2.西の果てから南の果てへ

 

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 長崎・・にぎやかさと安らぎと

  この日の最大のポイント、長崎。朝からの満員列車攻めで、すでに足腰はガクガク、立っているのもつらい状況。しかし人込みは容赦してはくれない。改装工事中の長崎駅は人がわんさで、押し流されてしまいそう。

  とりあえず長崎に来たからにはまずは「グラバー園」を目指そう、と、市電の乗り場へ。もう予想はつく展開だが、こちらもやはり超満員。乗り心地は「良くない」などというものではなく、前後・左右・そして上下に激しく揺さぶられ、乗っているだけで疲れてしまう。こんな苦行を積んでまで観光をする私って、いったい何なんだ・・・? 正直、そう思う。

  グラバー園は、長崎の街を見渡す丘陵地に数々の異人館を移築した公園。入場料600円を払い、まず「動く歩道」でてっぺんまで登る。そこから見下ろす長崎の街の風景は、市電の苦行を埋め合わせて余りあるものだった。これぞ長崎というスポットだった。

グラバー邸から見下ろす長崎の街 

  和洋折衷の(下写真のオルト邸のように柱は洋風、屋根は瓦ぶきといった具合)建築の数々。時間は限られているものの、足早に素通りするのが惜しく思えて、結局薄暗くなるまで滞在した。

夕日に照らされる「旧オルト邸」 

  その後有名な「オランダ坂」を経て、中華街で夕食をとることに。

  中華街らしく狭い通路には、ここでもまた人の波。もう見飽きた・・。当然ながら店はどこも行列待ち状態。しかし長崎へ来た以上、この中華街で長崎チャンポンを食べておきたい。覚悟を決めて店の一つに並ぶ。小さな店だが、意外と早く入れた。満員の店内の奥の席につき、チャンポンを頼む。・・来ない。まあこれだけ混んでるからな、と自分に言い聞かせつつ、テレビを見ながら待つ。

  番組が1つ終わった。・・まだ来ない。私と同じくらいに入った家族連れも、いらだった様子。忘れられてるんじゃなかろうかと、だんだん不安になってくる。家族経営のような店で、急いで作っているような様子はない。

  念願のチャンポンが出てきたときには、注文からすでに40分ほど経過していた。手作り風で味はまあまあだったが、40分待つだけの価値があったかどうかは・・・。私が出るころ、相席の家族連れはまだ待っていた。お気の毒。

いかにも「中華」なゲート。その先にはやっぱり人の洪水・・ 

  市電に乗って長崎駅に戻ってみると、下り「かもめ」の到着が30分ほど遅れると言っている。鹿児島本線の事故のためだとのことだが、まったくこの日は、最後まで人波とダイヤの乱れに振り回されることになってしまった。

  長崎 21:24[15] → 博多 23:15[06] [特急「かもめ46号」2046M/電・885系]

  「かもめ46号」は、結局9分遅れで長崎を出発。今春デビュー、「白いかもめ」がキャッチフレーズの最新型885系電車で、座席がふかふかの革張りというのが大きな特徴。さすがに時間も時間なだけにガラガラだが、思えば今回の旅行で「すいた列車」は新神戸以来初めて。ぜいたくな気分で2時間弱をゆうゆうと過ごした。

885系かもめの車内 

  9分遅れは変わらぬまま博多到着。九州特急のダイヤはなかなかタイトで、遅れてもなかなか回復が利かないのだろう。午前にはあれだけごった返していた博多のホームも、23時を過ぎた今となっては静まり返り、あの喧騒がうそのようだ。5月3日、悪夢の人込み道中は、とりあえずここで幕となる。

 一気に南国へ


 2000年5月4日
 博多→枕崎→西鹿児島→宮崎空港→飫肥→高鍋→南宮崎
  博多 0:06 → 伊集院 5:41 [特急「ドリームつばめ」91M/電・787系]

  博多から西鹿児島行き特急「ドリームつばめ」に乗って、一夜にして北九州から南九州へ飛ぶことになる。「つばめ形」787系が黒光り。私は早くから並んでいたので窓際席を無事確保。しかし席にあぶれた人もいたらしく、通路をうろうろしていた。この夜は、せき込みながらも(この旅行中ずっとのどの調子が悪く、発作的なせきに苦しんだ。のどあめが手放せなかった。)まもなく寝付いた。

  5月4日は、まず伊集院まで列車に乗り、そこからバスで枕崎へ行き、日本最南端を走る指宿枕崎線に乗ることにしている。目が覚めるとすでに鹿児島県入りし、川内(せんだい)に達していた。しだいに明るくなってきた空を眺めながら伊集院到着を待つ。空は今日も快晴。問題は自分の体調だけ・・。

