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4.食欲減退、台風接近 |
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1991年8月20日 岡山→小倉→大分→由布院→久留米→出水 |
岡山到着後日付が替わり、青春18きっぷの3枚目に「8月20日」の日付を入れてもらう。さて、ここから乗り込むのが、問題の「ムーンライト九州」だ。一昨日、指定席をあたったものの満席。しかも、岡山からの乗車とあっては、最悪床で寝ることも覚悟しておかねばならない。ガラガラの「ふるさとライナー山陰」のほうを押さえておきながら、より混雑が予想されるはずの「九州」をマークしておかなかった自分の判断が我ながら不可解だが、後悔先に立たずだ。
乗り込んだ列車は予想通り、ほぼ満席。しかし…その中に、何とひとつだけ空席があった。まるで私のために空けてあったかのように。実に、そのシートが光り輝いて見えた。が・・
席に落ち着くやいなや、どっと汗が出てきた。体中の汗腺から一気に噴出したかのような大量の汗。これまでにガブ飲みしてきた水分が、席にありつけた安心感から一気に放出されたのだろう。急いでトイレに駆け込んで服を着替える羽目になった。まったく、今回は自分の体が自分でも理解できない状況に陥っていて、恐怖すら覚える。それだけ、体にとっても未知の体験の連続なのだろう。
ムーンライトの夜は6時間ほど。目が覚めると、ころあいよく下関の手前あたりを走っていた。この列車は熊本行きだが、私は小倉で下車して日豊本線に入り、久大本線経由で大回りして鹿児島本線に復帰することにしている。実質四日目の日程となる今日の目的地は、鹿児島県出水(いずみ)の母方の実家。鈍行ばかりの連続乗り継ぎ旅も、とりあえず小休止することとなる。
早朝のロングシート電車で日豊線を南下し、大分県入りして中津で一旦下車。大分に父の実家がある私にとっては、馴染みの深いエリアである。ここで朝食と新聞を調達する。このときの牛乳とチーズ蒸パンのまろやかさが妙に印象に残っている。
学生の出入りが若干あるものの、宇佐から杵築(きつき)にかけては、国東半島の根元を横切る山越え区間で、乗客も少ない。単線区間もあり、大分へ向かう幹線ルートの割にはローカルな雰囲気だ。
このあたりからそろそろ、台風の影響が目に見えてきだした。別府のホームから温泉街を眺めると、まだ雨は降りだしていないものの、厚い雲がたれ込めてきて、風も出てきたようだ。台風が近づいてくるときの、独特の不穏な気配。昨日までずっと晴天の中を移動して、かなり体力消耗しているだけに、炎天下でなくなるのをうれしく思えてもよさそうなものだが、ちっともそんな気持ちにはなれない。別府から大分までは2両編成の短い電車で、海を見ながら快走。
大分から久大線に入ってゆく。由布院行きはステンレス車体のキハ31。快速であるが、1両編成というのがひどい。客は多く、1時間ほどを立ちづくしで過ごす羽目に。しかも出発は遅れるわ、クーラーが故障するわのトラブル続きで、うんざりさせられる。
大分は私の父の実家があるところであり、それだけ馴染みもある。大分で最も有名な観光地といえばやはり別府で、親族とも何度か訪れているのだが、今回九州の観光ガイドを読んで目をつけたのは、そこから由布岳を隔てた湯布院という土地だ。同じ「温泉街」でも、こちらは自然豊かな温泉郷という雰囲気らしい。
お粗末な単行列車から降り立った由布院の駅。観光地としては「湯布院」と書かれることが多いが、駅名は「由布院」だ。まもなく、博多からやってきた特急「ゆふいんの森」号が入ってきた。上品なグリーンの車体で、見るからに観光用に特化したデラックス列車である。行き先は別府だが、わざわざ「ゆふいん」の名を付しているあたり、湯布院を一大観光拠点として売り出そうという地元とJRの意気込みを感じる。
