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1.盛夏の九州を南下 |
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2006年7月29日 (神戸→)博多→八代→人吉→吉松→鹿児島中央→出水 |
7月29日早朝。夜行快速「ムーンライト九州」は緩やかなペースで本州の西端を進んでいた。
昨年の夏にも、九州旅行の往復にこの快速を利用した。行きも帰りも冷房が効きすぎて寒かった。今年はバスタオルを携えて乗り込んだが、それでも防ぎきれなかった。
私が「ムーンライト九州」に初めて乗ったのが、15年前のこと。高校2年の夏だった。「青春18きっぷ」を活用し、鹿児島にある母親の実家への往復に鈍行旅行を組み込んだ。そのときと比べれば、およそ倍の年月を生きてきたことになる。中学生のころまで夏休みのたびに訪れた母の実家に、昔国鉄機関士だった祖父はもうおらず、祖母が住むのみとなった。自分自身の状況も大きく変わった。しかし今回は、夜行快速で九州に入り、鈍行乗り継ぎで各所を巡るという、15年前と似たスタイルでの旅となる。
「ムーンライト九州」は関門トンネルに入る前に、下関で機関車を付け替えるための小休止を取る。三角屋根の駅舎はこの1月に放火されて焼失してしまったが、ホームの様子にはほとんど変わりがない。ここで連結される機関車は、門司までのたった1区間のためのものである。
列車はゆるゆるとトンネルへ向けて下り、しばらく闇の中を進んで、いよいよ九州へと踏み入れてゆく。昨年8月以来、1年弱ぶりに踏む九州の地。門司駅で列車は再び機関車の付け替えのための停車をするが、私は列車を降り、先に出発する荒木行きの電車に乗り換える。
小倉のホームに着くと、向かいには特急「リレーつばめ1号」がいた。鹿児島本線を新八代まで行く特急である。その出発を見送って、私は一旦改札を出、新幹線の乗り場へと向かう。小倉から久留米までの乗車券と、小倉から博多までの新幹線特急券、その先久留米までの特急券を購入する。博多〜久留米間の特急料金には乗り継ぎ割引が適用され、たったの300円。新幹線の特急券とあわせて1,240円。一方、小倉〜久留米間を在来線の特急で乗り通すと1,370円と、割高になる。(いずれも自由席の料金。)
新幹線ホームで出発を待つのは、小倉始発博多行きの「こだま751号」。下りの朝一番列車となる。なんと、「のぞみ」に使用される700系の16両で、グリーン車を除いて全車自由席となっている。わずか1区間のために、明らかに輸送力過剰な列車だ。
1両ほぼ貸し切りの状態で出発した「こだま751号」は、20分弱で博多に着く。ビジネスマン風の人々がぱらぱらと下車するのに混じって、私が向かうのは、在来線のホーム。15名ほどの行列の後ろに立ち、列車の到着を待つ。
朝日に照らされ黒光りした車両が入ってきた。「リレーつばめ1号」、小倉で先に出発していった特急だ。見送った列車をその先で待ち受けるという、追い越しの妙だ。なお、門司まで乗ってきた「ムーンライト九州」の博多到着は、これよりさらに1時間近く後になる。
さて、今回の旅行は「九州名物列車の旅」と銘打っている。普通旅日記のタイトルは旅行の後に決めるのだが、今回はもうこれに決めている。
九州には、実に個性的な顔ぶれの列車たちが揃っている。内外装に原色を大胆に用い、見て楽しみ、乗って楽しむ列車づくりが進められてきた。ひとつの‘島’を丸々テリトリーとするJR九州ならではの「遊び心」ともいえる。特に、九州には特徴的な観光名所も多く、そこには必ずと言っていいほど「名物列車」がある。
