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1.台風一過の桜島 |
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新幹線が九州に到達したのは1975年3月。その鉄路は博多からさらに熊本、鹿児島へと伸びてゆく構想だった。が、国鉄末期の鉄道界の停滞、そして社会情勢の変化に翻弄され、延伸は遅々として進まなかった。
母の実家が鹿児島本線沿線の出水(いずみ)にある自分にとって、それにはただ新路線が開通するという以上の意味があった。帰省時にはいつも山陽新幹線と鹿児島本線の特急「有明」(のちに「つばめ」)を乗り継いでいたので、これが1本の新幹線としてつながるというのは、夢のような話だった。
加えて、母方の祖父が国鉄の機関士として勤めていたことも大きい。出水にはかつて、祖父の所属するSLの機関区があった。だが、私が物心ついたときには祖父は既に退職しており、機関区もなくなってすっかり寂れた出水駅に、祖父が活躍した時代の面影を見いだすのは難しかった。それだけに、ここに新幹線の駅ができるとしたら一体どんな風なのだろうと、想像が膨らんだものだ。
1987年ごろの出水駅にて。当時、新幹線開通は文字通り「夢」だった
時代が昭和から平成、20世紀から21世紀へと移り変わる中、九州新幹線鹿児島ルート(以下単に「九州新幹線」と呼ぶ)については目立った進展がないように思っていたが、実際にはその間にも紆余曲折があった。
国鉄末期に凍結された九州新幹線建設計画だったが、国鉄分割民営化翌年の1988年、八代〜西鹿児島間を「スーパー特急」路線として開通させようということになった。設備は新幹線に対応できる規格で造っておき、車両は当面在来線のものを乗り入れさせる、という構想だ。既に複線で比較的平坦な博多〜八代間に比べ、大部分が単線で山がちな地勢の八代以南がスピードアップのネックだったため、ここを短縮できれば効果が大きい、というのが主な理由だった。一方で、順当に博多側から造っていくと途中で打ち切られる可能性があるため、鹿児島まで全線開通させるために先手を打っておく、という狙いもあったようだ。当時の状況で「全線フル規格で」などと言おうものなら、計画そのものが一蹴されただろうから、その実現の布石を打ちつつ、仮にこれで終わってしまっても無駄にならない形で、というわけだ。
結果を見ればこれは作戦勝ちで、結局、博多から西鹿児島まで全区間フル規格で造られることになった。時は2000年、この時点で山陽新幹線全通から既に四半世紀が経っていた。
そして2004年3月には、当初スーパー特急区間として計画されていた新八代以南が、フル規格の新幹線として先行開業した。終点の西鹿児島駅は「鹿児島中央」に改称され、名実ともに鹿児島の玄関口になった。出水駅はといえば、列車のいない留置線がむなしく広がっていた機関区の跡地に新幹線の駅が建造され、様相は一変した。なおこのときに、鹿児島本線八代〜川内(せんだい)間が第三セクター「肥薩おれんじ鉄道」に転換された。その車両基地も出水に設けられ、昔の規模には到底及ばないまでも、運用の拠点としての地位を取り戻したのだった。
狙い通り、この区間の所要時間は大幅に縮まった。とはいえ、通しの利用には余分の乗り換えを要するようになり、その真価が十分発揮されるには、残る博多〜新八代間の開通を待たねばならなかった。
そして2011年3月12日、残る博多〜新八代間の開通をもって、ついに東京から鹿児島中央に至る一続きの新幹線が完成をみた。山陽新幹線の全通から実に36年越しの悲願達成だった。
2011年7月20日 出水→桜島→鹿児島中央→出水→博多→新神戸 |
