震災の影響も一段落した1995年11月、次に目指したのは北陸地方。「北陸ワイド周遊券」を使用した、実質三日間の旅行でした。
国鉄時代から引き継がれた「ワイド・ミニ周遊券」は、往復経路が限定されるという制約はあったものの、周遊エリアまでの往復には急行、エリア内では急行(「ワイド」なら特急も)の自由席を使うことができ、しかもエリア内は乗り降り自由。あちこち立ち寄りたい私の旅のスタイルからして、うってつけの切符でした。そのうえリーズナブルな価格設定で、1994年の旅行で使用した「鳥取・浜村ミニ周遊券」は、鳥取までの往復運賃とほぼ変わらない金額でした。
この北陸旅行は、そのワイド周遊券のメリットを存分に生かしたものでした。まず夜行急行「きたぐに」で大阪から魚津へ。富山地鉄・黒部峡谷鉄道(これらは別料金)に立ち寄って氷見線・七尾線へ。2日目は金沢観光ののち、北陸の新顔681系の特急「サンダーバード」(当時は「スーパー雷鳥[サンダーバード]」という長々とした名称を名乗っていた。下写真左)で富山へ。3日目は特急「雷鳥」で南下、東尋坊を観光。写真右の485系特急「しらさぎ」にも乗車し、‘特急街道’北陸本線の新旧特急乗り比べとなりました。
新旧北陸特急
ただし、時期が悪かった。季節の変わり目の嵐が続き、初日の宿泊先では夜中に激しい雷雨、金沢兼六園では雹に打たれ、東尋坊でも激しい波と風。観光としては落ち着かないものでしたが、インパクトだけは強く残った旅行でした。
1996年正月、「青春18きっぷ」を使用した2日間の旅行を敢行。この年以降、2003年度を除いて毎年、年末または年始に「雪見旅」と称して北国へ出かけるのが恒例行事となりました。
このときは、高山本線、東海道本線を乗り通しました。高山線では北上につれて雪が深くなる、まさに「越境」の醍醐味を味わい、これ以降冬の旅行に病みつきになるきっかけとなりました。またこのとき、夜行快速「ムーンライト」に新潟→新宿間乗車。同年春に「ムーンライトえちご」と名を変えたこの列車は、以後18きっぷ旅の定番列車となり、07年までに合計9回利用しています。
高山本線の北半分は、このキハ58系普通列車で走破
夜行快速「ムーンライト」。165系のこの列車には、以後幾度となく世話になった
96年5月の美作(みまさか)旅行では、姫新線、因美線、智頭急行を利用。新旧の「陰陽連絡線」を乗り比べる格好でしたが、津山経由で岡山と鳥取を結ぶ急行「砂丘」がまだ健在で、因美線内には腕木式信号が残り、タブレット交換も行われていた時代でした。11月には関西線を亀山まで辿る。この2件は、私としては珍しく、普通乗車券を利用した旅行でした。
因美線美作加茂にて
同年12月の新潟・長野旅行は、3連続車中泊という、若かりし私の最大のチャレンジといえたものでした。1泊目は急行「きたぐに」(大阪→長岡)、2泊目は快速「ムーンライトえちご」(新宿→新津)、3泊目は快速「ムーンライトながら」(東京→大垣)。飯山線、上越線といった雪国のほか、翌年の廃止が決まっていた信越本線横川〜軽井沢間の碓氷峠越えも経験。この旅は、どうすればいかに多くの新しい路線に乗れるか、とどん欲に追求していた、当時の私の旅行スタイルを象徴するものでした。
飯山線 千曲川流域の風景
横川にて 特急「あさま」に連結されるEF63機関車
なお、新潟・長野旅行で余った「青春18きっぷ」を使って、1997年の正月には岡山までのミニ旅行を行っています。
JR発足から10年を経た1997年、鉄道界にひとつの節目となる出来事がありました。同年10月、北陸新幹線高崎〜長野間(長野新幹線)が開業、このさい並行する在来線のうち、信越本線横川〜軽井沢間が廃止、軽井沢〜篠ノ井間が第三セクター「しなの鉄道」に移管となりました。新幹線開業に伴う移管・廃止はそれまでにはなかったことでしたが、これを「前例」として、東北新幹線盛岡〜八戸間(2002年12月)、九州新幹線新八代〜鹿児島中央間(2004年3月)の開業のさいには、並行在来線の第三セクター移管がなされました。
廃止となった横川〜軽井沢間は、66.7‰(1000mにつき66.7mの高低差)という、当時のJRで最も急な勾配を有し、すべての列車に補助機関車EF63が連結される区間でした。この機関車の付け外しのために、横川・軽井沢両駅で数分の停車があり、その間に横川駅ホームで売られる「峠の釜めし」は、旅の風物詩として有名な存在でした。(もっとも、駅で売れる数より、近くのドライブインで売られる数の方がはるかに多い状態だったそうです。)東京と長野を結ぶ主要幹線に、そんな区間がこの現代まで残っていたというのは奇跡的なことでしたが、ついに21世紀の到来を待たずして、消えることとなったのです。
その廃止まで1ヶ月を切った同年9月、私は「信州ワイド周遊券」を使った信州旅行へと出かけました。急行「きたぐに」で出発、信越線高田では急行「赤倉」の通過を見送る。「赤倉」は、急行形電車165系を使用した最後の急行であり、新幹線開業の陰でひっそりとその任を終えました。
長野新幹線開業のさいに消えた「赤倉」。165系最後の急行だった
高田より、特急「あさま」で信越線を南下し、軽井沢で下車。最後の月の日曜日とあって、たいそうな人出でした。満員の普通列車で碓氷峠を下り、着いた横川はさらに大盛況。前年末に訪れた時のひっそりとした状態から一変、狭い駅舎は切符を買う人々でごった返し、駅を出ると、峠を越える列車たちの最後の勇姿を収めようとするファンの姿が方々に。