その「名物」の第1弾が、「リレーつばめ」である。787系という車両で、これ自体は今までにも何度か乗車している。もともと「つばめ」は博多と西鹿児島を結ぶ特急列車だったが、2004年に九州新幹線が新八代から鹿児島中央(西鹿児島から改称)まで開業し、新幹線が「つばめ」、在来線の特急は新八代までのアクセス用ということで「リレーつばめ」を名乗るようになった。2010年頃に九州新幹線が博多から鹿児島中央まで全通するまでの暫定措置だが、両者は新八代で同一ホームでの乗り換えができる。
乗車中の「リレーつばめ1号」は、ホームでも車内でも、一貫して「鹿児島中央行き」と案内されている。長々と説明をしたのち、最後にきて「なおこの列車は、新八代で鹿児島中央行き『つばめ1号』に同じホームで接続いたします」となる。JR九州としては、あくまでもこの乗り換えをないものとして扱いたいらしいが、利用者が乗り換えを強いられるのは事実であり、混乱を招く案内ではないかと思われる。せめて「新八代乗り継ぎの鹿児島中央行き」とでも言い添えるのが道理では、という気がするが、それはそれでややこしいので、やはり正直に新八代行きと呼ぶべきではないかと思う。ちなみに、先に乗ったこだま号では、「リレーつばめ1号」は「新八代行き」と案内されていた。九州側の意向は、JR西日本には見事に無視されている。
名門特急「つばめ」を襲名しただけあって、この787系の造りは実に上品でしっかりしている。その後に登場した九州の特急車両は、奇をてらったデザインに走る傾向にあるが、「つばめ」は十数年を経てもなお飽きの来ないスタイルだ。それなりにコストもかかっているのだろうけれど、当時のJR九州の意気込みが感じられる。
「つばめ」の前身の「有明」時代から、乗るときにはいつも混雑しているという印象の強い鹿児島線特急だが、今回は週末の朝とあって、さほどではない。最高時速130kmを出せる787系だが、福岡近郊ではダイヤが詰まっているのか、頭を押さえつけられたかのようにあまり速度を出さず、本領発揮といかぬまま鳥栖、久留米へと進む。遅い梅雨明けを迎えた筑紫平野の空は晴れているが、若干雲が多い。
久留米から乗るのは、熊本行きの普通列車。久留米で「リレーつばめ」に追い越され、3分後に後を追う格好だが、別のホームに停まっているので、鞄を抱えて急ぎ気味に跨線橋を渡る。そこに待つのは、味気ないロングシートのステンレス車両。これに延々1時間半ほど付き合わねばならない。
久留米を出てしばらくは、緑鮮やかな水田地帯を、ほぼまっすぐに走り抜ける。線路に沿って、九州新幹線の高架線の工事が進められている。1年前に同じ所を通ったときより、一層実体が明らかになってきた。
夏の九州の自然は、勢いが違う。草木が我先にと競うように茂り、民家のほうがそれに埋没してしまいそうだ。この風景を見ると妙に懐かしくなってくるのは、幼少期に親の帰省で九州を訪ねるのが主に夏場だったからだ。木立の脇に来ると、走る列車の車内からもはっきり聞き取れるほどの、激しいクマゼミの声。いつの間に入り込んだのか、車内を大きなガが飛び回っていたが、駅でドアが開いたときに「下車」していった。
佐賀県から熊本県に移り、荒尾を過ぎると、海に近い雰囲気となる。南荒尾付近で、有明海がちらちらと見え、途中下車したいという誘惑に駆られるが、すぐに内陸へと入ってしまう。風光明媚な八代以南の区間が切り離された今、鹿児島本線には車窓から海の見える区間がほとんどない。
玉名で特急「有明」に追い抜かれ、ここから田原坂越えとなる。不意に車掌が、私が網棚の上に載せていた鞄を指して、「お客様の荷物ですか?」と尋ねてきた。熊本まで時間があるからと思って上げておいたのだが、網棚に物があるのがそんなに珍しい光景なのか? と思って見回すと、私の乗っていた車両の中で荷物を上げていたのは、私1人だった。
列車は山がちな地勢へと入って行き、田原坂駅に停車する。昼間は普通列車の2本に1本が通過する駅で、昨年は通過した。なるほど周囲には何もない。ここで降りてしまうと、次の列車まで、時間を持て余してしまいそうだ。
