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2.新旧新幹線で乗り通し |
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今日のうちに、神戸まで帰り着かなければならない。まずは、「ぐるりんきっぷ」の復路分を利用して、出水に戻る。
これより鹿児島から神戸まで新幹線を乗り通して、九州新幹線の全通を実感しようという意図だが、鹿児島中央では慌ただしい出発となってしまい、始発駅ならではの高揚感を味わう間もなく、列車はすぐにトンネルに入る。ちょっと残念だが、これを逃すと出水に停まる次の列車まで、1時間待たされる羽目になるので、間に合っただけよしとしなければならない。
この博多行き「さくら414号」には、800系車両が使用されている。2004年の九州新幹線部分開業に伴って導入され、今春以降は各駅停車の「つばめ」の他、博多〜鹿児島中央間の「さくら」にも使用されている。山陽直通用N700系の8両に対して、こちらは6両。新幹線にしては小さくまとまって見える。
九州用N700系もある程度和風テイストだが、800系のそれは、もっと思い切っている。座席の背面は木、座面には西陣織という独創性は、JR九州にしかできない演出だろう。自由席ながら2+2列のゆったりした構造で、座り心地も悪くない。
山を抜けると、元のどんよりした曇り空に戻ってしまった。あの晴れ空は鹿児島市街限定だったらしい。トンネルの出入りを繰り返し、10分余りで川内へ。ここから出水までは初めての区間だ。元の在来線、つまり肥薩おれんじ鉄道の線路と並行して川内川を渡る。祖父の実家はこの川のもう少し下流のほうにあった。
おれんじ鉄道の線路が離れ、内陸に入ると、再びトンネルの連続。川内と出水の間にそびえる紫尾(しび)山を突き抜けるため、一番長い第三紫尾山トンネルは10km近くに及ぶ。九州新幹線で最も早く着工した区間だという。
トンネル連続地帯を越えると、もう出水の市街地が見えてくる。いともあっけないし、すぐに下車準備をしないといけないから慌ただしい。九州新幹線乗り通しの旅は一旦ここで小休止。出水駅で自由席から下車した人は結構多かった。鹿児島中央からわずか25分、それだけ気軽に利用できる距離になったということだろう。昔の特急だと1時間以上かかっていたから、紫尾山をぶちぬいて線路を通した短縮効果は絶大だ。
コンコースには、昔の出水駅の様子がパネル展示されていた。昭和40年代には学生や、集団就職で上京する人たちで賑わったようだが、それはちょうど、私の母の学生時代にあたる。まだ電化されておらず、SLも現役だったはずだが、このころにはかなりディーゼル化が進んでいたようだ。鹿児島本線の全線電化は1970年のことで、この年に出水機関区も役目を終えている。
駅の西口(おれんじ鉄道側)には、SLが展示されている。ナンバープレートは「C56 92」。市内の他所で保存されていたのを、河川改修工事に伴って移設してきたらしい。廃車は1973年だが、その前年にはお召し列車の牽引という栄えある任務もいただいている。出水機関区に配属されたことはないようだが、あるいは祖父も乗務したことがあるかもしれない。同じく出水に来ていた妹親子らとともに前日に訪れ、運転台にも上った。1歳半の姪は運転台や釜の蓋など、いろいろいじっていた。「ひいおじいちゃんは、こういう所で仕事してたんやで」と、もう少し大きくなったら伝えてあげたい。
‘保存’という名の放置状態になっている車両も、残念ながら少なくないのが現実だが、このSLは状態が良く、立派な屋根の下に入っている。移設されたのは2008年のことで、その際の式典で機関区OBの方々がSLの前に並んだ写真を祖母が見せてくれたが、「このうち半分くらいはもう亡くなった」とのこと。祖父の同世代ならば既に80代後半。機関区全盛期を支えた世代は去りつつあるが、SLがここまで美しく保たれてきたのも、彼ら鉄道マンの誇りに支えられてきた部分が大きかったのではないか。それは、交通の要衝であった出水が後々まで伝えるべき「遺産」だと思う。
