3.新雪と海と青空と

 

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 新雪輝く南三陸


 2004年12月30日
 仙台→女川→仙台→郡山→会津若松→郡山→新宿

  明けて12月30日。サービスの朝食をいただき、ホテルを出発する。雪は夜のうちに止み、さわやかに晴れてきりりと冷えている。路面が凍結して歩くのが怖い。

  さて今日の最終目的地は新宿。夜行快速「ムーンライト信州」に間に合うように南下してゆくことになるが、まず目指すのはその逆方向。石巻線に入って終点女川(おながわ)を目指し、南三陸の海を眺めてみたい。仙台駅で昼食用の弁当を買い込み、いざ出発。

  仙台 9:01[8:51] → 前谷地 9:54[42] [快速「南三陸1号」 3921D/気・キハ58系] 

  まずは気仙沼行きの快速「南三陸」。小牛田(こごた)まで東北本線を北上し、そこから石巻線、気仙沼線へと入ってゆく。列車は気動車の3両編成。キハ40系でキハ28を挟むという、ひと昔前のローカル線にはありがちだった混成編成だ。せっかくなので今や少数派となりつつある中間のキハ28に乗り込むが、晦日の帰省ラッシュか、車内は既になかなかの混み具合。座席に着くのは諦めてデッキに立つ。連結部分の運転室が開放されていたので、そのスペースに入ってみる。

  列車はなぜかなかなか出発せず、定刻より10分遅れで仙台を出発。小牛田までの東北線区間に途中停車駅はなく、30分超をノンストップで走ることになる。

  デッキなので走行音がダイレクトに入ってくるが、よく知っているキハ58系のとはエンジン音が違っていて、より甲高く、力強い。メカのことには詳しくないのだが、エンジンを換装して出力を上げているようだ。おかげで何か別物の車両に乗っている気分がする。

  そのように足回りが更新されているのに対し、車体の方は旧態依然というギャップ。金属色むき出しの無骨なデッキ扉の向こうには昔ながらのボックス席が並び、大きな荷物とともに乗客が座席にひしめき合っている。昭和の急行の光景だと言われても全く違和感がない。

快速「南三陸」の車内は、古めかしい「汽車」の雰囲気 

  列車は雪原を北上。運転台の計器を見れば90km/h以上をコンスタントに出している。主要幹線の東北本線だけに快調な走りだが、デッキにいるためかよく揺れる。仙台では晴れて青空が見えていたが、次第に曇り、山間では今も雪が盛んに降っている。

東北本線をゆく 

  仙台からノンストップで突っ走ってきた列車だが、小牛田手前まで来て速度を大きく落とし、徐行して鳴瀬川を渡る。結果遅れが更に広がり、小牛田には14分遅れの9:38に着。これより石巻線に入り、同線の終点女川を目指すが、そこまでに2回の乗り換えが必要になる。

  再び空に晴れ間が見えてきた。一面の雪景色がさわやかに広がる。前谷地の手前の涌谷(わくや)で上りの快速「南三陸」とすれ違う。キハ58系とキハ40系の混成4両だ。こういう国鉄世代のごちゃまぜ編成も、果たしていつまで見られるのだろうか。

  前谷地 9:57[55] → 石巻 10:15[16] [普通 1633D/気・キハ58系]

  前谷地から気仙沼線に入る「南三陸」を下車し、石巻行きに乗り換える。こちらもキハ40系がキハ28を中間に挟む3両編成だ。ただし今度のキハ28は座席が特急で使われていたような転換リクライニングシートに交換されている。座席が変われば客室の雰囲気も随分豪華になった感じがする。20分ほどしか乗れないのがもったいない。

  旧北上川の流域に入ってゆき、晴れて明るくなってきた。積雪は15cmほどで、一面にまぶしく輝く。夜の間に積もったのだろうが、日が高くなって解け始めている。こちらのキハ28も足回りが更新されているようで、よく知っているキハ58系のアナログな走りとは異質のメカニックな乗り心地だ。

石巻駅に到着 

  石巻 10:20 → 女川 10:48 [普通 633D/気・キハ40系]

  石巻で女川行きの列車に乗り換える。キハ48、2両編成のワンマン運転(注1)。デッキが撤去され座席が1列+2列となり、キハ110に似せたような車内構造となっている。しばらくは石巻近郊の住宅地を進み、雪かきをする人々の姿を目にする。