朝7時、出水駅のJR窓口で「JR・おれんじ ぐるりんきっぷ」を購入し、元の在来線である肥薩おれんじ鉄道のホームへ向かう。
片道:出水〜(おれんじ鉄道・途中下車可)〜川内〜(新幹線自由席またはJR在来線)〜鹿児島中央
片道:出水〜(新幹線自由席)〜鹿児島中央
の往復がセットで、4,000円。普通に切符を買えば新幹線の片道だけでも3,110円することを考えれば、かなり頑張った価格設定だ。
おれんじ鉄道の隈之城行きは2両編成で、ほとんど学生が占めている。出水駅を出ると大きくカーブして鉄橋を渡り、高台へと向かう。動きの遅い台風の影響で、まだ重い雲が空を覆うが、時折薄日が射す。
次の西出水で大勢の学生が乗降した。母も学生時代、この駅から2駅先の野田郷まで通学しており、あるとき列車を待たせて駆け込むと、運転士が自分の方を見てニヤリとしている。よく見ると自分の父親だった、ということもあったという。不器用だったが、孫には精一杯何かしてやろうとしていた祖父だった。
そこからしばらくは直線を進む。次の高尾野はかつては高尾野町、その次の野田郷は野田町に属していたが、自治体の合併により今はすべて出水市となっている。 線路には所々草が生えている。JR時代からの電化設備は貨物列車のために残しているが、おれんじ鉄道が所有するのはすべて、ローカル線区によく見られるタイプの軽快気動車。80km/h位まで出して、あとは流すように走る。車内にはクモがぶらさがっている。かつて特急が行き交った線路も、第三セクターに転換されて7年。長さを持て余す駅のホーム共々、それなりの鄙びた雰囲気が濃くなってきた。
出水市から阿久根市に移り、折口のホームでは反対方向へ行く学生が大勢、列車を待っている。ベンチで寝そべったり、座り込んだり。ここは俺たちの領域だと言わんばかりの、はばかりのない姿だ。
折口を出ると、海岸に近づく。人里離れた場所で、草むらの向こうにちらちらと海が見渡される。天候がこんなだからぱっとしない風景だが、海の近くなりの開放感がある。まもなく赤瀬川信号場に停車し、新八代行きの対向列車と行き違う。さきほどの気ままな学生たちが、後でこの列車に乗ることになる。この信号場、貨物列車でも離合できるよう長い距離がとられているが、あちらは3両、こちらは2両で、位置を少しずらしてちょこんと停まる。3両とはいっても、おれんじ鉄道の列車としては最長である。特急がなくなった今、学生が上得意様という現状を如実に物語っている。
やがて阿久根の市街地へ入って行く。阿久根駅の手前には、ブルートレインの客車が2両、ホームの脇に置かれている。ライダーハウス、つまりツーリング旅行者のための簡易宿泊施設として使用されているらしい。阿久根は新幹線のルートから外れて、おれんじ鉄道が停まるのみとなり、同じく特急停車駅だった出水と明暗を分けた格好になっている。かつて鹿児島本線の寝台特急「なは」などに使われていたこの客車は、東京や大阪へ直通する特急が阿久根に停まっていた時代を偲ぶ記念碑ともなっている。
阿久根で学生のほとんどが下車し、まだ7時台なのに、車内はすっかり寂しくなってしまった。5月に北近畿タンゴ鉄道を利用し、そのときも第三セクター路線を取り巻く現状の厳しさを痛感したが、あちらにはまだ、特急のバイパス線としての存在価値がある。おれんじ鉄道の場合は逆に、特急がなくなりJRに見放されたところからスタートした路線であり、当初から苦戦は必至だった。あの大勢の学生たちと、素通りする貨物列車のために残さねばならないものの、経営を改善してゆけるようなプラス要素はなかなか見当たらない。使い古された比喩だが、光あるところには影もあり、光が強いほどその闇も濃くなる。新幹線というまばゆい「光」には、割を食う者、見捨てられる者という「影」もまた付き物だ。
