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1.三連車中泊 初日は不眠 |
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1996年12月21-22日 神戸→長岡→戸狩野沢温泉→松本→新宿 |
私は寒いのが大の苦手だが、雪景色を見に行くとなれば話は別だ。雪国の人々にとって、スキー客を呼べるほかには邪魔な存在でしかない、大量の雪。それを楽しもうとは不謹慎かもしれないが、旅先で雪を見ると、いかにも別世界にやってきたという実感が湧くのだ。とりわけ「青春18きっぷ」を使っての鈍行乗り継ぎ旅だと、比較的安い経費で、暖房の効いた車内からのんびり景色を眺められ、適度の途中下車もできる。ある種、とても贅沢な時の過ごし方だと思う。
今回の旅行については、夏ごろから構想を練っていた。あの線にもこの線にも乗りたい、一体どうすればうまくつながるだろうかと、欲張りな願望をかなえるべく、時刻表をめくっては試行錯誤を繰り返し、思案に暮れた。その末にできあがったのが、三夜連続車中泊という、前例のないハードスケジュールだった。宿泊費を浮かしたいという理由だけではない。日の最も短い冬至前後の時期だけに、朝の時間から有効に使いたい。そのためには、列車に乗りっぱなしにするのが一番と思えたのだった。
その1泊目となるのが、大阪発の夜行急行「きたぐに」。今回の旅行の目的を、そのまま言い当てているかのような名前の列車である。
1996年12月21日、土曜日。新快速で大阪駅に着いたのは夜の23時。年末の週末だけあって、この時間になってもホームの人の流れは依然激しい。乗降に手間取るため、新快速は遅れ気味だ。そんな喧騒から離れて、北の端にある11番線に向かう。ここは北陸方面へ向かう長距離列車専用のホームで、これからの長旅を予感させる独特の静けさがある。
神戸側から近づいてくるヘッドライト。その光の先導を受けて、列車の建築限界ぎりぎりかと思える巨体が、ゆっくりと11番線に入ってくる。堂々10両編成。ごつい車体に、いささか安っぽい水色のカラーリングがミスマッチだが、旅人のボルテージは一気に高まる。
「きたぐに」に乗るのは、95年10月以来二度目のことだ。先回は座席の自由席を利用したが、今回は、私のために一つのベッドがあてがわれることになっている。寝台車を利用するのだ。寝台列車は実に、今なき特急「明星」に乗った小学5年生のとき以来だ。さすがに3連車中泊がすべて座席ではきつかろうから、その最初だけでも横になろうと考えたのだが、常々いかに旅費を安くあげようかと考える私にとっては、たとえB寝台であっても、大奮発である。
指定の寝台は、列車先頭の10号車。「きたぐに」のB寝台は3段となっており、その最下段だ。早速ベッドに入り込む。予想通り天井が低い。ただし、幅は広い。時刻表の営業案内のページによると、高さ76cm、幅は106cm。新潟県の長岡まで、約8時間の付き合いとなる。
通路側のカーテンを閉め、いまだ人の流れのやまない大阪のホームを眺めているうちに、不意に車体が揺れ、列車は静かに歩みを始めた。23時23分。この瞬間こそ、真に旅の出発点だと思う。
新大阪を出るとひとしきりの車内放送があり、途中停車駅と到着時刻などが長々と案内された。京都を出たあたりで日付が替わる。これから3連車中泊の長丁場が待っているだけに、しっかり寝ておかねば身が持たない。持参の耳栓を装着して、窓側のカーテンを閉じた。
うとうとして過ごし、途中から目が冴えてしまった。時刻は3時前。外を見ると、地面がいくらか濡れているようだが、雪はない。あまりスピードを出さずに、平地をゆったりと進んでいる。もう北陸に入っているはずだが、まだ雪国ではなく雨国だ。しばらくしてどこかの駅に着いた。駅名標を見ると福井だった。長岡への道中のまだ半分も来ていない。