一旦祖母宅に戻って出直し、16:22発の博多行き「さくら420号」で出水を出発する。先ほどと同じく800系だが、こちらは全通にあわせて増備された車両。車体側面に引かれた赤いラインが、先頭部でツバメの飛行のように描かれているが、従来型では直線だったのが、新型だとその軌跡がちょっとカーブしているので、外からも区別がつく。座席はやはり背面が木材、座面は朱色のクッションになっていて、若干あでやかな印象だ。
駅を出るとしばらくは出水平野を広く望みながら進む。重くのしかかる黒い雲はまだ晴れることなく、空を覆っている。およそ20年前、やはり台風の後に出水を発ったときもこんな風景だったが、そのときよりも視点が高くなり、遠くの海まで見渡される。
その後は再び内陸を、トンネルを出入りしながら進む。新水俣から新八代までは区間のほとんどがトンネル。球磨川を渡ってようやく辺りが開け、新八代へ。
これからいよいよ、新しく開業した区間へ踏み入れることになる。2008年には、ここで対面接続を図っていた在来線特急「リレーつばめ」に乗り換えた。その先のまだ列車が入らない線路に思いを馳せたものだが、いざ開通してしまうとあっけないもので、列車はこれまでと同じように出発してそのまま進んでゆく。
さて、2011年3月12日の九州新幹線全通に先立つこと4ヶ月、2010年12月4日に東北新幹線八戸〜新青森間が開通した。11年3月5日には、東京〜新青森間に新型E5系を使用した「はやぶさ」が登場。最高速度300km/h、近い将来には日本最速の320km/h運転を行うとされる。「はやぶさ」はもともと東京と西鹿児島を結ぶ寝台特急の名称で、九州側が貰うほうが自然だったが、九州には「さくら」と「みずほ」が採用され、「はやぶさ」はそれと真逆の方に向かうことになった。
3月12日は、新幹線のラインがついに青森から鹿児島までつながる、記念すべき日となるはずだった。
東北・関東に未曾有の災害をもたらした東北地方太平洋沖地震、いわゆる「東日本大震災」が発生したのは、まさにその前日、3月11日のことだった。
日本中が大混乱に陥る中、予定されていた祝賀イベントの類はすべて中止され、九州新幹線はひっそりと初日のスタートを切った。東北新幹線は甚大な被害を受け、長期運休を余儀なくされたが、関係者の懸命の復旧作業によって4月29日に全線再開にこぎ着けた。ここにおいて初めて、青森から鹿児島までが新幹線だけで行けるようになったが、今や「つながる」ということが特別の意味を帯びるものともなった。
遡って2月20日、九州新幹線開通に先立ってCMの撮影が行われた。このCMは「九州縦断ウエーブ」と銘打ち、鹿児島中央から博多まで、カメラを搭載した特別列車に沿線から手を振ってもらうというものだった。参加を呼びかけるCMが事前に繰り返し流されたそうだが、最初で最後の企画だけに、どれだけの人が応じてくれるかはやってみないとわからない。JR九州にとって新幹線の開業は、社運をかけた一大プロジェクトの集大成。コケればかえって祝賀ムードに水を差しかねない中で、この大胆な企画を打ち立てて実行に移したJR九州という会社は、やはりただ者ではないと思う。
その結果は、九州人のノリの良さも手伝ってか、大勢の沿線住民が‘出演’し、その総数は1万とも2万ともいわれる。列車の名前は「さくら」だが、‘サクラ’ではない自主的な参加でここまで盛り上がったというところが、本当の歓迎といえるだろう。「九州がひとつになる」というキャッチフレーズには、新幹線の通らない大分・宮崎・長崎はどうなのかという突っ込みどころがあるが、それもあながち誇張と思えないほど、一体感の演出に成功している。
残念ながら、このCMは肝心の開業直後にはテレビ放送されなかった。反響はやはりネットからで、つくりものでない喜びようが被災に沈む人たちの励みになったようだ。JR九州は要望に応え、6月からCMを収めたDVDを発売。動画そのものはYouTubeなどで見ることもできたにもかかわらず、1ヶ月ほどでインターネット販売分は完売している(※)。実は私も、先ほど川内駅でこのDVDを購入した。「祝!九州」というタイトルで、特別列車にもあしらわれていた虹色のグラデーションが描かれている。後でじっくりと鑑賞したい。
