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 新緑の津山城


 1996年5月6日
 三木→姫路→津山→智頭→上郡→姫路→三木
  三木 5:35 → 厄神 5:48 [三木鉄道普通 110レ/気・ミキ180形]

  今回の旅は、第三セクターの三木鉄道でスタートする。国鉄三木線から転換されたこの路線、出発点(運用上は終点)となる三木駅は三木市街の外れにある。列車はミキ180レールバスの単行、その一番列車に乗り込んだのは私一人。私がいなければ、文字通り空気輸送になっていたところだ。

  昇ったばかりの朝日を背に受け、2軸レールバスの小ぶりな車体は、レールの継ぎ目でガッ、タン、ガッ、タンと生々しい振動を伝え、上下左右に揺れながらゆっくりと進んで行く。途中石野でようやく二人目にして最後の乗客を乗せ、三木市から加古川市に移るとまもなく厄神。

 三木鉄道ミキ180

  厄神 5:51 → 加古川 6:03 [普通 722D/気・キハ40系]

  厄神でホーム向かいのJRの気動車に乗り換える。走りの重いキハ40系だが、三木鉄道から比べると軽快に感じる。

  加古川に着くと、それと入れ替わりに何と、ジョイフルトレインにような客車列車が加古川線に入っていった。普段ローカル気動車しか走らない路線なので意外な光景だったが、ゴールデンウイークということで何かのイベントがあるのだろうか。貧相ながらも昨年の阪神・淡路大震災では代替路線のひとつとして機能し、今ちょっと脚光を浴びているのかもしれない。

  加古川で一旦改札を出て、切符を買い直す。自分の旅としては珍しく、今回は普通の乗車券を利用する。往路は姫路から姫新線に入って東津山へ、そこから因美線を経由して智頭を目指す。そんなルートでの乗車券を求めたところ、駅員に随分いぶかられ説明に難儀した。無理もない。津山経由で鳥取に至る急行「みささ」があった時代ならいざしらず、今智頭を目指すなら普通は智頭急行を使うはずで、こんな不便で時間のかかる経路をわざわざ選ぶのは私のような物好きくらいだ。ようやく手にした乗車券には「経由:山陽・姫新・因美」の文字。

  なお智頭急行ルートは復路で利用する。行きと帰りで新旧ルートを乗り比べようというわけだ。

  加古川 6:11 → 姫路 6:28 [普通 927M/電・221系]

  姫路へは221系の普通列車を利用する。加古川線からもう一段スピードアップだが、新快速用の車両としては実に緩慢で性能を持て余した走りだ。後継の223系が登場し、この221系もやがては脇に転じてゆくのだろう。

朝日輝く姫路駅にて 

  姫路駅の駅そばで腹ごしらえをして、これから姫新線に入って行く。列車はキハ40系の2両編成で、1両目はオレンジとベージュ、後部は黄緑色の車体に赤とんぼが描かれている。これから今日の旅は大半が気動車の行程となる。

  姫路 7:06[00] → 佐用 8:23 [普通 843D/気・キハ40系]

  佐用行きの列車は対向待ちのため6分遅れで姫路を出発。山陽本線から分かれ、姫路郊外へと向かう。朝のラッシュ時間に入り、行き違う上り列車は客が多い。姫新線は地形に逆らわず、西→北→西→北と階段状に進路をとる。播磨新宮を過ぎると山間に入り、のんびりペースで進んでゆく。

  いつしか遅れはなくなり、終点佐用に到着。ここは智頭急行との接続駅となっている。智頭急行は山陽本線上郡と因美線智頭を結ぶが、途中この佐用が唯一JRとの接続駅となっている。姫路〜佐用間で比較すると、姫新線が45.9kmに対して山陽線・智頭急行線経由が52.0kmで、若干遠回りをしているにもかかわらず、特急「スーパーはくと」だと40分ほど。姫新線鈍行が姫路から佐用に達する時間で、「スーパーはくと」は鳥取の手前まで到達する。智頭急行に合わせたか、横に並ぶ姫新線側のホームも近代的なコンクリート造りになっているが、両者に線路のつながりは全くない。乗り入れなどは端から想定されていないようだ。

