2.山の向こうの山、そして海

 

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 難所に挑む「いさぶろう」

  人吉では、次に乗る「いさぶろう3号」まで、1時間ほどある。駅前ロータリーには、白壁の城のミニチュアが据えられている。ここ人吉は、鎌倉時代から幕末に至るまで、相良(さがら)氏が治めた地だという。これほどの長きにわたって、ほとんどの期間を同じ領主が治め続けた地というのは、全国を捜しても珍しい存在だろう。

いかにも「城下」イメージの人吉駅 

  駅から見て球磨川の対岸に、その居城である人吉城があった。そこまで歩くのは遠いので、せめて球磨川を眺めておこうかと駅前通を歩き出したが、時刻は正午、盆地の晴天の炎天下とあっては、外にいるだけでも消耗が激しい。駅に戻る頃には大汗をかき、身動きのできない状態になっていた。

  日差しの照りつけるホームに、まず八代方面から「九州横断特急1号」が入ってきた。別府を朝8時に出、阿蘇の山を越えて、はるばる人吉までやってきたのだが、息つく間もなく、たった10分で折り返し別府行き「九州横断特急6号」になるタイトなスケジュールだ。次いで、反対側から赤茶色の2両のディーゼルが入ってきた。これは吉松から矢岳の峠を越えてきた「しんぺい2号」で、これが「いさぶろう3号」となる。こちらは5分の折り返し。こうしてお互いに接続が取られているのだ。


  「いさぶろう」の車内はレトロな雰囲気に仕上がっており、車両中ほどには、カウンターつきのフリースペースが設けられている。近くに団体さんがいて、早速にぎやかにしているが、私のいるボックス席には他にだれも来ず、独占状態となった。車内がまだ落ち着かないうちに、列車は人吉のホームを離れた。「九州名物列車」第三弾の出発だ。

  人吉 13:03 → 吉松 14:24 [普通「いさぶろう3号」 1255D/気・キハ140]

  列車は右へカーブを描いて球磨川を渡り、早速登り勾配へとさしかかる。ボックスを独占しているので、嬉しいことに気兼ねなく車窓を楽しむことができる。車内には女性客室乗務員が乗務しており、昼食用に人吉駅弁「栗めし」を購入した。

  これより肥薩線は、人吉から吉松の間に立ちはだかる山岳地帯を越えるべく、九州でもトップクラスの険しい峠越えに挑むことになる。ファンとしては面白いシチュエーションだが、しかし山奥深いということは、沿線利用者がほとんどいないことを意味する。しかも、熊本と宮崎方面とを結ぶ急行「えびの」が2000年に廃止となった時点で、この区間の幹線としての機能は完全に失われている。

  廃線の声が聞かれても仕方のないこの状況下で、同区間を観光路線として再生しようというのは、窮余の策であったともいえる。1996年から、この区間の普通列車の一部が「いさぶろう」「しんぺい」と名付けられ、観光案内をするようになったが、通常普通列車として走るキハ31にヘッドマークを取付け、座席に畳を取り付けて簡易お座敷にした程度の安上がりな「観光列車」だった。(つまり、先の「九千坊号」のスタイル。というより、「九千坊号」こそ旧「いさぶろう・しんぺい」の転用だろう。)

  しかし2004年春の九州新幹線開業に合わせて、JRは肥薩線に大きなてこ入れを図った。そのひとつが、「いさぶろう/しんぺい」への専用車両の投入だった。

  もっとも、鉄道に関してある程度の知識のある者が見れば、この車両がもともと、そこらのローカル線で普通列車として走っていたものの改造であることは一目瞭然だ。とはいえ、その内外装には、テレビ番組の「ビフォーアフター」ばりの大リフォームが施され、その元の姿を知るだけに、あまりの変貌ぶりにただ驚嘆する。

  この新生「いさしん」は好評を博し、当初1両で、通常1往復・多客時2往復の運行だったのが、今や常時2両編成で2往復運転されている。今日の「いさぶろう」も盛況だ。「スローライフ」云々という時代のニーズにも乗って、JR九州の企画は見事にヒットしたといえるだろう。