次の牛ノ浜から再び海岸に迫る。薩摩高城(さつまたき)までは出たり入ったりを繰り返し、激しい波を時折間近に見る。カーブが多く、これでは特急もあまり速度は出せなかっただろう。
内陸に入り、あとは単調な山間の景色となる。新幹線の高架線が脇に寄り、川内川を渡ると、まもなく川内駅に着く。もともとのJRホームの出水側を中間改札で仕切って、おれんじ鉄道専用のホームにしているため、列車を降りれば一旦その改札を抜けてJRホームに出ることになる。列車は私を含め数名の乗客を降ろした後、隈之城まで1区間だけJRに乗り入れるが、JRホームは素通りしてそのまま走り去っていった。
「ぐるりんきっぷ」では川内より先、新幹線と在来線のどちらかに乗ることができる。新幹線にはどのみち復路で乗ることになるので、ここは変化をつける意味で在来線に乗りたいところだが、あいにく接続が悪いので、新幹線で鹿児島中央を目指すことにする。
一旦改札を出てみる。新幹線と在来線の両方をまたぐ橋上駅だ。新幹線ホームが在来線と同じ地平の高さに位置し、改札口が新幹線ホームより上にあるという構造は珍しく、他には豊橋駅くらいしか覚えがない。駅舎そのものはやはり、満を持して建て替えましたという風の、立派な建物だ。駅前通りもきれいに整備されている。
川内には速達の「みずほ」を除くすべての列車が停車する。いわゆる平成の市町村合併によって、薩摩川内市は鹿児島県内で最も広域の市となったが、それでも人口は10万程度。都市の規模としては他の新幹線駅と比べて特に大きいわけではないが、鹿児島中央を起点に考えた場合に、この1区間で新幹線を使おうという利用者が多いのだろう。この区間の所要時間は、たったの12,3分。市街地内でも12分で移動できる範囲は知れているだろう。時間の点に限れば、市内の大抵の場所よりも、山をいくつも隔てて50km近くも離れた街のほうが「近い」わけだ。
8:49発の鹿児島中央行き「さくら403号」は、山陽・九州新幹線直通用に導入されたN700系の8両編成。いかにも機能的な内装の「のぞみ」用N700系に対し、こちらはデッキの仕切り壁や荷物棚などに木目調の装飾を施すなど「和」を意識している。「さくら」の愛称は建前上、公募の結果を踏まえて決まったことになっているが、「客室内およびデッキ部は…古代桜調の木目」(グリーン車)、「座席は季節感にあふれた桜の花柄…の生地」(自由席)などといったコンセプトが事前に示されていたことからして、「さくら」と名付ける気満々なのは明白だった。
今回乗るのは自由席なので、2列+3列座席だが、指定席は山陽新幹線で好評を博した「ひかりレールスター」と同様、2列+2列の配置となっている。「さくら」は「レールスター」の延長、また発展形とみなすことができる。
川内を出ると単線の鹿児島本線が離れてゆき、まもなく右手に新幹線の川内車両センターが現われる。新八代〜鹿児島中央間の部分開通時には唯一の車両基地だったが、今は列車が出払っていて空っぽだ。その後はトンネルの出入りを繰り返す。というより、区間の大半がトンネルで、息継ぎ程度に外に出るといった感じだ。だからこそ短縮効果が大きいのだが、おもしろみには欠ける。
やがてトンネルの中で、鹿児島中央駅の到着案内が始まった。外が見えず、都市に近づくという感触がないので、さあもう終点だぞと言われても実感が沸かない。そのうちに列車は速度を落とし、やっと外に出たかと思うと、そこはもう鹿児島の市街地。すぐ中央駅のホームにさしかかる。これまでのどんよりした曇り空から一転、晴れ間が広がり、さんさんと日が射している。