  佐用 8:25 → 東津山 9:19 [普通 2823D/気・キハ40系]

  そんな立派なホームを介して、2両の列車から1両の列車に乗り換える。津山行きのワンマン車で紺色の車体に白いラインが引かれている。次の上月(こうづき)から山越えにかかり、兵庫県から岡山県に移る。国鉄世代の気動車は馬力がないのか、とにかく坂に弱い。車体をきしませながらのろのろと走る。これが精一杯なのだろう。

  岡山県に入ると、屋根瓦の黒光りした風格ある家々が目に付く。これまではあまり見なかったもので、播磨と美作の文化圏の違いだろうか。風景そのものは相変わらず単調で、特に見るべきものはない。林野で乗客が増える。増えたといっても席が一杯になるくらいで、1両で十分運べる程度だ。

  因美線との接続駅である東津山へ。拠点となる津山駅の一つ手前だが、切符の経路からすればここから因美線に入って智頭を目指すことになる。ここで途中下車し、江戸時代に津山城の城下町として栄えたという津山の街を歩いてみたい。

  駅を出ればすぐ前を国道53号が走っている。人気のない駅と対照的に、4車線の道路を車が盛んに行き交っている。これを西へ向かえば津山市街だ。しばらく進み、北を併走する旧出雲街道に入る。景観保全に努めているのか、昔ながらの家並みが残っている。時折道がクランク状に曲がっているのも、いかにも城下町らしい。ロードサイド店舗が建ち並ぶ国道と対照的な静けさだが、車社会になるまではむしろこちらがそういう道路だったのだろう。

城下町津山の町並み 

  やがて街道は津山城跡の麓に。織田信長の小姓として知られる森蘭丸の弟にあたる森忠政が初代津山藩主として築城し、のちに松平氏が幕末まで治めた。明治維新の折に惜しまれつつ廃城され建造物は残っていないというが、何層にも連なる石垣は今も残り、市街地の中にでんとそびえている。

その石垣の立派さに往時の偉容が偲ばれる 

  新緑の美しい城跡を登って行き、本丸跡までたどり着くと吉井川のなす盆地に広がる津山の市街地が一望できる。遅咲きの桜がはらはらと散り、つつじはまだつぼみ。ちょうど花の過渡期で残念だったが、それでも頑張って登ってくる価値はあった。

津山城から市街を望む 

  麓に戻って土産物を買い、吉井川を渡って津山駅に向かう。市街地そのものはありがちな地方都市のそれだ。

 陰陽連絡線 新旧乗り比べ

  津山駅は姫新線(姫路方面・新見方面)、津山線(岡山方面)、そして実質上因美線(鳥取方面)、この4方向への路線が交わる交通の要衝。車両区の中にはおなじみのキハ40系に加えて、JR西日本ローカル線合理化の切り札、キハ120形の姿もあった。

  現在津山を通る優等列車は鳥取〜岡山間の急行「砂丘」だけになってしまったが、かつては姫新線急行「みささ」「みまさか」の分割併合(「みささ」は「みまさか」と分割後ホームを替えて「砂丘」とくっつくという芸当もこなしていた)も行われるなど、優等列車の拠点でもあった。中国自動車道が整備されて高速バスが発達するにつれてそうした役目は薄れ、今ではJRの「身内」が津山駅前から大阪行きのバスを走らせている有様だ(注1)。

留置される車両も多種多様 

  次の因美線列車は12:46発。津山から東津山までは智頭行きの切符のルートをはみ出すので、この区間分だけ切符を購入する。また、昼食用に「ちらし寿司」を購入。幾らか時間はあるが、待合所は賑やかで、ここで食べる気にはなれない。隣に座ったおじさんが私を指して「若い子の前でこんな話をするのはなんだけど…」などと言いながら、知り合いと男女の営みの話で盛り上がっていたのには閉口した(注2)。

  津山 12:46 → 美作加茂 13:15 [普通 686D/気・キハ40系]