  列車はゆっくりと走りつつ高度を上げ、やがて一つめの停車駅、大畑(おこば)に達する。山の中の小駅だが、例によってホームだけは異様に長く、2両の列車は駅舎に近いところにちょこんと停まる。ここで数分の停車時間があるということで、乗客の多くが外に出る。小さい無人駅だが、まさに大正か昭和初期あたりの駅がそのまま現代に残ってきたというような駅舎。映画のセットのような安っぽい復元建築でも、博物館の展示物でもない。駅員こそいないが、現役の、生きた駅舎なのだ。

  その駅の待合室の壁には、なぜか無数の名刺がびっしりと貼り付けられている。後述するが、大畑はファンには「聖地」のような存在。しかしなにぶん列車の本数が極端に少ないので、一度降りてしまうと何時間も待たねばならない。あまりに達しがたい地、せっかく来たからには何か足跡を残したい。そんな感情から自然発生した「慣習」ではなかろうか。ただし今は、「いさぶろう/しんぺい」がこうして時間を設けて停車してくれることで、かえってそのありがたみが薄れてしまった感がある。

  大畑がなぜそのように注目を浴びるのかというと、ここは日本で唯一、「ループ線」と「スイッチバック」を兼ね備えた駅であるからだ。「ループ線」は、円を描いて距離を延ばすことによって勾配を緩和するもの、「スイッチバック」は、勾配区間に駅を設けるなどの目的で、列車を一度逆方向に走らせ、引き込み線に入れるものだ。この大畑駅は、ループ線のただ中のスイッチバック線に位置している。

  出発時間が来て、ドアを閉めた「いさぶろう3号」は、これまで進んできたと逆方向に発進する。ただし、もと来た線路には入らず、脇の引き込み線に入って一旦停車。運転士がもとの先頭側へと移り、再び前進を始める。球磨川上流の平野部を右手眼下に見ながら、列車は左側へ大きくカーブを描きつつ坂道を登る。

  やがて列車は、坂の途中で速度を落とす。進行方向左手に現れたのは、「ループ線」の看板。その看板を隔てて斜面下方に、左カーブを描く線路がちらりと見える。人吉側からの線と、さきほど逆進した引き込み線が交わるあたりだ。大畑駅はカーブの先にあるため見えないが、人吉からの線路は、今まさにこの列車のいる地点の真下をトンネルでくぐり抜け、線路の見えているあたりに顔を出していることになる。看板は真新しく、現在の「いさぶろう・しんぺい号」のイラストが入っていることからして、この新生「いさしん」のために設置されたのだろう。

看板つきでよく分かる大畑のループ線 

  列車は、車内全体の客にループ線を見せるために、少し進んでは停まって、を繰り返す。しかし、停まりきれずに後ろへ進み出す。後退しだしたらまた少し推進力をかける。なにぶん急な上り坂の途中だから、「徐行」ができないのだろう。ガクガク前後に揺れながら、列車は2号車の乗客にもループ線を披露した。

  ループ線見物を終えた列車は再び、のろのろと勾配を上がってゆく。次の矢岳までの間に、弁当の包みを開いておこう。栗のかたちをした「栗めし」には、ふっくらとした栗がふんだんに使われており、食べ応えも十分。車窓を流れる緑を眺めつつ、じっくりと頂いた。

  次の停車駅・矢岳は、峠越えのほぼ頂上にあたる。人吉で106.6mだった標高が、大畑で294.1m、そして矢岳では536.9m。この区間の平均の勾配を割り出すと、1kmあたり21.6mほど登ってきたことになるが、明治期のSLには30パーミル(1kmあたり30m)の勾配が限界だったというから、「平均」20パーミルを超す坂となれば相当なものだっただろう。

