6.駆け足最終日

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 湯布院を巡る

  湯布院を訪れるのは1991年8月の旅行以来15年ぶりだ。駅名は「由布院」だが観光地としては「湯布院」と書かれることが多い。もともと「平村」と「由布院町」とが合併してできたのが「湯布院町」。つまり「湯布院」は2つの町村から取られた合成地名なのだが、「由布院」も地域名として残っているので、あたかも同音で表記の違う「ゆふいん」が混在しているような状況になっている。観光地としての「ゆふいん」は基本的に旧由布院町のエリアを指すが、「湯」の文字があることで温泉地のイメージを抱いてもらいやすいから「湯布院」が多用されるのだろう。

  2005年にはさらに周辺の町と合併して「由布市」となり、行政上の「湯布院町」は消滅したので、ますますややこしい状態になっている。「湯布院」ブランドの知名度を考えれば、駅名もそちらに合わせたほうがよさそうだが、「湯平」駅が別にあるだけに変えにくいのだろう。いっそ(先に「ひらがな地名は好きでない」と書いたことと矛盾するが)観光特急「ゆふいんの森」に合わせて、今流行りのひらがな駅名にするのも手かもしれない。

  前回は重い荷物を抱えての歩きで大変な目にあったので、今回は荷物をコインロッカーに入れた上でレンタサイクルを使って街を巡る。駅前通をまっすぐ東に辿れば金鱗湖(きんりんこ)方面に向かい、これが湯布院観光のメインストリートになるが、まずは南東側に折れ、広がる田んぼの中から由布岳を望む。標高1,500mを超える由布岳、あいにく山頂部に薄雲がかかっている。

  そこから北上して金鱗湖方面へ。このあたりは15年前にも訪れており、見覚えのある景色に行き当たる。下の写真の場所、前回も写真を撮っている。デジタルカメラのある今と違い、フィルムと現像にコマあたり数十円かかった時代、シャッターを切るにも相応の覚悟が要り、一つ一つのシーンの重みが違う。何気ない風景だが何か気になったのだろう。それだけに記憶にもよく残っている。

レンタサイクルで湯布院めぐり 

  散策路には食事処や土産物屋、工芸品のギャラリーなどが並び、店先の気になるお菓子を買って食べながら散策を進める。いずれも古民家やペンション風の建物で、街の風合いを保とうという配慮が行き届いている。それでも前回と比べると、何となく俗物化というか、観光色が強くなってしまった感は否めない。別府のようなあでやかさとも、バブル的な贅を尽くしたリゾート地とも一線を画し、村おこしの成功例として語られることが多い湯布院だが、注目され往来が激しくなればそれだけ、本来の持ち味である素朴さが失われるわけで、このあたりは加減の難しいところだろう。

金鱗湖に向けての散策路 

  そして1991年にも訪れた金鱗湖へ。由布岳の麓に静かに水をたたえ、鏡のように湖畔の木々を映し出す。実際には「湖」というほど大きくなく、気軽に1周できるほどのもので、いろいろな角度からの景色の変化を見て回る。日が射したり曇ったりで、すっきりと晴れるには至らないが、悪くはない。

金鱗湖 

金鱗湖 別の角度 

  なお、金鱗湖北側の湖畔には「下ん湯」という共同浴場がある。200円で入れるが残念ながら入浴の準備がない。

  残りの時間は観光から離れ、久大本線の南由布駅方面へと向かってみる。さきほどトロッコ列車から前方に見えた由布岳のインパクトが強く、これをもう一度じっくりと見て列車と絡めた画を収めたいと思ったのだ。

  街を離れ、田んぼの中を自転車で南西へ走り、見覚えのある陸橋にやってきた。線路が緑の盆地に弧を描き、由布岳の麓へと向かっている。素晴らしい構図だ。由布岳に相変わらず雲がかかっているのが生憎だが、そこまでの贅沢は言えない。

  うまい具合に、由布院から南由布へと向かう「トロQ」がやってきた。青い山に明緑の田んぼ、そこに現れた濃緑色の列車。濃淡のコントラストが絶妙だ。この風景に出会えただけでも、湯布院に来た甲斐があったというものだ。

トロッコ列車、由布岳をバックに 

 最後の名物列車

  由布院 15:49 → 久留米 17:31[27] [特急「ゆふいんの森4号」 7004D/気・キハ71系]

  由布院から乗り込むのは、特急「ゆふいんの森」。まさに湯布院と共に歩んできた列車であり、今や九州に数多く存在する観光列車の道筋を付けた列車と言っても過言ではない。久留米まで運賃と特急料金が必要になるが、それでもぜひ押さえておきたいと思った特急で、今回の名物列車のトリを務めていただく。


  メタリックグリーンの車体に金の帯。車両そのものには15年前にも由布院駅で出会っているが、中に乗り込むのは初めて。客室はかさ上げされた、いわゆるハイデッカー構造で眺めがよい。内装は欧州あたりの列車を模したような雰囲気だ。