  列車はさっき東津山まで乗ったと同じタイプの、キハ40の単行。津山駅構内の広さに比して、これで十分事足りてしまうローカル輸送の現実に寂しさを覚える。1区間進んで東津山からもとの切符のルートに復帰し、因美線へと入って行く。ちょっと意外だが、因美線は鳥取が起点となっており、東津山は籍の上では終点の扱いだ。1年半前、急行「砂丘」で鳥取側から走破しているが、今回は鈍行で終点側から入ることになる。

  この因美線、智頭〜東津山間には「タブレット閉塞」が残っている。簡単に言えば、離合できる駅同士の間(閉塞区間)に固有の「タブレット」(閉塞区間毎に同時に1つしか発行されない)を持たない列車は進入できないようにして、列車の衝突を防ぐシステムだ。原始的かつシンプルな仕組みだが、離合駅ごとにタブレットをやりとりしてポイントの操作を行なう人員が必須であり、昨今の合理化推進でほとんど姿を消してしまった。今のうちにその姿を実際に見ておこうというのが、今回の旅の目的の一つである。

  因美線に入って最初の高野で早速そのやりとりを目にする。ワンマン運転なので運転士はまず降車客を捌き、一段落ついたところで次の閉塞区間のタブレットが装着された輪(タブレットキャリア)を手にした駅員と交換を行なう。そして駅員がポイント操作のテコを動かして進行信号を出し、運転士は運転席に戻って列車を出発させる。おのずと駅での停車時間は長くなる。ローカル線だから許される悠長さだ。

  ひなびた田園風景の中を進んで、美作加茂で列車を降りる。前回急行で素通りした因美線内のどこかで途中下車をしたいと思い、急行停車駅であるこの駅なら何か見所があるだろうかと踏んでのことだった。しかし運転士に「この切符で途中下車できるの?」と問われる。経路にはちゃんと「因美」と書かれてあるし、距離も100kmを超えているので何ら問題はないはずだが、こういう形での途中下車自体がレアケースなのだろう。運転士はいぶかりながらも、タブレット交換しに来た駅員に確認したうえで降ろしてくれた。

  列車が去り、降車した人々も散ってゆくと、しんとした駅前に自分一人が残された。「急行停車駅」という名目とは裏腹に、旧街道のような駅前通に古めかしい家々が並び、店といえば古びた酒屋と新聞の販売所があるくらい。さてここで1時間半もどうして過ごそうか…

美作加茂の木造駅舎 

  とりあえず駅から南方へ歩き、踏切を渡ると、駅と腕木式信号機を望める場所にたどり着いた。ちょうどまもなく、13:43発津山行きの普通列車が来るので、その通過を見届けよう。

  さっき乗っていたと同じ、紺色キハ40の単行が駅に着き、しばらくするとガチャンという大きな音とともに、腕木式信号の横棒が下りて青信号に。これは駅ホームのテコ(転轍機)からワイヤーでつながっており、手作業の味を感じさせる。それからもうしばらく間を置いて、列車が出発。

腕木式信号機の間を行く 

  列車のエンジン音が遠ざかり、静寂が戻りかけたころに、再びガチャンという音が響く。ポイントが切り替わり、信号が再び赤になった。次に私が乗ることになる14:52の智頭行きまで1時間以上、ここを通る列車はない。

  近くを流れる加茂川を眺めたりしながら付近を歩いて駅に戻り、だれもいない待合室で遅い昼食として「ちらし寿司」を食する。幾分酢味の濃い素朴な寿司だった。

ポイント・信号を操作するテコ 

  美作加茂 14:52 → 智頭 15:46 [普通 688D/気・キハ58系]

  駅の時刻表を見ると、次の14:52発は他の列車と違ってワンマン運転ではない。どういうことかと思って到着を待っていると、入ってきたのは急行カラーのキハ58系2両編成。急行の間合い運用だろうか。デッキつきでボックスシートが並ぶさまは、キハ40にはない落ち着きを感じさせるが、車内に乗客はほとんどいない。