山を越えた列車は谷を緩やかに駆け下り、9時09分に熊本に到着。すぐに八代(やつしろ)行きのワンマン電車2両編成に乗り換える。再び、脇に新幹線の高架が沿い、水の豊かそうな八代平野を快調に進んでゆく。途中、有佐駅で1両のディーゼル列車を追い越した。これが後ほど乗車する臨時快速「九千坊号」である。快速を名乗る列車が鈍行に抜かれるとは情けない話だが、臨時列車だから仕方ない。
当面の九州新幹線の起点である新八代を過ぎ、まもなく終点・八代に到着する。新幹線の開業で、八代は、肥薩線の特急「九州横断特急」「くまがわ」以外には普通列車しか来ない駅となってしまった。しかもこの先、鹿児島本線の川内(せんだい)までの区間は、第三セクター「肥薩おれんじ鉄道」に移管され、ワンマン運転のディーゼルカーと貨物列車が走るだけの路線となってしまった。特急「つばめ」が発着していた長いホームを発着するのも、今や貨物を除けば1,2両の列車ばかりということになる。
これから乗る肥薩線について、少し解説しておく。福岡側から鹿児島に達する鉄道を敷設するにあたって、八代以南で水俣(みなまた)・川内を経由する海岸ルートと、人吉・隼人(はやと)を経由する内陸ルートが検討されたが、海岸ルートだと海からの攻撃によって寸断されるのではとの懸念等あって内陸ルートが採用となり、難工事の末、1909年(明治42年)に鹿児島まで全通、鹿児島本線とされた。しかしこの山岳路線ではやはり輸送力に限界があり、結局海岸ルートの開通が急がれ、1927年(昭和2年)に全通。内陸ルートのほうは肥薩線と改められた。
現状の「肥薩線」は八代〜隼人間124.2kmで、電化は全くされていない。八代から人吉までは、日本三大急流といわれる球磨川がなす谷を進み、人吉〜吉松間では「矢岳越え」とよばれる急峻な峠越え、その後は霧島連峰の外輪を下り、錦江湾に近い隼人に達する。風光明媚ではあるものの、時代からすっかり取り残された肥薩線だったが、七十数年の時を経て、再び脚光を浴びることになった。九州新幹線の開業に合わせ、この路線に本格的な観光列車が走るようになったのだ。「九州横断特急」、特急「はやとの風」、そして後で乗る予定の「いさぶろう/しんぺい」である。
八代のキヨスクで飲み物を買い、ホームに戻ると、さきほど有佐で追い抜いた1両のディーゼル列車が到着していた。肥薩線乗り通しのトップバッター、そして「名物列車」の第二弾となるのが、この観光快速「九千坊号」である。
カッパのイラスト入りの大きなヘッドマークを掲げているが、これは球磨川のカッパ伝説にちなむという。九州のローカル路線でよく見かける「キハ31」というステンレス車両でのワンマン運転で、観光列車と呼ぶには味けない。しかし車内に入ると、向かい合わせの座席に畳が渡してあって、簡易お座敷列車とでも言えそう。もっともこのお座敷は指定席なので、指定席券を持たない私は、車両の端に気持ち程度に設けられた自由席に着く。乗客は各‘座敷’に一人か二人いるかいないかという程度で、車内は閑散としており、乗る分にはありがたいが、いつもこの調子なのだとすれば、先行きが危ぶまれる。
9時56分、列車は八代を発ち、肥薩線へと入ってゆく。入ってゆく、といっても、もとはこちらがメインルートだったので、肥薩線のほうがまっすぐ球磨川沿いを進み、後からできた元鹿児島本線(今は肥薩おれんじ鉄道線)のほうが左側に分岐する格好だ。おれんじ鉄道線は左側へ離れて向きを90度転じ、肥薩線と球磨川を鉄橋で跨いで右側へと去ってゆく。川の両側に山が迫り、平成生まれの南九州自動車道、九州新幹線、そして九州自動車道の真新しいコンクリート橋が相次いで頭上を跨ぐ。対して明治生まれの肥薩線は、球磨川の脇に残されたわずかな隙間を細々と辿ることになる。