  ここでも、数分の停車時間が設けられている。例によって、駅周辺にはほとんど民家も見あたらない。しかし駅の待合室は、意外と広い。田舎の分校のような建物だ。いまや線路1本の寂しい構内だが、かつては両側から登ってきた列車が小休止を挟む場として、それなりににぎわいも見せていたのだろう。

大きくはないが風格を醸す矢岳駅線 

  駅の近くに、倉庫のような建物があり、2本の線路が敷かれたその左側に、D51蒸気機関車が保存されている。彼がこの矢岳の峠を登り下りした回数は数知れないだろう。その姿は、平成の峠の主である「いさぶろう」を見守るかのようだ。ちなみに、その隣にはかつて、58654号SLがいたという。豊肥本線の観光列車「あそBOY」の牽引用としてカムバックするために山を下りたが、昨年引退してしまった。D51の右は今も空席のままである。(注1

登り詰め、休止の間をおく「いさぶろう」 

  矢岳を出ると、列車はすぐに全長2096mの矢岳第一トンネルに突入する。これが、「矢岳越え」線路敷設の最大の難関となった場所である。着工は明治39年、日本に最初の鉄道が開通してからわずか三十余年。しかもこれほどに人里離れた山奥だ。多大の犠牲を払いつつ、その3年後に肥薩線は全通した。

  このトンネルの入り口の上部に、大きな石版が掲げられている。人吉側は「天険若夷」、吉松側は「引重致遠」とあり、それぞれ時の逓信大臣・山縣(やまがた)伊三郎と鉄道院総裁・後藤新平によるものだという。この観光列車の下りが「いさぶろう」、上りが「しんぺい」と名付けられているのは、両氏の名に由来する。

  「天下の険を平らにし、重いものをも遠くへ運べるようにした」。意味に直すと身も蓋もない表現になってしまうが、「天険若夷」「引重致遠」の言葉に、時の運輸のトップ2が込めた感慨の深さがうかがえる。陸路の物流がほぼ鉄道に依存していた当時、鉄路が矢岳を越えるということが、単なる一路線の開業以上の意味を持つもの、いわば国家的プロジェクトの一環ともいえる一大事であったことがうかがえる。先人たちがそんな想いのもとに引き通した線路を、再び草むらのなかに帰してはならない。「いさぶろう」「しんぺい」という列車名には、そのような意味合いも込められているのだろうか。

  トンネルをくぐり抜けると、列車は見晴らしのよい高台で一時停車する。「日本三大車窓」に数えられたという、霧島連山の眺めだ。十数年前に肥薩線を訪れたときにはかすんでほとんど見えなかった山々が、嬉しいことに今日はすべてくっきりと見える。その麓にはえびの高原、さらに眼下には川内(せんだい)川流域の平野が広がる。霧島の右手背後に頭を出す山の姿。「今日は桜島が見えます。これほどはっきり見えることは滅多になく、本日のお客様は運がいいですね」と、近くで客室乗務員さんの説明が入る。席を立ち、カメラのシャッターを切った。

矢岳越えのハイライト、霧島連山の眺望 

  しばし霧島のパノラマを披露した後、列車は勢いよく坂道を下りにかかる。林の間にちらちらと霧島の風景を見ながら、やがて3つめの停車駅、真幸(まさき)に近づく。左手下方に真幸のホームが横たわる。列車はその脇を一旦通り過ぎ、しばらく進んだところから逆走して構内へ入ってゆく。この真幸も、スイッチバックの駅なのだ。

  ホームでは、地元の人々とおぼしきおばさんたちが、炎天下にもかかわらず野菜などを販売している。ホームの真ん中には、鳴らすと幸せになるという鐘があり(駅名の「真幸」つまり「まことの幸せ」に由来するようだ)、何人かの人が鳴らしていた。この真幸駅もまた、古めかしい木造のこぢんまりした駅舎で、おばさんたちが連れてきたのか、大きな犬がつながれて、乗客に愛想を振りまいていた。単なる観光向けの演出ではない、なんだかほほえましい光景である。