 キハ58系の旅(2)因美線

  中国山地越えを控え、紺色の駅名標に味わいのある知和を過ぎると、列車は勾配にさしかかる。前回、急行「砂丘」でも経験したが、勾配区間でのパワーのなさはてきめんで、エンジンは頑張っているけれどスピードはちっとも上がらない。田植え最中の農村風景を見ながら、上り坂を延々と緩慢なペースで進んでゆく。

  そうするうちに美作河井に。山中の高台にあるこの駅で14分停車し、急行「砂丘」のすれ違いを待つ。前述のとおりこの路線ではタブレットの交換が必要だが、「砂丘」はこの駅を通過する。ではどうするかと言えば、走りながらタブレットの授受を行なうのである。運転助士が元のタブレットキャリアをホームの受け取り柱に投げ込み、その先で柱に取り付けられた新しいタブレットキャリアを取ってゆく。かなりスピードを落としてのこととはいえ、なかなか怖い作業だと思う。こうした走行授受が日常的に行われるのは、いまや因美線だけ。昔は急行の走るローカル線では日常茶飯事だっただろうが、そういう急行自体が数を減らしてしまった。(注3

峠越えするキハ58系。美作河井で急行待ちの小休止 

「砂丘」が通過しながらタブレット授受 

  小休止を終えて列車は美作河井を出発。いよいよここから、岡山県と鳥取県の境界である物見峠越えにかかる。さらに山深まるなか、相変わらずのだらだらしたペースで坂を登り、やがて全長3km以上に及ぶ物見トンネルに入る。煤煙のにおいがツンと鼻をつく。この中で止まってしまったらどうなるのかと思えてしまう速度だったが、あるところを境に列車が急にペースを上げる。ここまでのエンジンの苦しさがうそのように、勢いに任せてトンネルを脱し、転がるように坂を下って行く。ハイ峠を越えましたよと、なんと判りやすいことか。ようやく里まで下りてきたあたりで、鳥取県最初の駅、那岐が見えてくる。

  終点智頭が近づいてきた。‘途中下車できない疑惑'をかけられた加古川からの乗車券の効力もここまでだ。右側から高架の線路が近づいてきて横に沿う。佐用で出会って以来の智頭急行線だ。こちらは津山や美作加茂での寄り道を含めて何時間もかけてここまで来たが、帰りはあちらの線路で一気に戻ることになる。車掌によるこの先の乗り換え案内が放送される。次の智頭線上郡行きの発車は16:10だという。あらかじめ調べているからわかりきったことだが、ワンマン運転にはない放送で、こういう些細なことにも旅の情緒を覚える。お客がいなくて近代化の遅れた路線ほど余分に人手がかかるというのは、経営的には皮肉な話だが、その数少ないお客になれたというちょっとした優越感がある。また今回は乗り放題切符の類ではなく一般の乗車券なので、姫新線や因美線の運営にもわずかばかりの貢献ができたのではという、ささやかな満足感もある。

キハ58系から智頭急行への乗り換え  

  智頭 16:10 → 上郡 17:26 [智頭急行普通 744D/気・HOT3500形]

  智頭からいよいよ、現在の陰陽連絡線である智頭急行に入ってゆく。単行ながらだいたい席が埋まる程度で出発した列車は、さきほど辿ってきた因美線としばらく併走し、分かれたと思いきや高架線に駆け上がり、すぐトンネルに入る。次の恋山形は山の中の駅で、対向列車待ちの4分停車。この恋山形に始まりこの先、剣豪の名にちなんだ「宮本武蔵」、ゆかりある室町時代の武将から取った「河野原円心」など、何がしか地域の特色を出そうとひねりだしたような駅名が幾つかある。

  最初からバイパス線としての使命を帯びて造られた線路だけに、単線非電化ながら高規格で、踏切はほとんどない。旧国鉄が建設を進め、用地はほぼ確保していたのに財政悪化で工事凍結。多くの同様の未成線と同じく徒花に終わるかと思われたが、通過する3県をはじめとする自治体などが出資する第三セクター線として工事再開された。特に鳥取県は従来、貧弱な山陰本線や因美線に依存していただけに、是が非でも実現して欲しい路線だったに違いない。こうして1994年12月、何とか開通にこぎ着けたものの、直後に阪神・淡路大震災が発生。肝心の関西〜鳥取間の輸送ができず、特急用のHOT7000系車両が播但線の代替輸送にまわるという非常事態に見舞われた。列車の走りは至ってスムーズだが、ここに至るにはそれだけの紆余曲折があったのだ。