  沢田を過ぎると右手に海が見えてくる。「万石浦」といって、厳密には入り江というべきか湖と呼ぶべきかわからないが、とにかく三陸らしいリアス地形に入ってきたのだとわかる。宮城県の東海岸を南側から地図で辿ると、海岸線がなめらかに東向きにカーブしているが、石巻湾の先でいきなりギザギザの牡鹿(おしか)半島に行き当たり、そこから先は岩手県にかけて凹凸の激しい海岸が続いてゆく。牡鹿半島の西側に位置する万石浦はちょうど、この先三陸海岸ですよという目印のような場所といえる。

  浦宿(うらしゅく)から万石浦を離れ、一山越える。ここが牡鹿半島の付け根にあたり、トンネルを抜けると女川に着く。行き止まりの線路の先、少し低い位置に駅舎があり、改札を出ると正面に女川港。これぞ終着駅、という風情だ。

  女川港は東に口を開いた湾の入り江に位置し、古びてはいるが割に活気がありそうな漁師町だ。湾を囲む山々が白い粉を振ったように装い、青空のもとに映える。港にも10cmほどの雪が積もっており、足を取られながら歩く。日本海側でも沿岸部に雪が積もっていることは意外と少ないもので、こうした光景を太平洋に面したここ女川で見られたというのは、多分貴重な経験だろう。

女川の入り江に浮かぶ舟 

  女川駅に戻る。改札口を抜けると階段でホームに上がる構造になっているが、その階段の途中に青い線が引いてあるのに気づく。横に据えられた看板の説明によると、昭和35年(1960年)5月に発生したチリ地震の津波がここまで達したというラインらしい。この高さだと、駅舎や港周辺の建物はすっかり浸水してしまったことになる。実際、死者・不明者は各地で計130人を超えたという。地球の裏側の地震がそこまでの津波を引き起こしたというのが驚きだが、東に向けて口を広げる三陸のリアス式地形が波を集めてしまったのだろう。(注2

  今朝のテレビで、スマトラ沖地震の死者が7万を超えたと報じられていたが、それもほとんどが津波によるものだ。雪がやんで穏やかに波打つ今の女川漁港からはイメージしにくいが、突然に海から来る脅威とはいかほどのものか。ホームに上がろうとすれば嫌でも目に入るこの青い線は、半世紀近く前のその悲劇を忘れないようにとの戒めなのかもしれない(注3)。今回の旅には、何かと地震の話がついて回る。

チリ地震の恐怖を今に伝える 

  女川 11:24[23] → 石巻 11:51[50] [普通 1634D/気・キハ40系]

  先ほどの列車の折り返し便で、もと来た道を引き返す。山を越えて再び万石浦に。水面とあまり変わらない高さで沿岸を進むので、その広がりが車内からもじかに感じられる。空や海の青さと、沿線の雪の白さとがコントラストをなして美しい。ただしさきに通ったときと比べれば、雪は解けだしている。儚いものだ。

石巻線は穏やかな万石浦に沿って進む 

  石巻 11:54 → 仙台 12:57 [快速 3124S/電・205系]

  石巻からは往路とルートを変え、仙石線の快速で仙台を目指す。出発を待つのは、先頭部にSuicaペンギンの描かれた205系の4両編成(注4)。仙石線には2002年の正月にあおば通から石巻まで乗車しているが、今回はそれと逆のアプローチだ。仙石線は東北唯一の直流電化区間で、前回は首都圏からのお下がりの103系だったが、その103系を首都圏で置き換えた205系が、さらなる世代交代で都落ちし、仙石線の103系を置き換えてしまった。相変わらずのロングシートで、風光明媚な松島海岸を走るには残念。また、以前は快速に「うみかぜ」の愛称が付いていたが、なぜかこの10月に無名の快速に変更されている。

  矢本までは各駅に停車。モーターをうならせ、いかにも頑張って走ってますよという風だった103系と比べれば、型落ちとはいえ205系はスムーズな走行だ。野蒜(のびる)から海沿いへ。先ほどは石巻までなめらかな海岸線だと書いたが、実際には塩釜から野蒜にかけて海岸線が食い込んで松島湾を形成し、その中に小さな岬や小島が点在している。これがいわゆる日本三景・松島海岸の絶景を作り出しているのだ。