スイッチバックの長いホームで最後の小休止 

  乗務員さんがホームの発車ブザーを鳴らし、おばさんたちに見送られて、「いさぶろう」最後の停車駅ともお別れとなる。さらにトンネルを出入りしながら勾配を駆け下り、ついに吉松で、人吉から1時間21分の旅を終える。真幸駅の標高が380m、吉松は213m。矢岳から吉松まで、15.1kmの間に323.9mを下ったことになり、平均の勾配は1kmあたり約21.5m。

  吉松で「いさぶろう」の余韻に浸りたいところだが、残念ながらスケジュールがそれを許してくれない。次に乗る隼人行きへは4分の接続で、すでにホーム向かいで出発を待っている。以前に、悠長に列車の写真を撮っていて、目の前にいた次の列車に置き去りにされかけた経験があるだけに、未練を断ち切って乗り換える。

 桜島登場

  吉松 14:28 → 隼人 15:19 [普通 4233D/気・キハ40系]

  隼人行きは1両単行のディーゼル車。国鉄時代そのままと思われる、角張った紺色の座席、くすんだ色の化粧板。あか抜けない内装だが、さきの「いさぶろう」車両も改造前はこんな姿だったはず。JR九州は、新型車やリニューアル車両のデザインには徹底的にこだわる一方、それ以外の既存車両は基本的にほったらかしだから、その落差が激しい。

  しかもこの車両、冷房が故障しているのかと思えるほど効きが悪い。南国の熱気がそのまま車内に充満している。これは南九州を走る列車としては致命的だ。そんな中、天井の扇風機が頑張っている。頑張ってくれるのはいいが、浴びせかけられるのは不快な温風だ。その扇風機の中央には、「JNR」(国鉄)のロゴ。

  次の栗野を出ると、列車は山の間に入ってしまう。霧島の外輪山にあたるエリアなのだろうが、肝心の霧島は隠されてしまってもう見えない。車内の劣悪さと相まって、肥薩線も最後にきてつまらない路線となり、隼人までのほとんどを寝て過ごした。

  八代から5時間余をかけて124kmを走り通した肥薩線の旅は、隼人でついに終わりを告げ、ここから日豊本線へと入ってゆくことになる。ただし、隼人から鹿児島に至る区間も、もとは「鹿児島本線」として開業した路線だ。

  隼人 15:28 → 鹿児島中央 16:09[08] [普通 6951M/電・717系]

  次の鹿児島中央行きの電車へは9分の接続。しかしその短い間でも、蒸し暑い隼人のホームで待つのは結構きつい。それだけに、冷房の効いた車内が実に有り難い。

  列車の左手に、ついに桜島が現れる。青空のもとにでんと居座るその姿。矢岳越えのときには、霧島の肩越しに遠慮がちに頭を覗かせていたが、ここからは堂々たる主役である。

  重富から先、線路と、それに並行する国道10号は錦江湾沿いに出る。ここから竜ヶ水を経て鹿児島に至る区間は、まさに桜島のワンマンショーだ。湾を隔てて数キロに迫る桜島、標高は1100mほどだが、海からじかに盛り上がっているので、間近に迫るとその存在感は圧倒的だ。海から中腹にかけての稜線はなだらかだが、そこから上はゲンコツのようにゴツゴツし、頂上付近には赤茶けた岩肌が露出している様が、車内からでもくっきりと見える。これだけクリアな桜島を見たのは初めてだ。天気の良さに感謝したい。

  ただし、線路より道路が海岸側にあるため、車や電柱や電線が目に付いてしまう。それらを避けて写真を撮ろうとするのだが、なかなか難しい。この道路と線路の関係は、歴史的過程があってそうなっているのだろうが、鉄道派にとってはどうにも面白くない状況である。