※8月下旬に追加発売されたが、すぐに売り切れている。なお現在では、YouTubeでの公式動画の公開は終了している。
今回はCMがカメラを向けていたと同じく、進行方向左側の席に座っている。もちろん今は見送る人たちはいないが、動画で見覚えのある風景が時々姿を見せる。
しばらくは八代平野を進む。高架の線路からは、少し離れた八代海が望まれる。薄日が射して、水面が輝いている。その向こうに見えるは、宇土半島か天草か。沿線は海岸に向けて平板で、水路が直線的に引かれていることからして、干拓地か。窓のブラインドを下げてみると、すだれのような形状になっている。芸が細かい。
出水から30分余りで熊本に着、乗り込む客が多い。「さくら420号」はここから新鳥栖まで停車しない。ホームの向かいには、7分後に発車する各駅停車の「つばめ354号」が待機していた。
熊本から、新玉名、新大牟田と「新」のつく駅が続く。いずれも、新幹線のルート取りの都合上、もとの玉名、大牟田からは内陸に入り込んでおり、駅周辺は田園地帯だ。筑紫平野に出て筑後船小屋。このあたりは在来線も直線に近く、新幹線はそれに沿っている。景色として特に見るべきものはないが、CMの場面を思い起こしてゆくと、確かに見覚えのある光景に出くわす。下の写真は新玉名駅付近だが、CMでは線路から少し離れて並行するあぜ道に人が、その背後の車道に車が横一線に並んでいた。
CMでは熱烈な歓迎を受けているものの、熊本以北の駅については利用者が軒並み予想を下回っているという。もともと在来線の特急が充実していたこの区間、南部ほどの劇的な時間短縮があったわけではなく、特急を利用していた層からは、特急はなくなるわ、駅は遠いわ、停まる本数は少ないわ、料金は高くなるわで、「改悪」だと思われても仕方ない。だからこそ、山陽直通列車を少しでも多く停めてほしいと、盛んな綱引きがあったわけだが、熊本や鹿児島への速達性を犠牲にするわけにもゆかず、結局、どの駅にも最低一日一本は直通列車を停めるという妥協的なダイヤでスタートしている。
久留米を通過すると筑後川を渡り、平野が尽きて筑紫山地が迫ってくる。それにつれて天候も崩れ、空が暗くなってきた。熊本以来の停車駅となる新鳥栖は、長崎本線との接続駅。佐賀県唯一の新幹線駅で、それだけに自治体側の‘押し’が相当強かったらしい。ただし他の「新」駅と同様、駅周囲はまだまだ開発途上。佐賀・長崎方面への新たな接続拠点として、期待通りに機能するのかどうかも未知数だ。
新鳥栖の先には九州新幹線最大の難所が控えている。立ちはだかる筑紫山地を越えるため、長さ12km近くに及ぶ筑紫トンネルをくぐる。列車に乗っているぶんには気づかないが、最大35パーミルの勾配を抱え、これは碓氷峠を越える長野新幹線をもしのぐ。この坂があるため、東海道・山陽新幹線の従来車は九州新幹線には入れない。直通用のN700系は、最高300km/hの速度と、勾配対応を両立させた、画期的な車両なのだ。(800系の場合は九州新幹線の最高速度である260km/h。)
九州内最長の筑紫トンネルを抜けると、ついに福岡の市街地へと近づいてゆく。天候はあいにくの雨。しかし、中心地に向けて街がひらけてゆく推移が車窓にあってこそ、さあいよいよ終点だという風に気分が高揚する。新幹線の場合、市街地を避けていたり、直前までトンネルだったりするので、意外とそういう局面は少ない。
博多到着は17:36。出水から1時間13分。在来線時代ならまだ熊本あたりだろう。九州は狭くなった。
新たに開通した区間を乗り通し、ここからはなじみ深い山陽区間に入ってゆく。だがせっかくの機会、この先にもいくつかの仕掛けを用意している。