東京から西を目指し、博多からは南へと転じてきた一続きの線路は、最後は東を向いて終わりを迎える。車止めの先には建設中のビルの鉄骨が立ちはだかり、その向こうには鹿児島市街地、そして桜島が位置しているはずだ。錦江湾に橋かトンネルでも造らない限り、この先に線路が伸びることは、もはやない。
新幹線の開通で八代〜川内間が肥薩おれんじ鉄道に転換されたことで、鹿児島本線は2つに分断された。その南側区間の終点は鹿児島中央ではなく、1つ先の鹿児島駅である。ただし鹿児島市街の実質的な中心は既に西鹿児島側に移っており、「鹿児島中央」と改称されたことでその地位が一層明確になった。
その鹿児島駅まで1区間の切符を買う。鹿児島中央駅は、在来線も自動改札化されている。国分行きの普通電車で鹿児島駅へ。
列車が去ったあともしばらくとどまり、構内を観察する。かつては交通の要衝、物流の拠点であったという駅だが、今は2面3線と1本の中線を有する、普通の規模の駅だ。ホームは2〜4番となっており、海側の1番線は欠番でその跡地は駐車場になっていて、その背後には広大な空き地が広がっている。また、山側にも使われていないホーム跡がある。ただし、長いホームの端のほうまで上屋が続いているのは、昔の拠点駅ならではの貫禄だ。
おもしろいことに、5番ホーム跡の傍らには、2本のキロポストが立っている。鹿児島中央寄りには「400」、その数十メートル宮崎側には「462」の標柱。それぞれ、鹿児島本線と日豊本線のものだ。「ここが終点」という明確な標示はないが、西小倉で分かれてきた両線がここで顔を合わせたのだということがよく分かる。終点までジャスト400kmとはずいぶんとキリがいいが、実際にこの距離だったのは1963年までだったそうで、その後微妙に変わり、おれんじ鉄道への移管によって、現在の鹿児島本線の総延長は300kmを割っている。
山側のホーム跡。手前が鹿児島本線の「400」、矢印部分が日豊本線の「462」
そんな5番ホーム跡の裏側には、赤い特急電車が2本留置されていた。九州では日豊本線で最後まで活躍していた485系電車だ。国鉄時代の九州の特急といえばこの車両で、私にとっては0系新幹線とともに幼少期のあこがれの存在だった。JR時代になると、JR九州のシンボルカラーである赤色に塗り替えられて引き続き活躍したが、新型車両の台頭に押されてしだいに脇に追いやられ、最後は日豊本線の南部区間に「にちりん」や「きりしま」として残るのみとなった。そしてこの春、九州新幹線全通の陰でついに九州での定期運用を終えた。
それから4ヶ月ほどを経ての出会いだが、驚いたことに「特急きりしま・鹿児島中央行き」の表示のままになっている。運用を終えるやいなやここに押し込められ、そのまま放置されているのだろう。車体は色あせ、つる草がその上を這いだしている。放っておけばそのうち、南国の旺盛な自然力に呑み込まれてゆくのだろうが、次にこの電車が動くのはおそらく廃車解体されるときだ。
ちょっとやるせない気持ちになりながら、鹿児島駅のホームを後にする。小さな鉄筋の駅舎の2階が改札口で、駅員が切符を回収していた。今ではすべての点で中央駅の後塵を拝しているが、近いうちにここも自動改札化されるのだろう。
さて、2006年に鹿児島を訪れたときには天気が良く、錦江湾の中に鎮座する桜島がはっきりと見渡された。これまで海を隔ててしか見ることのなかった桜島へ、今回は初めて上陸してみようと計画している。
鹿児島から桜島へは、桜島フェリーが運航している。日中は10-15分間隔、夜中でも1時間おきに、終日行ったり来たりしているというから、かなり利用は盛んなようだ。というのも、桜島島内のみならず、鹿児島から大隅半島方面への最短ルートでもあるためで、現に鹿児島市内在住の叔父は、職場が大隅の垂水(たるみず)にあるため、フェリーで桜島港へ渡り、そこから車で桜島を抜けて通っている。旅客運賃は片道150円で、不思議なことに市内を走る路面電車の均一運賃(160円)より安い。