なんとか撮れた、クリアな桜島 

  海岸を離れ、列車は鹿児島駅に着く。鹿児島駅は、籍の上では鹿児島・日豊両線の終点ということになっている。しかし今の鹿児島市の玄関口は、新幹線の終点となった鹿児島中央であり、鹿児島駅は扱いのうえでは「その他大勢」の駅のひとつにすぎない。ただ、旧西鹿児島駅を改称するさいに、「鹿児島」の名をそちらにあてがい、もとの鹿児島駅に別の名前を付けるという選択肢もあったはず。「鹿児島」の名称を剥奪しなかったのは、難所・矢岳を越えてはるばるやってきた線路の、当初の終端であった鹿児島駅に対する敬意ゆえなのかもしれない。

  その鹿児島をそっけなく通り過ぎ、城山公園の下をくぐるトンネルを抜けると、鹿児島中央駅に到着する。西鹿児島駅時代に何度か訪れているが、鹿児島中央駅になってからは初めてだ。以前はもっと広々としていたはずだが、周囲にいろいろ建ち並び、狭苦しい雰囲気になってしまった。新幹線のホームは在来線と垂直に交わり、その先に錦江湾と桜島を見据えるかたちで終端を迎える。九州新幹線が全通すれば、東京からここまでが1本につながることになるが、その「果て」に相応しい光景となりそうだ。(ただし、東京から直通する列車が設けられる可能性は低いとされる。)

  鹿児島中央 16:26 → 川内 17:16 [普通 2452M/電・817系]

  次の列車まで再びホームで待たされる。もう16時台なのに、一向に熱は引かない。鹿児島中央を出た電車は右へとカーブし、すぐに山の中へと入ってゆく。鹿児島の市街地はこんなに山に囲まれているのかと驚くが、もともと錦江湾が桜島を中心とするカルデラだということを考え合わせると納得がゆく。つまり、桜島を本丸と考えると、錦江湾が‘内堀’、その周りに連なる山地が城壁のような存在といえる。このように内(中央側から見れば外だが)を向いた地勢が、薩摩の独特の文化、独特の気質を生み出したのかもしれない。

  九州新幹線開業に伴い、鹿児島本線の並走区間は第三セクター化され「肥薩おれんじ鉄道」となったが、川内〜鹿児島中央間はJRが手放さなかった。鹿児島に近い側は確保しておいて、採算の取れなさそうなところを地元にまわす・・・。「株式会社」としてのJR九州の立場を考えれば当然のやり方かも知れないが、なんだかなと思う。

  電車は次第に客を減らしつつ、今や特急の走らなくなった線路を走り抜け、川内(せんだい)に達する。川内は、鹿児島中央を出た新幹線が次に停まる駅で、1日1往復のノンストップ列車を除いてすべての列車が停車する。そのホームは新幹線駅としては珍しく、在来線ホームとほぼ同じ高さに位置する。

 3セク列車と夕日の海

  川内 17:18 → 牛ノ浜 17:50 [肥薩おれんじ鉄道 普通 6144D/気・HSOR100形]

  行き止まりとなった鹿児島線のホームの先に、おれんじ鉄道の改札が設けられ、その先で八代行きの列車が出発を待っている。1両単行のワンマン運転。すべて電化された区間を走るにもかかわらず、おれんじ鉄道の車両はすべてディーゼルだ。電化設備の維持費および車両のランニングコストを考えて、長期的に安上がりな方を取ったのだろう。ただし、この線は貨物列車も通過するため、電化設備も残している。(おそらくその維持費はJR貨物持ちなのだろう。)

  ディーゼルとはいえ、2004年導入の新型だから加速も乗り心地も良い。新幹線の線路と並行して川内川を渡り、まもなく別れる。新幹線はこの先、出水(いずみ)山地をトンネルで突っ切って、今日の私の目的地である出水を目指す。

  薩摩高城(さつまたき)のあたりから、車窓左手に海が現れる。荒々しい絶壁のような岩場の間に、砂浜も見える。川内から阿久根にかけての海岸には、昔よく海水浴に連れてきてもらったから思い出深い。遠く水平線がくっきりと見渡され、西の海原はまぶしく輝いている。17時半をまわったが、まだまだ日は高い。