ディーゼル機関車に牽引される客車列車
まもなく在来線特急としての任を終える「あさま」で、最後の碓氷峠通過ののち、小諸から小海線で最高地点を越え、夜は諏訪湖の新作花火大会を楽しむ。偶然の遭遇でしたが、各地の花火職人が意匠を凝らした変わり種花火の数々に感嘆。
諏訪湖の上に次々打ち上がる、新作花火
翌日はあいにくの雨。バスで白樺湖へ向かい、見物。最終日も天候に恵まれませんでしたが、大糸線に乗って穂高に向かい、わさび農場などを見物のうえ、家路に就きました。ちなみに、「ワイド・ミニ周遊券」は翌98年に廃止となり、この長野旅行が「ワイド周遊券」での最後の旅行となりました。
「横軽」は惜しまれつつ9月末をもって廃止となり、10月1日に新幹線高崎〜長野間が開業。「北陸新幹線の部分開通」という名目に配慮してか、当初は「長野『行』新幹線」を名乗っていましたが、定着しなかったらしく、いつしか「長野新幹線」が通称となりました。
その10月、JR西日本エリア限定で普通列車1日乗り放題の「鉄道の日記念切符」を使って、紀勢本線の旅に。当時紀勢線には、新大阪→新宮という片道だけの夜行普通列車があり、それを活用しての旅でした。この紀州夜行も、当時紀勢線の主力だった165系電車も、今や過去の存在となりました。
165系の「紀州夜行」
1998年。2月には阪神と山陽電鉄との間で、神戸高速鉄道を介した「直通特急」の運転が開始されました。それまでも、阪神・阪急と山電の間で部分的な乗り入れは行われていましたが、1995年の阪神大震災を機に、JRに対する劣勢が顕著になり、その挽回策としての全面乗り入れの開始でした。(阪急車の山電乗り入れは解消。)
5月、山陽姫路から阪神梅田までの旅行を敢行。阪神西宮〜梅田間では山陽電鉄5000系「直通特急」に乗車し、過去に阪神沿線に住んでいた私にとって、その線路を山陽電車が走るようになったのは感慨深いことでした。同時に、かつて「私鉄王国」と言われた関西鉄道界の力関係が明らかに変わってきたことを実感する機会でもありました。
直通特急の運転は、画期的な出来事ではありましたが、スピードではJRの新快速に遠く及ばす、運賃面でも神戸高速が挟まるぶん割高になってしまうというハンデがあり、なかなか失地回復とはいかないのが現状です。2001年には「直通特急」を増やし(山電側の特急の大半が「直通」に)、同時に停車駅を増やして、沿線利用者を確保する策に出ました。一方JRは、依然優位に立つスピード面をアピールし、山陽電鉄との接続駅である明石に「速さはJRのあかしです」という看板を掲げていましたが、2005年の福知山線脱線事故を機に、この看板は姿を消しました。
北陸・関東・甲信越へと進出してきた私にとって、次に目指すは東北地方でした。98年10月、その機会が訪れました。
98年に、前述の「ワイド・ミニ周遊券」が廃止となり、代わって「周遊きっぷ」が登場しました。従来限定されていた出発地およびエリアまでの経路が自由になったり、周遊ゾーン内で特急が利用可能になったり(従来は「ワイド周遊券」のみ可)と、一見便利になったかのようでしたが、実際には周遊ゾーンが中途半端で使いにくかったり、購入時の手間が増えたり、そしてなにより、金額面での旨みが薄れてしまって、「元を取る」のが難しい切符になってしまいました。
そうは言っても、「18きっぷ」外のシーズンに、ある程度の自由度を持たせた旅をするには、他に選択肢がなく、今回は「福島・蔵王ゾーン」の周遊きっぷを使用。往路では、三ノ宮→東京間で、登場間もない285系寝台電車「サンライズ出雲・瀬戸」を利用。すべての寝台を個室としたほか、指定席特急料金で雑魚寝のできる「ノビノビ座席」を連結。(私はこの「ノビノビ」を使用しました。)寝台列車のニュースタイルと期待されたものの、その後ほかの列車に波及することはなく、夜行列車の退潮に歯止めがかかることはありませんでした。
寝台特急の新星「サンライズエクスプレス」
東京から乗ったのは、新幹線「つばさ」号。1992年、奥羽本線福島〜山形間の線路を改軌(新幹線と同じ幅に)し、東京から新幹線が直通できるようになりました。この際に導入されたのが400系車両で、もともと在来線規格の軌道を走らせるため、通常の新幹線より車体が小ぶりな、いわゆる「ミニ新幹線」。それでも、福島までは「やまびこ」と連結し、一人前に時速240kmを出します。この列車は東京から福島まで停まらず、遠き地であった東北に一気に到達。福島で「やまびこ」と分かれた「つばさ」は、地平に下り、板谷峠を越えて山形へと入ります。
ミニ新幹線、山形へ
この旅行では、山形から蔵王へと登り、蔵王山の「お釜」を見物。蔵王温泉で宿泊し、さらに蔵王高原、松島などを見物する旅行でした。山形〜蔵王のバスや、仙台から松島への運賃は「周遊きっぷ」とは別料金であり、結局のところ周遊きっぷのメリットをあまり生かし切れなかった旅行でした。復路では、福井の越美北線に乗り、戦国大名朝倉氏の居城のあった一乗谷に立ち寄る。(この越美北線は、2004年7月の水害で大きなダメージを受け、この一乗谷から先美山までが、3年近くにわたって不通となりました。)
標高1800mの絶景 蔵王「お釜」
夕刻の松島