もっと寝ておかねばとのプレッシャーが先に立ってか、その後眠れなくなってしまった。いろいろと姿勢を取ってみるも、寝付けない。しまいには、「非常食」用に用意したカロリーメイトを食べ、風邪薬を飲んで眠気を誘おうとまでしたが、その試みもむなしく、列車は金沢、高岡、富山へと進んでゆく。実に二時間余り、私はベッドの上でもんどりうっていたのだった。
その後ようやく風邪薬の作用が働いたか、しばらくは寝付けたようで、気がつくと6時前。新潟県に入り、糸魚川に着くところだった。東の空がわずかに明るくなってきた。結局、実質の睡眠時間は3,4時間で、これでは寝台車を取った意味がない。先が思い遣られる。
直江津を出ると外の明るさが増し、通路の人の往来が盛んになってきた。まだ、周囲に雪はない。しかし、南方に連なる山々が朝日に照らされて美しい。柿崎より先、北側に日本海が近づくはずだが、私の寝台の逆方向なので、着替えてデッキへ。デッキには電車の走行音とモーター音が響き渡り、客室からは想像のつかない騒々しさだが、扉の窓の向こうに広がったのは、冬の日本海とは思えぬ穏やかな海だった。
「寝台で熟睡して、目が覚めると雪国」、という、思い描いていたイメージに反して、夜は眠れないわ、雪はないわで、ひどい旅立ちになったなとがっかりしたが、柏崎を出て内陸に入ると、ようやく沿線に雪が目立ちだす。朝日がその上に照り、霧が立ち込めて幻想的な風景になってきた。最後の30分になって、ようやく「北国」がお出迎えだ。
ようやく現れた窓の雪景色に気を取られ、列車を降りる準備に手間取るうちに、「きたぐに」はもう長岡に近づいていた。慌てて荷物をとりまとめ、デッキへ向かう。長岡到着は7時20分。
次に乗る十日町行きへは3分の接続。足早に階段へ向かう。10両編成の巨漢から打って変わって、旧式気動車が一両だけ。狭い乗降口から飛び乗って、席につくと間もなく出発となった。いくつかの線路を隔てた向こうには、まだ「きたぐに」の姿があった。
今日、12月22日(日曜日)の予定は、まずこの列車で上越線から飯山線に入り、信濃川沿いを進んで長野県入り。野沢温泉にでも立ち寄って、それから長野を目指そうかと思う。その後は、信越線を経由して首都圏へというスケジュールを一応組んでいるが、要は新宿発23時09分の夜行快速「ムーンライトえちご」に間に合えばよい。
車両はキハ52という、JRでも最古参の気動車である。ただし車内はこぎれいに改装されており、走りもパワフル。朝日に照らされる一面の雪の中を力任せに突っ走ってくれるから、実に爽快だ。たった一両の列車だがちゃんと車掌が乗務しており、検札に来たので、青春18きっぷの1枚目に今日、12月22日の日付を入れてもらう。これでようやく、「鈍行旅」のスタートだ。
次第に高度を上げるにつれ、再び霧が出てきた。7時43分、小千谷着。小千谷縮の名が知られるが、錦鯉の産地でもあり、駅近くに大きな看板が見えた。地面の雪と立ち込める霧で、周り一帯真っ白の世界となった。列車の周囲だけが漠然と見渡せる。不思議な光景だ。
越後川口で上越線から分かれ、いよいよここから豪雪路線・飯山線に入ってゆくことになる。信濃川に沿って進み、長野県の豊野に至る96.7kmの路線だ。信濃川の支流である魚野川を渡り、トンネルを抜けるともう、谷あいに民家の散在するローカル線の風情。列車の足取りも、上越線のときとは打って変わってのんびりしたものとなった。
霧が晴れて、再び青空が見えてきた。総二階で基礎部が底上げされた‘雪国仕様’の民家が豪雪地帯ぶりを物語るが、現在の積雪は10cmほどで、まだあまりピンとこない。