「ゆふいんの森」客室の様子 

  由布院を出ると列車はすぐに由布岳に背を向け、西を目指す。勾配を駆け上がって由布の盆地を後にし、山越えにかかる。ここが分水嶺となって早くも筑後川(玖珠川)の水系に入る。ただし、あとしばらくは大分県が続く。

  由布院を出て最初の停車駅である豊後森には、使われていない転車台と機関庫が。廃止されて久しい様子だが、かなり規模の大きなものだったようだ。ここで対向列車として、同じく「ゆふいんの森」号と行き違う。こちらの列車は1989年にデビューした初代(キハ71系)で、足回りはキハ58系のものを流用しているが、あちらは1999年に登場した新車(キハ72系)である。ちなみに、先に庄内で出会った「ゆふDX」に使われている車両(キハ183系)は一時期(1992-99年)「ゆふいんの森」として運転されており、それを含めればキハ72系は3代目の「ゆふいんの森」ということになる。

  南側に山頂部が真っ平らな台形の山が現れる。伐株(きりかぶ)山というそうで、文字通り切り株のような形状だ。

ユニークな形状の「伐株山」 

  アテンダントが飴を配りに来た。車体と同じ濃緑色のパッケージに、「Yufuin No Mori」エンブレムの模様が入っている。なんということもない飴だが、特製の包装というのがちょっと嬉しい。ふと、「ゆふいんの森」の「森」は何を指しているのか?と疑問がわく。金鱗湖周りの森林のイメージか、豊後森の地名にかけているのか。あるいは単に自然が豊かという印象を与えたいがためで、深い意味はないのかもしれない。

  やがて谷が狭まり、天ヶ瀬付近では玖珠川の渓流が右へ左へと移り変わる。

天ヶ瀬付近 玖珠川に沿って進む 

  谷が広がり日田へ。ここは2002年の北九州旅行で訪れており、改札口に掲げられた「水郷 日田温泉」の看板が飛び込んでくる。ここで下車した人が多かったようだ。再び谷が狭まり、日田彦山線と分かれる夜明を過ぎると、ついに大分県から福岡県へ移る。思えば、昨日の夕方から丸1日近く大分県に身を置いていたことになる。一気に谷が広がり、筑紫平野へと飛び出してゆく。平野と呼べる場所に来るのも、実に久しぶりだ。

久大線の旅も大詰め 

  すっかち平坦になった道のりを快走するが、久留米手前でなぜか信号待ちをし、久留米には4分遅れの到着。次の普通への乗り継ぎが短いので慌ただしい下車となり、見送りの余韻に浸る間がない。空はどんよりと曇り、もう辺りは薄暗い。

 さようなら九州

  久留米 17:35[32] → 鳥栖 17:42[40] [普通 5346M/電・817系]

  「ゆふいんの森」を追いかける普通電車は3分遅れの発車。加速の鋭さに編成の短さも手伝って、やはりスピード感が違う。

  鳥栖 18:01 → 原田 18:14 [普通 182M/電・811系]

  さて、名物列車の旅を終え、あとは往路と同じ夜行快速「ムーンライト九州」に乗って家路へと向かうわけだが、その前にひとつ、まだ乗ったことのない路線に立ち寄ることにしている。筑豊本線の原田(はるだ)から桂川(けいせん)への区間で、「原田線」という愛称がある。もともと筑豊本線は石炭輸送がメインで、炭鉱の衰退と命運を共にすることになったが、途中の折尾〜桂川間は北九州近郊のベッドタウン開発とともに再び重視されるようになり、篠栗線ともに電化されて「福北ゆたか線」という愛称が付された。一方両端の若松〜折尾間(若松線)と桂川〜原田間(原田線)は非電化のままで、特に原田線は途中冷水峠を越えるということもあって流動が乏しいのか、列車の本数は極端に少ない。福北ゆたか線とくっきり明暗を分けた格好だ。

  そんな路線なのでこれまで乗る機会がなかったが、今回は原田から桂川に抜け、そこから篠栗線を経由して博多に向かおうと思う。鹿児島本線沿線も開発が進んでいるようで、昔と比べて駅の数が飛躍的に増えている。それに伴って快速の停車駅も増えており、以前は快速は通過していた原田駅も今は快速停車駅になっている(注1)。当然速達性は犠牲になるが、速さを求めるならホームに特急券の券売機を用意しているから、どうぞ遠慮なく特急を使ってねというのがJR九州の姿勢だ。

  原田 18:19 → 桂川 18:47 [普通 6628D/気・キハ40系]

