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5.台風一過の吉野ヶ里遺跡 |
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1991年8月23-24日 出水→鳥栖→神崎→門司港→小倉→粟生 |
台風は夜のうちに通過した。東シナ海の、かなり九州寄りを北上したので、風雨は結構強かった。ただ鹿児島は、南海から上がってきたばかりの活きのいい台風が、たびたびやってくる場所。対応も慣れたもので、祖父母もこの程度の台風では動じない。母によると昔、台風の際に玄関の戸が飛ばされ、しかも祖父が家にいないときだったので、夜通し祖母と子供たちで必死で内側の戸を押さえていた、などということがあったという。
8月23日。出水出発は、少し遅らせて10時台とした。まだ吹き返しが強く、空はどんよりしている。熊本までは、来たときと同じ、もと急行用の電車だ。出発時点では回送同然のガラガラ状態だったが、熊本へ向けて徐々に乗客が増えてゆき、八代あたりからは立ち客も出てくる。三日前に来たときの様子をそのままひっくりかえしたパターンで、出水〜水俣の県境区間の利用がいかに寂しいかが浮き彫りになる。
大牟田からは平地となり、快速はめいっぱい爽快に突っ走る。さて、今回の旅行も、九州で残された時間は夜行快速「ムーンライト九州」に乗り込むまでの数時間だ。出発が遅かったので、そうそう行ける場所もない。いろいろ考えた末、手ごろなところで、佐賀の吉野ヶ里遺跡にでも立ち寄ろうかと思う。
鳥栖から、ちょっとだけ長崎本線に入ることになるが、乗車したのは715系という電車。一目見て、異様な電車であることに気づく。やけに車体がごつく、まるで山食パンのようななりをしている。入り口は折り戸で幅が狭く、中は天井が高くて薄暗い。これは、寝台特急用の583系が大量に余ったために鈍行用に改造したもの。良く言えばリサイクル、悪く言えば廃物利用の極めつけだ。
神埼(かんざき)で下車し、20分ほど歩いて、話題となっていた吉野ヶ里遺跡へ向かう。荷物は鹿児島から自宅に送ってもらうことになったので、かばんは往路と比べてだいぶ軽くなっている。あれほど難儀させられた超重量かばんに苦しめられずに歩けるのが、なんとありがたいことか。
神崎駅に戻り、再び「山食電車」に乗って鳥栖へ引き返す。暗くなる中を、鹿児島線の電車で博多へ。九週滞在の最後の食事は、博多の地下街でラーメンを食べることにする。食欲減退に悩まされた今回の旅の締めくくりは、やはり麺類に落ち着いた。
最後の夜行、上り「ムーンライト九州」の指定席は博多から取っているが、まだ時間があるので、鹿児島本線の起点である門司港まで足を伸ばしてみようと思う。帰宅ラッシュでごったがえす快速に揺られ、一路門司港へ。
注:決まり上は、指定席をとった場合、指定の起点駅から乗車しなければならない。そうしないと、車掌がその席を他の人に転売してしまっても、文句は言えない。
門司港はかつて、関門トンネルが開業するまでの九州の玄関口で、当時は「門司」駅だったそうである。幅の広い行き止まり式ホームが並ぶ様に、その名残を色濃く残している。
トンネル開業後も一応鹿児島本線の起点ということになってはいるが、メインルートから外れた現状では、半端にはみ出た路線という感が否めない。時間も時間なだけに、駅周りもひっそりしている。ただ、大正建築だという上品な駅舎は、昔のままの姿でライトアップされ、「さびれた駅とは言わせぬ」、といわんばかりの強烈な存在感を醸しつつ、闇の中にたたずんでいる。
その門司港で出発を待つ青い客車がいた。バックには「かいもん」のマーク。西鹿児島行きの夜行急行だ。さすがに門司港から乗り込む客はほとんどいないが、それでもあえて門司港始発としているのは、「九州の鉄道の起点」に対する敬意からか。
この「かいもん」、小倉まではなぜか普通列車扱いなので、自由席なら18きっぷでも乗れる。それに乗り込んで、短いながらも贅沢な気分で小倉を目指す。あとは最後の「ムーンライト九州」を残すのみとなった。今度は指定席を確保しているので、席探しのプレッシャーもない。
さようなら九州・・・あとは帰るばかりと思うと気もゆるんで、席に着くとすぐ寝付いた。気が付くともう姫路付近まで来ていた。
8月24日の朝、足掛け9日間に及ぶ旅行から無事帰還。家に帰ると即、バタンキューだった。あとから思うとかなり無謀、かつ要領の悪い行程だったが、私の鉄道旅行史の中で、この旅行は大きな一歩となったことに疑いはない。