  この区間のうちのどこかで途中下車をと考えていたが、駅が海に間近いところというのはなかなかなく、結局阿久根の一つ手前の牛ノ浜まで来てしまった。川内からの整理券と運賃を用意して運賃箱のところに行くと、運転士はまずバーコードつきの整理券を取って機械に通す。610円という表示が出たところでお金を投入するとその金額がカウントされ、残高0円となって支払完了となる。ワンマンのバスや列車に乗って、運賃と整理券を箱に入れるときには、「これでは正確に入れてなくても分からないだろうな」と思えてしまうが、これだと確実に徴収できる。

  牛ノ浜は駅舎もない駅で、すぐ前を国道3号が走っている。その3号線を渡ると、海へと下ってゆく狭い階段がある。その下には、ゴツゴツした岩が露出する海辺。川内からここまで辿ってきた海岸線が見渡され、遠く沖には甑島の姿も認められた。岩場には穏やかな波が打ち寄せ、水は澄んでいる。

  それにしても、暑さは相変わらずだ。海辺なのに風は吹かず、むしろ潮気を多く含んだ空気がべったりとまとわって、余計に不快感が増す。ふだんあまり汗をかかない私だが、自分でも信じられないくらいに大汗をかき、駅前の自販機で今日3本目のペットボトルを購入する。

夕暮れの海岸にしばしたたずむ 

  駅に川内行き単行列車が入ってきた。なかなか出発しないなと思って見ていると、川内側から赤い電気機関車に牽引された貨物列車が進んできた。積み荷はコンテナで、結構長い。その通過を見届けて、川内行きが発車。これでは、どちらが主役か分からない。

肥薩おれんじ鉄道の列車 

  南九州の長い日も、18時半をまわってようやく暮れの雰囲気となってきた。ムーンライト九州から数えて14本目となる、八代行きのワンマン列車が今日のアンカーとなる。

  牛ノ浜 18:43 → 出水 19:14 [肥薩おれんじ鉄道 普通 6146D/気・HSOR100形]

  次の阿久根は、新幹線開業の一番のとばっちりを受けた駅である。阿久根市の中心で、もとは特急「つばめ」も停車していた。ところが、九州新幹線は阿久根には目もくれず、出水と川内の間をトンネルでショートカットしてしまった。今や阿久根は、肥薩おれんじ鉄道の停車駅の一つに過ぎない存在となってしまった。

  ローカル専用となった今、おれんじ鉄道のホームは3両分あれば事足りる。従って、中央部のその分だけがかさ上げされ、その両端は荒れるに任された状態だ。かつての特急停車駅でさえ例外ではない。肥薩線から幹線の座を奪った旧・鹿児島本線は、皮肉にも半世紀以上遅れて、肥薩線が辿ったと同じ道をゆこうとしているのだ。

  阿久根を出ると列車は海岸を離れる。太陽は西に傾き、南に連なる出水山地を赤く照らす。19時14分、列車は出水に到着した。

まもなく出水。この高尾野川の風景もなじみ深い 

  かつて特急「つばめ」で到着し、改札で祖父が待ち受けていたコンクリートの古びた駅舎は閉鎖され、その横におれんじ鉄道の小さな駅舎が新設されていた。物心ついてから20年以上の間、ほとんど変化のなかった駅の様子が、新幹線開業を挟んでのここ3年間でがらりと変わってしまったのには驚き、また寂しさも覚えた。旧駅舎の前にあっただだっ広いロータリーは芝生の広場となり、その脇に、有料駐車場併設のロータリーが新たに設けられた。まもなくそこに、祖母の車が姿を見せた。

 注記

  注記の内容は2016年10月現在。

  1. 58654号機関車は再整備を経て、2009年に「SL人吉号」として再々デビュー。このたびは肥薩線の列車となり、矢岳には来ないものの「里帰り」を果たすことになった。

 

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