この航路は片道15分ほどだが、1日1便だけ「よりみちクルーズ」というのが運航されている。桜島港へ直行するかわりに南側へ大きく迂回し、船上から鹿児島市街や桜島をじっくり見せてくれるというものだ。所要50分で、この便だけ運賃は500円。10分あたり100円という、実にわかりやすい料金体系だ。
11:05の出航まではまだ時間がある。近場で何か見所がないかと、鹿児島中央駅で取ってきた観光パンフレットを眺めて、鹿児島駅に近い「石橋記念公園」というのを訪ねてみることにする。
海岸に近いバイパス道に出て、フェリー乗り場とは反対の方向へ歩く。「近い」といってもそれは地図の上での話で、日のさんさんと射しだした中で歩き出すと、なかなか厳しい道のりだ。市街の上空は晴れているが、桜島の周囲には分厚い雲がまとい、残念ながら今回その眺望は期待できない。台風がまだ近海にいる状況で、ここまで回復しただけでもよしとしなければならないか。
公園に入ると、いきなり目の前に姿を現わす4連アーチの石橋。これは「西田橋」というらしく、渡った先には城門のような立派な門が構えている。江戸時代後期、鹿児島市街を二分する甲突(こうつき)川に5つの石橋が架けられ、そのうち城下にあって最も重要だったのが、この西田橋だったという。薩摩藩の威信がかかっていたと思われ、ライトアップ用の電灯がセットされるなど、今も破格の扱いとなっている。
以来、平成の世に至るまで現役の橋として活躍した五橋も、1993年に起きた大水害に勝てず、2つが流失。残った3つを移築保存しているのが、この石橋記念公園である。五橋は地元の誇りであるとともに貴重な文化遺産だったはずで、できれば現状のまま残したかっただろうが、シラス土壌の上に成る鹿児島という土地はたびたび水害に悩まされており、治水の問題とはかりにかけて、こうするしかなかったのだろう。ただこうして本来の機能から切り離され、モニュメントとして生きながらえるというのは、やはり何か違うという印象を受ける。これは鉄道車両の保存にもいえることで、生きた姿で残してゆくことの難しさを思う。西田橋の下には、河床のように石が敷き詰められているが、今は水がなく、代わりに火山灰が積もっている。
稲荷川を渡ると高麗橋、そして玉江橋と、あと2つの橋を見ることができる。この公園の隅に「祇園之洲砲台跡」の石碑がある。幕末の名君とうたわれる島津斉彬が有事に備えて砲台を築き、実際に薩英戦争において交戦地となった場所だ。幕末・維新の展開における転換点となった舞台だが、今あるのは石垣だけで、これも当時からのものかは判らない。しかし、ようやく新幹線が到達した列島の端から、その150年近くも前に国の歴史が動いたというのが皮肉で、かつ壮大な話だと思う。
公園を後にし、鹿児島港フェリー乗り場に向かう。
「よりみちクルーズ」は、新幹線全通にあわせてこの3月から毎日の運航となったらしい。「クルーズ」と銘打っているが、船そのものは普通のフェリーで、特に区別はしていないようだ。遠回りするほかに特徴はないのかなと思ったら、ボランティアのガイドを名乗る人から挨拶を受けた。客室内、甲板合わせて、乗客は2,30人といったところか。船の大きさに対して少ない印象だが、台風の影響が残る中での出控えのせいもあるだろう。