  伊集院駅で「ドリームつばめ」を降り、駅前に出ると「島津義弘像」が立っていた。伊集院は大名島津氏ゆかりの地らしい。ここから枕崎行きの鹿児島交通バスに乗り換え、私を含めて4人の乗客で出発。乗降客はほとんどおらず、信号以外で停まることもなく、後続車に道を譲りながらマイペースで南下してゆく。

伊集院駅前。義弘像に朝日が射す 

 伊集院 5:56 → 枕崎 7:35 [鹿児島交通バス]

  広々とした田園地。この開放感は北九州にはなかったもので、いかにも南国の雰囲気だ。私の母親の実家が鹿児島で、昔はよく帰省していたので、この風景にはある種懐かしさも覚える。国道270号を進むうち、並行するサイクリングロードのような道が見えてくる。これはかつて伊集院と枕崎を結んでいた鹿児島交通鉄道線の廃線跡。1984年、水害を機に廃止されてしまったという。今乗っているバスは、その跡継ぎということになる。

  このバスでは、車内でラジオがかかっていた。ラジオ放送つきの路線バスとは珍しいなと思いながら聞いていた。薩摩弁のイントネーションにはある程度なじみがあるものの、聞くたびになんとも独特な言葉だと感じる。このバスの中で、前の日から起きていた、少年によるバスジャック事件のことを初めて知った。旅行中はリアルタイムのニュースに接する機会がないぶん、どうしても世情に疎くなってしまうものだ。今現にバスに乗っている身なので、複雑な心境にもなる。

  加世田では、もと駅だったところがバスターミナルになっているようで、近くに鹿児島交通で使われていたものと思われる車両が展示されていた。バスは廃線跡と何度も交差しながらさらに南下し、無事枕崎に到着。

薩摩の朝は青空、田んぼが広々 

 最南端は初夏の雰囲気

  指宿枕崎線の終点である枕崎駅。鹿児島交通鉄道線が廃止された今となっては、長いローカル線の旅の果てにたどり着く「どんづまり」の駅である。しかし私はその「終着駅」から指宿枕崎線の旅を始めることになる。日程の都合とはいえ、やはりこちらからバスで来てしまったのは邪道だったかなと思う。

  枕崎の駅舎は大きい。いかにも旧式とみえる、分厚いコンクリートの建築だ。だが無人化されて久しいとみえて、中には驚くほど何もない。薄暗い空間が、がらんと広がっている。そんな駅舎を通り抜けた先に待つのは、草むした広場のようなホームに、行き止まりの線路が1本だけ。おそらくかつては鹿児島交通のを含めて、数本の線路が走っていたのだろうが、いまや必要最小限のものしか残されていない。しかしこれほど開放的な「終着駅」は、ほかでは見たことがない。衰退して縮小されたというよりも、建築物はそのままに、使わない部分が風化に任されているという印象だ。

古びたコンクリート製の枕崎駅舎 

  そんな最果ての駅・枕崎から出るのは、2両編成のディーゼル車。乗客には学生に加えて、同好の士とおぼしき人たちが多い。みんな進行方向右側、つまり海側に座っている。

青空の下、出発を待つ指宿枕崎線の気動車 

  枕崎 7:45 → 山川 8:45 [普通 3334D/気・キハ58系]

 キハ58系の旅(4)指宿枕崎線

  枕崎を出発した後、薩摩半島西岸をさらに南下してゆく。まもなく海が現れ、前方に開聞岳らしき山のかたちが見える。列車が停まる駅は、どれも短いホームがあるだけの無人駅。線路沿いから張り出す木の枝が、盛んに窓をこする。南国に来て植物の生育もよいようで、すでに初夏の雰囲気が漂う。

  車窓の開聞岳の姿がしだいに大きくなってきた。標高的にはそう高い山ではないのだが、あまりに整ったかたちの円錐型で、それが海岸に近いところで盛り上がっているので、よく目立つ。その間際を通り抜け、西大山という駅に着く。ここが北緯31度11分、日本最南端の駅である。つまり1日経たないうちに、JRの西と南の端を制したことになる。しかしこの西大山最南端の標柱が立っている以外は、ほかの駅と変わり映えせず、周りに田畑しかない無人駅。でも「最果てらしい」といえばそうかもしれない。

  枕崎からちょうど1時間で山川へ。ここは「最南端有人駅」の触れこみで、正面がすぐ海。かつおの揚がる大規模な漁港が望まれる。

山川駅で途中下車 

  波打ち際に下ると、なぜか湯気が上がっていて、水に触れると温かい。そういえば、少し先の指宿は「砂蒸し」で有名。このあたり一帯、海岸の地熱が高いのだろうか。

湯気の上る海辺 

  海岸沿いに歩いて高台に上がり、山川の入り江を俯瞰。背後には今通り過ぎてきた開聞岳が頭を出していた。さすがに気温が高く、歩いているうちに汗だくになってきた。ここではほかに行くべきところもないので駅に戻り、指宿枕崎線の旅を再開する。

山川漁港の背後に、均整のとれた開聞岳の姿が 

 

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