  原田は自然の中にある乗換駅というイメージがあったが、快速停車と連動して開発が進んだのか、駅周辺がだいぶひらけてきた印象を受ける。それでも全体として駅には昔ながらの雰囲気があり、原田線の列車が出発する切欠式の0番ホームの看板には国鉄フォントで「←鹿児島・長崎方面」とある。最近まで快速すら停まらなかった駅にしては随分遠い行き先だ。しかも今や鹿児島本線は分断され、鹿児島まで一続きではないのだが、ここに書かれているのが「鳥栖」や「大牟田」などではないあたり、「本線」と「本線」の接続駅らしく、ただの支線の分岐駅とは違う風格めいたものを感じる。

看板に国鉄の名残が 

  桂川ゆきの列車はキハ40の単行で、夕方ラッシュの時間でもガラガラ。福岡近郊の開発も、ここばかりはどこ吹く風だ。

原田から出る筑豊線列車 

  原田を出るとカーブして鹿児島本線を分かれ、まずは平地を快走する。次の筑前山家(ちくぜんやまえ)には、なぜか西鉄の路面電車が脇に保存されている。ここから勾配にかかってゆっくりと登り、長いトンネルで峠を越える。冷水峠の字の通りトンネル内はよく冷えていたのか、トンネルを出ると途端に窓ガラスが曇り、外が見えなくなった。

  原田から桂川までの間に3つの駅があったが、いずれも交換設備が撤去され、対向ホームの跡だけがむなしく残っていた。交換設備がないということは、今や1編成のピストン輸送で十分事足りるということだ。かつては貨物列車に加えて、筑豊本線経由の特急や急行もあったというから、鹿児島本線のサブ路線としての地位を有していた時代もあったわけだが(注2)、山陽新幹線が開通して博多が九州における鉄道の集約拠点となったことで、博多を経由しない筑豊本線を通る意味がなくなってしまったのだろう。あらゆる意味で時代の流れから取り残されてしまった不遇の路線だ。外もそろそろ暗くなり、旅の終末が迫る寂しさが増幅する。

  桂川 18:49 → 博多 19:22 [快速 4661H/電・817系]

  桂川では2分の接続で博多行きの快速へ。こちらも峠越えにかかるるが、やはり気動車とは比べものにならない推進力がある。博多から向かってくる対向列車は満員の乗客を乗せている。

  赤く染まる博多の空。ホームから見上げると巨大なクレーンがそびえている。数年後には九州新幹線がここから新八代まで通じる。それにあわせた駅の再開発が進行中だ。新幹線が鹿児島まで全通すれば、九州の旅もまた様変わりするだろう。JR九州のこと、また新たな名物列車たちを繰り出してくるに違いない。

  今回の九州での最後の晩餐は、地下街で博多ラーメンを。両親がともに九州出身なので、九州の味には馴染みが深い。

ラーメンで夕食 

  博多 20:40[39] → 三ノ宮 6:12 [快速「ムーンライト九州」 9232レ/客・14系]

  ホームに、赤い機関車に牽かれた「ムーンライト九州」が入ってきた。意外にも、上りのこの列車に始発の博多から乗るのは初めてである。そして隣のホームには、なぜかキハ58系の列車の姿。団体列車のようで、できあがった人たちが列車の内外をうろうろしている。今回南九州で出会い、また「あそ1962」や久大本線のトロッコ列車として乗ったキハ58系だが、次に九州に来るときまで残っているかは怪しい。ここで最後にもう一度会えたのは嬉しかった。(注3

「ムーンライト九州」で帰路に 

  博多を出た「ムーンライト九州」。速度は出さず緩やかなペースで東進する。箱崎では特急に、そして快速にも抜かれる。まだ列車の多いこの時間に、電車がバンバン走る隙間を、緩慢な客車列車に縫ってゆかせるダイヤの苦労がうかがえる。

  気がつくと下関。あっけなく九州を出てしまった。毎度の事ながら、今夜も車内は寒い。幸いにも隣に誰も乗ってこなかったので、2席を独占して寝ていた。

 注記

  注記の内容は2016年10月現在。

  1. 門司港〜鳥栖間における途中駅は、1974年時点では28だったが、2016年には45になっている。このうち快速の停車駅が24前後で、かつての駅総数とそう変わらない。もちろん車両性能などが向上しているので、所要時間は74年当時の普通より現在の快速の方がかなり短い。列車本数も比較にならない。

  2. 山陽新幹線開通前の1974年時点で、筑豊本線経由の優等列車は特急「かもめ」(京都〜佐世保間)と夜行急行「天草」(京都〜熊本間)があった。いずれも桂川〜原田間での停車駅はなし。なお当時の「かもめ」は気動車で、京都〜長崎便と京都〜佐世保便を小倉で分割・併合し、長崎便が鹿児島本線(博多)、佐世保便が筑豊本線(直方・飯塚)を経由していた。1978-85年の間は寝台特急「あかつき」が同様の形態(分割・併合は門司)で運転された。これが原田線区間では最後の優等列車となった。

  3. 「あそ1962」は2010年12月、「トロQ」は2009年11月で運行を終了。現在JR九州のキハ58系は「あそ1962」の2両のみが籍を残している模様。  

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