その球磨川の水は、かなり濁っている。この旅行のちょうど1週間前、7月22から23日にかけて、熊本南部から鹿児島北部にかけての地域を、集中豪雨が襲った。梅雨前線の最後の大暴れで、祖母宅のある鹿児島北端の出水(いずみ)を含めて、大変な水害が起きた。1週間を経てなお泥が引かぬとは、この球磨川流域においても、あちこち崩れているのだろう。
一応は快速列車なので、幾つかの駅は通過するが、時折、観光案内の車内放送がかかる。ただしテープによる案内で、「次は、○○です。運賃、切符は・・」という時に流れるようなワンマン放送と同じ声色だから、いまいち気勢が上がらない。だがそうはいっても、要所では列車が徐行ないし停車し、じっくり見せてくれるサービスはありがたい。車内に据え付けてあった「見どころマップ」と照らし合わせながら、その風景をじっくりと味わう。
鎌瀬を通過すると列車は鉄橋で球磨川を渡り、川は進行方向左手に移る。急流の見所はこれからで、ゆえに畳の‘座敷’もそちら側にセットされている。次の瀬戸石で、対向列車待ちのため11分の停車があるので、一旦車外に出てみる。ホームのみの無人駅だが、そのホームの長さが尋常でない。7,8両は優に収まるだろう。ただし、出入り口に近い3両ほどの分だけがアスファルトでかさ上げされ、それ以外は草の生えた「盛り土」のような状態になっている。これは肥薩線の駅全般の特徴で、長大編成が行き交ったであろう「鹿児島本線」時代の栄光を物語っている。
この駅には、島式のホームの真ん中に待合室がある。そのかわり駅舎がなく、「瀬戸石駅」と大きく書かれた看板が、出入り口部分の線路脇に立てられている。昔は駅舎があったが、水害で流されてしまったのだという。駅を出ると、そのすぐそばを球磨川が流れ、反対側には険しい山の斜面が迫る。他にはほとんど何もない。
対向列車としてやってきたのは、真っ赤な顔をした3両編成の「九州横断特急」だった。新幹線が開業した2004年、それまで熊本〜人吉間で運転されていた急行「くまがわ」が特急に格上げされた。さらにそのうちの過半数が、豊肥本線の特急「あそ」と統合して、別府と人吉を結ぶロングラン特急として再出発を切ったのである。ちなみにこの特急、通常は2両編成で運転され、その場合はなんとワンマン列車となる。車掌ではない客室乗務員が、検札から車内販売までマルチに行うことになる。
瀬戸石を出た「九千坊号」は、谷いっぱいの幅に流れる球磨川を左脇に見、右へ左へとカーブを描きながら、山すそをそこそこのスピードで走ってゆく。球泉洞のあたりに来ると、その川の流れが車窓からも分かるほどに激しくなる。これまではダム湖が多く、「急流」と言われてもピンとこなかったが、これを見せられると、なるほどなと思わされる。
ぜひその流れを間近で見ておきたいと思い、次の一勝地駅で「九千坊号」を下車する。古めかしい木造駅舎は観光案内所を兼ねているが、だれもいない。せっかくの観光列車のご到着なのに、今開けずにいつ開けるのかと思う。もっとも、ここでこの列車を降りたのは、私一人だけだったのだが。
10分少々経てば次の列車が来てしまう。川を見に行けばそれで終わってしまう時間だ。幸い、駅を出るとその目前を球磨川が流れている。青い空、鮮やかな緑の山々、そしてその真ん中を勢いよく流れてゆく川の流れ。残念ながら清流とはいかないが、その猛々しさは岸にも十分伝わってくる。勇んでカメラのシャッターを切り、満足して一勝地駅に戻った。
やってきた人吉行き普通列車は、ヘッドマークと畳がついていないこと、観光案内の放送がないことを除けば、さきの列車とほとんど変わらない。引き続きしばらく川を左手に見て進んだ後、川を渡る。狭い谷がようやく開けてきて球磨川も遠ざかり、「川線」とも呼ばれる肥薩線北半分の旅は終わりを迎える。人吉到着は正午の少し前。別のホームには、既にドアを閉めて停留する「九千坊号」の姿があった。