に、ままかりやエビなどが載り、「祭ずし」の名にたがわぬ華やかさがある。パッケージの説明によると、岡山藩の倹約令に対抗し「せめて祭りは」とちらし寿司に贅を尽くしたのが事の起こりらしい。お上と庶民の知恵比べは、いつの時代も変わらない。

  岡山県から兵庫県に戻り、最初の駅が上郡。智頭急行はここに連絡することになる。

  姫路 14:57 → 加古川 15:08 [新快速 3348M/電・221系]
  加古川 15:10 → 粟生 15:36 [普通 743D/気・キハ40系]

  姫路からは221系の新快速が我が物顔のアーバンネットワーク圏。周遊券の効力は神戸市内まで残っているが加古川で放棄し、最後は気動車に回帰して加古川線をのんびり北上する。

 注記

  注記の内容は2016年2月現在。

  1. このほか自由周遊区間内で特急自由席の利用できる「ワイド周遊券」もあった。往復経路は限定されていたが気軽に購入でき、トータルでもかなり割安だったのでメリットの大きい切符だった。だが98年4月に「周遊きっぷ」に変更。ルートが自由に選択できるようになった代わりに値引きの率は低く、規定が複雑で購入の手順も煩雑になったことから利用は芳しくなかったようで、2013年に廃止された。

  2. 当時は大阪環状線ホームは「内回り」「外回り」、その北側から1番線、2番線…となっていた。現在では大阪環状線から通し番号で1番線が始まり、当時の1番線は3番線になっている。

  3. 1974年9月の時刻表によると、倉吉〜打吹間は普通列車ばかり11往復の運転で、4.2kmの距離に気動車は7分、客車列車は10分ほどを要していた。表定速度はそれぞれ36km/h、25km/hほどで、かなりゆっくりした走りだったようだ。

  4. 現在ではこの区間の列車が減少した(特急は「はまかぜ」1往復のみ)ため滝山信号場で待避する列車はないが、設備自体は今も残っている。

  5. 浜坂へは2001年に個人的に再訪し、その際浜坂ユースホステルに再び宿泊した。冬場はカニが振る舞われるYHとして有名だったが、2008年末で休館。再開の目処はなく現在も放置されている模様で、事実上の廃業と思われる。

  6. 2009年に車で訪れた(BLOG)。

 

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