相変わらず中腹より上を雲で隠した桜島を正面に見て出航した船は、まっすぐに進まず、右へ大きく舵を切る。右手に流れるのは鹿児島の市街地。その背後には、かつて島津氏が居城を構えた城山の姿があり、さらに広く見渡すと、小高い台地が横一線に連なっている。船の背後にあたる北側では、定規を当てて引いたかのように、その稜線が錦江湾の海岸線にストンと落ちて、文字通り台形を描いている。日豊本線や国道10号が海岸沿いを走っているはずだが、そんな余地が一体どこにあるのかと思える。93年の水害で、土石流により列車や多くの車が孤立し、懸命の救出劇が繰り広げられた竜ヶ水地区がこの方角にあたる。確かに、この斜面から泥水が吹き出せば、麓はひとたまりもないだろう。鹿児島という都市がシラス台地に取り囲まれた独特の(危険の伴う)地勢の中にあることが、海上からだとよく見て取れる。
左手には桜島。手前に白い灯台があり、ここは「神瀬」という浅瀬になっている。鹿児島に入港する船舶の目標になっているこの灯台、光達距離は・・というような説明の放送を聞きながら、その脇を通過する。前方には沖小島。薩英戦争の際には、ここにも砲台が置かれていたという。無人島だが、周りには漁船らしき船が数多い。
沖小島の手前で船はUターンし、今度は桜島を右に、市街地と神瀬灯台を左に見て進む。桜島の裾野が近づき、その様子が次第にはっきりしてくる。山の本体は見えなくても、海の際までゴツゴツの溶岩がせり出し、ここが活火山のたもとであることは容易にイメージできる。
ここからしばらく続く丘陵地に、建造物はほとんどなく、草や低木が覆う。緑は豊かだが、何となく索漠としている。ここは「大正溶岩原」と呼ばれている。大正3(1914)年、桜島は大噴火を起こし、大量の溶岩や火山灰を噴出。それまで文字通りの「島」だったのが、大隅半島側とつながり、現在のように地続きになった。この大正溶岩原もそのとき形成され、溶岩の風化と植物の自生によって今の姿になっている。自然学に造詣は乏しいが、「何もないところから100年で、生態はこうなる」という生きた‘標本’として貴重なのだろう。
大正噴火を契機として1934(昭和9)年、鹿児島と桜島を結ぶ定期船の運航が開始、これが現在の桜島フェリーである。島民は甚大な被害を受けたというが、島には再び生活が築かれ、フェリーはそれら島民の貴重な足となっている。そのフェリーが今こうして、大正噴火の爪跡をじっくり見せてくれているのだから、因果なものだ。
それにしても、こうしているとなおさら天気の悪さが恨めしい。5年前のようなクリアな空模様で、海上から桜島が見られたらどんなに良かったか。実のところ、山が全容を現わすような天候になる確率は、年間を通じてどの程度なのだろうか? せっかくなのでガイドさんに聞いてみたかったが、チャンスがなかった。
予定通り50分をかけ、よりみちクルーズは終わりを告げる。桟橋を渡って桜島港に上陸を果たすが、今回は予定上、とんぼ返りで引き返さなければならない。願わくは天気の良いときに再訪し、あの溶岩原を含めてじっくりと巡りたい。
ターミナルの改札口で復路の運賃150円を払い、再び桟橋を通って船内へ。さっきとは違う船だが、基本的な構造は共通している。15分でピストン輸送している航路だけに、乗下船も手際よく、あっさりしたもので、電車やバスに乗る感覚とそう変わらない。このたびはほぼまっすぐに進み、そのまま鹿児島港に入る。
時刻はちょうど12時半。12:57に鹿児島中央駅を出る新幹線に乗るために、ここからは綱渡りの乗り継ぎとなる。
急ぎ足で港を後にし、水族館口電停まで300mほど歩き、やってきた市電に乗り込む。真新しい低床電車で、芝生の敷き詰められた軌道をスムーズな加速で進んでゆく。ただし信号や交通状況で止められることに変わりはなく、中心部に近づくほど遅々として進まない。これはバスでも何でも一緒で仕方ないことだが、後が急いていると精神的に良くない。鹿児島中央駅に着いたのは、新幹線が出る5分前だった。