これから乗るのは新大阪行きの「こだま760号」。日本で初めて最高300km/hを実現した500系車両だが、今では8両に短縮され、「のぞみ」から「こだま」に転用されている。0系からN700系に至る東海道・山陽新幹線車両の中で唯一まだ乗車したことがなく、残念ながら「のぞみ」時代には機会を得られなかったが、今回ようやくその願いが叶うことになる。
乗り込むのは6号車指定席。車内の乗客は数名だ。この6号車は実は16両時代にはグリーン車だった車両で、「こだま」化に際して普通車に格下げされたが、座席などはグリーン時代のものを転用しているという。これに乗ってみたいがために、わざわざ新下関までの指定席を確保したのだ。
その自慢の座席は、さすがにがっしりしていて座り心地が良い。「ひかりレールスター」などにも、指定席には2+2列席が採用されているので、これはというほどのインパクトはないが、安定感が一回り上という感じがする。リクライニングが深く、足下も広い。車内の雰囲気も全体に落ち着いている。スピードを追求した円筒型の車体ゆえに、頭上にはいささか圧迫感があるが、これも500系の「らしさ」だと思えば良い。
台風を追いかける方向に進むため、ダイヤの乱れが来ていないかと心配したが、今のところ問題ないようだ。雨の降る中、定刻に博多を出発した「こだま760号」は加速しながら市街地を抜け、再び田園地帯を進んでゆく。終点・新大阪に到着するのは5時間近く後のことで、最速の「みずほ」(2時間25分)の倍を要する。デビュー当時の500系「のぞみ」は新神戸に停まっていなかったため、今の「みずほ」よりも所要時間が短かった(2時間17分、これが山陽新幹線の史上最短)。このあたりは、短くなった編成とともに、格落ちの寂しさを感じさせるところだ。
次第に空が暗くなる中、小倉を出て九州を後にする。関門海峡をくぐり抜けると間もなく新下関。ここで「こだま760号」を降り、ひとまず改札を出る。雨は上がっている。
この駅は山陽本線と接続している。在来線側は従来、長門一ノ宮駅と名乗っており、新幹線開通直前の1974年の時刻表を見ると、特急どころか急行も快速も停まらない小駅だったようだ。事実上、1975年の山陽新幹線全通とともに整備された駅といえる。タイルを敷き詰めた無機質なコンコースなど、いかにも「昭和の近代駅」の装いで、経年ゆえのくすみが、かえって古くささを醸している。
そんなコンコースには、観光地にありがちな顔出し看板が立っている。昨年の大河ドラマ「龍馬伝」にちなんで、坂本龍馬とお龍の顔がくりぬかれ、脇を固めるのが高杉晋作と三吉慎蔵。長州のお膝元で龍馬夫妻が主役というのはどうかとも思うが、「長州ゆかりの名士と一緒に写る」と思えばそれも良し、なのだろう。
この看板で気づいたが、九州新幹線の全通は、薩摩と長州を新幹線で結びつけたということでもある。1日2往復だけだが、新下関〜鹿児島中央間を結ぶ「さくら」も設定されている。午前中には薩英戦争の舞台を訪ねたが、長州もまた、関門海峡で外国艦隊に大敗を喫しており、それが龍馬を仲介とした同盟、そして倒幕へとつながった。時代も目的も全く異なるが、今や鉄道の世界に「薩長同盟」が再来したといえるかもしれない。
新下関から乗るのは、次に来る岡山行き「こだま762号」、これは100系車両での運転だ。
2008年に初代の0系が引退して以来、山陽新幹線の最古参、また国鉄時代に開発された世代の生き残りとして活躍を続けてきた100系だが、2011年度をもってついに全廃されることになった。0系は500系の「こだま」転用によって引退に追い込まれたが、100系のほうは、九州新幹線全通に伴って「ひかりレールスター」用の700系が「こだま」に転用されることで役目を終えることになる。
最後まで新大阪に乗り入れ、盛大な引退セレモニーとともに見送られた0系に対して、100系のほうはラスト1年を残して、関西から追われるように岡山〜博多間の限定運用になってしまった。これでは注目度も限られたものになるだろう。0系のときは私も足繁く撮影に通ったが、岡山までとなるとそれは難しいし、失礼ながら、100系に対してそこまでの愛着があるわけでもない。それで、今回が100系に会う最後の機会と考え、あえてそこに時間を合わせたのだ。