湯布院での滞在時間は約2時間。駅舎は黒塗りの、レトロ調ながら天井の高いアート風の建物で、ギャラリー併設の洒落た雰囲気。これが、湯布院という街の目指す方向性を表しているのだろう。
駅前から見た感じ、割とこじんまりした温泉街に見える。コインロッカー代を惜しんで、例の重量かばんをかついで歩き出したのだが…。地図上で見たイメージに反して街には広がりがあり、しかも事前にこれといってポイントを絞っていたわけでもなかったので、延々と歩く羽目になってしまった。
東側にそびえる由布岳(1584m)の頂上部には分厚い雲がたれこめている。もっともこの由布岳、稜線がなだらかで、標高の割りには「そびえる」という印象は受けない。街の東に位置する金鱗湖(きんりんこ)、ここは温泉が流れ込むため、朝霧が生じて神秘的な光景を生み出すらしいが、今はどんよりとした空から小雨がぱらつき、景色もぱっとしない。
その後近くの「湯布院民芸村」に向かったが、入場が有料な上、残り時間も少なくなってきたので入るのはやめ、外の土産屋を探るにとどめて駅に戻る。
学生身分だけに出費をけちったことが敗因だが、なんとも中途半端な観光となってしまった。初の長旅ゆえ、こういう土地における観光のノウハウがなかったのが悲しい。これも経験、これも勉強といえばそうなのだろうが…。
久大線残りの行程は、急行形のディーゼルでゆったり過ごす。旅の疲れはピークに達し、居眠りが多くなって途中のことはあまり覚えていない。昼食を食べないまま昼を大きく過ぎてしまったが、全く空腹を感じない。すっかり体のリズムが狂ってしまっている。
久留米で久大線の旅を終え、鹿児島本線に復帰。出水まで、あとは延々と南下することになる。特急「有明」に道を譲りつつ、律儀に各駅停車してゆく。
大牟田から乗り込んだ電車は、もと急行用の475系。この電車がくると、いよいよ南九州エリアが近づいてきたと実感する。この列車は時刻表上では熊本行きとなっており、熊本で出水行きに連絡していることになっているが、実際には一続きの列車で、乗り換えの必要はなかった。地方路線ではしばしばあるパターンだが、それならそうと時刻表にも書いていてくれれば親切なのに、とも思う。
日が暮れ、その熊本での11分の停車時間中に、ようやく立ち食いうどんに箸をつける。あまりに遅い「昼食」。これも「食べたい」という欲求からではなく、「そろそろ何か食べておかないと」という、半ば義務感からだった。
熊本から八代までは、夕方ラッシュにかかり、非常に客が多かった(熊本で一旦降りたので、立ち席を余儀なくされた)が、その後はどんどん減って行き、水俣からは貸し切り状態、そして出水で下車したのは自分一人。いかにも「終着駅」らしいと言えばそうなのだが、わびしい・・。
この8月20日は、一日の大部分を列車(しかもすべて普通・快速)で過ごす格好になった。岡山から出水までのその距離、実に837.6km。好きだからできる。好きじゃなきゃできない。食欲もなくなるわけだ。それでもなんとか無事祖父宅に着き、炎天下の強行軍はとりあえず小休止となる。
当初の予定では、出水の祖父宅には21日の1日間だけ滞在して、22日には長崎に行くことにしていた。ところが、ちょうど22日の晩に台風が最接近するとのことになってしまい、祖父母が心配したこともあって、長崎行きは断念することにし、予約していた長崎ユースホステルにキャンセルの電話を入れた。長崎へはいつか必ず…と心に決めた(注1)。
そんなこちらの無念をあざ笑うかのように、台風は南海をゆっくりと北上。出水滞在の2日間はぐずついた天気で、親戚と共に近場へ出かけた。幸い、この2日の休養で何とか体力は戻り、あとは残り1日の復路の日程を残すのみとなった。
1. が、それが実現したのは実に9年後(2000年)のことだった。