8時22分、十日町に着。時刻表の上では、この列車はここ十日町止まりで、21分の連絡で長野行きに接続することになっているが、車内放送によると、先頭側に2両を増結した上で、この列車がそのまま長野行きになるという。
ホームに立つと、脇に場違いにりっぱな高架駅が並んでいる。97年春に開業する「北越急行」の駅である。上越線の六日町と信越線の犀潟を結び、上越新幹線の越後湯沢と北陸地方を短絡する路線となる。この十日町には一部の特急が停車するそうだが、いかにもローカル然とした飯山線の駅と並ぶと、まるで新幹線と在来線の接続駅のようだ。
ローカル気動車が待機する在来ホーム。右は北越急行の高架ホーム
大きな荷物は車内に残して、商店街へ。時間が時間だけにまだほとんどのシャッターが閉じている中、開いている弁当屋があったので、入ってみる。大きな模造紙にメニューが書き連ねられているなかで、目に付いたとんかつ弁当を頼むと、5分ほどかかるが、と言われた。まだ時間に余裕があることを確認してから承諾し、揚げたてのとんかつの入ったあつあつの弁当を仕上げてもらった。
駅に戻ると、列車はすでに3両になっていた。新旧混在の十日町を出て、飯山線の旅を再開する。さっそくできたてのとんかつ弁当をありがたく食する。今後、温かい食事にいつありつけるか分からないので、よく味わっておく。
数少ない乗客を少しずつ降ろしながら、列車は朝日に輝く雪景色の中を進んでゆく。やがて右手の下のほうに信濃川が見えてくる。越後田沢を出てしばらくすると鉄橋を渡り、川は左手に移る。飯山線はほぼ信濃川に沿う路線なのに、川を渡るのはこの一回限り。つまり今後、信濃川は常に進行方向左手を流れることになる。
川に近づいたり遠ざかったりしながら進む飯山線の沿線には、豪雪地帯を走っているのだと感じさせるものがいくつかある。線路に面した斜面には雪崩よけの柵、そして線路全体をトンネルのように覆う雪よけ。駅の建物も農業倉庫のようなどっしりした造りだ。外はきりりと冷えているが、車内には日が差し、暖房がよく利いているので実に心地よい。そんな中からじっくりと、青空に映える雪景色を見られる。今まさに、鈍行旅の一番おいしい部分をいただいているのだ。
森宮野原という面白い名前の駅に着く。これは、森宮・野原ではなく、森・宮野原と区切るのが正しい。長野県の「森」と新潟県の「宮野原」の2つの集落名が合成された駅名なのだそうである。実はこの駅にはもうひとつ、より大きな特徴がある。
列車が駅に停まる直前に、車窓を大きな柱が横切る。てっぺんは列車の屋根よりはるかに高い。その柱には、「積雪七・八五M 昭和二十年二月十二日記録 日本最高積雪地点」とある。これ以上もはや説明は要らないと思うが、この森宮野原駅は、日本の鉄道史上最高の積雪を記録した駅なのだ。もし実際そんな積雪があれば、列車を通すには雪の中にトンネルを掘らねばならないだろう。柱だけでも圧倒されるのに、そんな積雪で埋もれる様子など、想像もつかない。
「越後」から「信濃」に入ると同時に、左手の川も「信濃川」から「千曲(ちくま)川」と名を変える。川が近づけば線路は山際に押し込まれる。山の近くだと雪崩の恐れがあるから近づきたくないのはやまやまだが、川が寄って来るので仕方なく、柵などを設けて斜面沿いを進むことになる。そして川が離れると、安心したかのように線路も山を離れて安全な平地部を進む。この繰り返しで進んでゆくのが面白い。
9時50分、桑名川という駅に着いた。7分ほど停車します、とのことなので、駅を出て千曲川を眺める。駅前には建物もまばらで、小さな集落の片隅に駅を作りましたという風だった。対向列車の到着を待って、7分後に桑名川を出発。
実は後で調べると、桑名川発の定刻は9時51分。つまり、ここで7分停まっていたのは対向列車の遅れによるものだったのだが、車掌はそのことを何も言わず、こちらも全く気づかなかった。
しかしこのことが、まもなく計算外の事態を招くことになる。