とんがり鼻の6両編成が入ってきた。かつて2-4両の2階建て車両を挟み、国鉄からJRへ、新時代の象徴として堂々と君臨した100系も、今や普通車ばかりの「こだま」専用。さきの800系「さくら」と同じ長さではあるが、昔の勇姿を知っているぶん、長いホームの真ん中に遠慮がちに停まる姿に、どこかわびしさを覚える。
自由席を含めて、車内はすべて2+2列座席となっている。さきほどの500系指定席と比べるとさすがに格が落ちるが、ゆったり感が嬉しい。車内はリニューアルされているものの、全体的な雰囲気に何となく「国鉄」を感じる。
100系の窓は広い。デビュー当初の0系の側窓は席2列分の幅で、後に1列分の小さな窓になったが、100系では再び2列分になった。0系の時代が長く続き、色あせた「夢の超特急」の輝きを取り戻そうという「原点回帰」の意味が込もっていたのかもしれない。しかし300系からは1列ごとの配置に戻り、最新のN700系に至っては、旅客機の窓のような小ささだ。さすがに300km/hともなると、せわしない景色の流れが目に入って、窓が大きいとかえって疲れが増すし、破損の危険も大きくなる。100系の大窓は、新幹線が速度の追求に走る前の時代だったからこそ自慢の種になりえたのだろう。
幸か不幸か、「こだま」に転じた100系にとって窓の大きさはネックにならない。外はだいぶ暗くなってきたが、まだ風景の流れを目で追うことができる。ただ残念ながら、目の前の窓ガラスは汚い。
次の厚狭駅で「こだま762号」はなんと15分も停車し、「のぞみ64号」と「ひかり576号」の2本の通過を待つ。まるで田舎の鈍行列車のようなダイヤだ。厚狭にはもともと新幹線の駅はなかったが、1999年に在来線の駅に併設される格好で開業している。もとの高架線の外側に、待避線とホームを増設しているが、高架の側壁などそのままに、文字通り取って付けたような構造になっている。
ホームに降りて車体を眺める。尖った先頭部分など、全体的に直線的な形状には当時、0系の作り上げたイメージを刷新しようという意気込みのほどが感じられた。塗色はJR西日本オリジナルのグレー基調。最後まで残る編成は、もともとの配色であった白と青のツートンに塗り替えられているが、この編成はそこまでは残らないということになる。なのでこれはこれで貴重な存在なのだが、やはり何か物足りない。「刷り込み」の力は強いものだと思う。
下りホームに、同じくグレー塗装の100系「こだま825号」が入ってきた。通過線を隔てて2本の100系が並んだ。空はもう薄暗いが、まだ何とか写真は撮れる。こんなシーンもこれが見納めだろう。
長い停車を終えて「こだま762号」は厚狭を出発する。細かな振動が若干気になるものの、意外と落ち着いており、ゆったり進んでいるように思える。新型車のような走りはできなくても、どことなく貫禄めいたものを覚える。
次の新山口で6分停車し、「のぞみ66号」をやり過ごす。もうそろそろ外は見えなくなってきたが、皮肉にも上空には晴れ間が広がりだす。さらに徳山、新岩国と停車し、新下関から1時間半をかけて広島に到着した。
広島から乗り込む今日のラストランナーは、鹿児島中央始発の新大阪行き「みずほ604号」。朝に川内から鹿児島中央まで乗って以来のN700系8両編成。現時点における最古参から最新鋭への乗り継ぎである。1両あたり数名の閑散とした「こだま」から乗り継ぐと、さすがにビジネス客の多さが目に付くが、自由席でも二人席に一人で座れた。
窓の外は見えないが、鋭い加速、妥協のない走りは、さすがに100系とは次元が違うという感じがする。次の東広島で早速「こだま762号」を追い抜く。そして福山で、新下関まで乗った「こだま760号」も抜き去る。これまで寄り道した分を一気に取り返すごぼう抜きだ。
岡山で一息入れ、残るは新神戸までの1区間。鹿児島からの長い新幹線乗り継ぎの旅も、ラストは駆け足で、あっけない。1本の列車で乗り通せばまた印象は違っただろうが、もっとあっけなく感じたかもしれない。最後は鹿児島中央駅と同じように、トンネルを出るやいなや新神戸のホームに滑り込む。