  約5.6kmもの長さの志戸坂トンネルを抜け、あわくら温泉からは再び岡山県に入る。智頭線は鳥取県から兵庫県に直接入ると勝手にイメージしていたが、実際には美作の東端をかすめており、特急停車駅の大原は車両基地も併設された拠点駅である。実際、智頭急行の車両番号の頭に付く「HOT」は、「兵庫・岡山・鳥取」の頭文字から取られているらしい。

  ホームに剣豪の肖像が描かれた宮本武蔵。人名をそのまま駅名にしたケースは珍しい。ここから再び山を越えて兵庫県に移る。単調な走りにうとうとするうちに、JR姫新線との接続駅・佐用に近づく。智頭からわずか50分足らずで、朝に姫新線から見た隣のホームに帰ってきた。島式ホームの向かいに、キハ181系の特急「はくと」が入ってきた。(注4

ホームに入る特急「はくと」 

  佐用を出ると姫新線をまたぎ、千種川に沿って南下する。最後は山陽本線に合流し、上郡へ。何もかもが対照的な、新旧陰陽連絡線の乗り比べだった。

  上郡 17:34 → 相生 17:46 [普通 1426M/電・115系]
  相生 18:01 → 姫路 18:23 [普通 238M/電・115系]

  あとは帰りの一途。厄神までの切符を買い、山陽本線に乗り換える。朝に加古川から姫路まで乗ったきり、久々の電車。立ち席を余儀なくされるのも、今回の旅の中では初めてのことだ。姫路以降上郡まで、列車はすべて1両ないし2両だったが、休日とはいえそれで十分事足りてしまうのが中国ローカルの現実ということだろう。

  姫路 18:36 → 加古川 18:50 [普通 814K/電・221系]

  今回は姫路から、佐用でクロスする8の字を描く行程を辿ってきたが、それも姫路到着で一巡したことになる。姫路を発つ頃には東からホームを照らしていた太陽が、今は西側に輝いている。この先はもと来たルートをそのまま引き返す。姫路から加古川までは往路と同じく221系。

出発を待つ221系普通 

  加古川 18:57 → 厄神 19:09 [普通 753D/気・キハ40]
  厄神 19:11 → 三木 19:25 [三木鉄道普通 141レ/気・ミキ180形]

  締めくくりはスタートと同じく、三木鉄道のレールバス。車両はミキ180-101から180-102に交代していた。もちろん乗り心地などは変わらず、6.6kmをこまめに停まりながらゆっくりと進み、すっかり日も暮れた三木駅に到着して今回の旅行は終了となる。

 注記

  注記の内容は2016年6月現在。

  1. 西日本JRバスと神姫バスの共同運行。当時において30分間隔、所要時間2時間45分〜3時間程度で運賃は2,600円。姫新線経由なら3,190円で、本数が限られる上に乗り換えが必要で、勝負にならない。

  2. 筆者は当時20代初頭。

  3. 急行「砂丘」は翌1997年に廃止。鳥取〜岡山間の輸送は智頭急行線経由の特急「いなば」(のちに「スーパーいなば」)が担うようになった。岡山〜津山間は快速「ことぶき」に格下げされたが、1往復が急行「つやま」として存続。「つやま」は当初快速として智頭まで乗り入れたが、1999年にはそれも打ち切られ、因美線智頭以南は普通列車だけになった(ただし現在では早朝深夜の合理化を意図した快速が存在する)。「つやま」は結局2009年まで残存し、その時点でJR最後の昼行急行となっていた。なお「砂丘」廃止に伴い、高野および美作河井の交換設備も廃されている。

  4. 関西〜智頭線〜鳥取方面の特急は当初HOT7000系は「スーパーはくと」、キハ181系は「はくと」で運転された。HOT7000系増備に伴い、1997年11月「スーパーはくと」に統一。

 

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