  仙石線はそんな松島湾の海岸に沿って進む。入り江に浮かぶ島々を見ながらの快走はこの区間ならではの楽しみだが、今回はその島々も雪化粧し、また違った趣がある。

松島湾沿いを進む。浮かぶ島々も雪化粧 

  高城町を過ぎると、右側に東北本線の線路が近づき併走する。ただし、両線が直接接続する駅はなく、これだけ近いのに営業列車用の接続線もない。身内なのに他人同士のようでなんとも素っ気ないが、そこには仙石線がもともと私鉄からの買収路線であるという歴史的背景がある。この経緯ゆえに東北本線と電化方式が異なるせいでもあるが、生粋の国鉄線と私鉄上がりの路線にはやはり厳然たる格差があるように感じられる。(注5

  右側ではこうしたマニアックな場面が繰り広げられる一方、左側にはいよいよ名勝・松島海岸が姿を現す。ただし道路や電線などが邪魔して、車内からその姿をすっきりと見ることはできない。やがて仙石線は入り江の風景から一転、港湾都市塩釜へと入ってゆく。塩釜の街もやはり雪に覆われ、停泊する船にも積もっている。

  ここからは東北本線と別れ、南側からのアプローチで仙台近郊へと向かってゆく。今回の旅行ではこの先、海を見ることはもうない。

 東北本線を南下

  南三陸を一巡して、仙台に戻ってきた。約4時間ぶりだが、ずいぶん長旅をしてきた気がする。ここからは東北本線を南下して新宿を目指すことになる。仙石線の地下ホームから長いエスカレーターで地上へ上り、東北線ホームへ。次に乗るのは福島行き快速「仙台シティラビット」だが、あまり時間の余裕がない。

  仙台 13:04 → 福島 14:17 [快速「仙台シティラビット4号」 3584M/電・719系]

  車両は昨日仙山線で乗ったと同じ719系。車内はすでに結構な混み具合で、どうせ座れないので先頭車の運転室後ろに立つ。朝の時点で昼食用の弁当を購入してあるのだが、しばらくはお預けになりそうだ。仙台市街から郊外へと移り、岩沼で常磐線と別れる。これより先福島までは、初めて踏み込む区間となる。

  槻木は阿武隈急行との接続駅。地図で見れば東北本線と同様、阿武隈急行線も福島を目指しているが、名前の通りこちらは阿武隈川に沿って福島盆地に向かうルートをとっている。阿武隈急行線はもともと東北本線のバイパスとして計画されていたもので、槻木側から途中丸森まで国鉄丸森線として開通したもののバイパス計画は頓挫。中途半端に放置された丸森線は廃止対象となるほどの大赤字路線になってしまったが、第三セクター転換後に残りの区間を開業させて今に至っている。国鉄末期には多くの未成線がうち捨てられただけでなく、そのせいで行き止まり路線に終わった越美南線(→長良川鉄道)や高森線(→南阿蘇鉄道)なども切り捨てられてしまった。そんな中で、とりあえず当初の計画どおりの形になった阿武隈急行線は幸せな部類の路線だ。

  右手前方に蔵王山が見えてきた。蔵王には1998年、初めての東北旅行の際に訪れている。東北本線のほうはしだいに山間に入ってゆき、上下線が離れる区間も出てくる。空が暗くなり、雪が降り出す。

右手に蔵王山の姿 

  白石で幾らか客が減り、いよいよ県境の峠越えにさしかかる。今は車両の性能が上がっているのでさほど感じないが、非力なSLの時代には結構な難所だったと思われ、この山越えを避けたいがために、阿武隈川沿いにバイパス線を造ろうとしたのだろう。

雪を巻き上げて走る「仙台シティラビット」 

  県境を越え、福島盆地へ下ってゆくにつれて雪が激しくなってきた。東北新幹線と交差を繰り返し、最後は阿武隈急行線と合流して福島に着く。

  福島 14:20 → 郡山 15:06 [普通 1138M/電・719系]

  次の普通列車へは3分の接続。 女川以降気ぜわしい乗り継ぎが続いている。立ち席になり、このたびも食事はできそうにない。

  福島を出ると早速盆地を後にして、登り勾配にかかる。雪はやみ、明るくなってきた。車窓右手つまり西側には、今度は吾妻山が控えるはずだが、雲に覆われている。

西方の吾妻山方面を見ながら、列車は勾配にかかる 

  杉田でようやく席にありつくが、トイレの前では食事する気になれない。こうして食事の時間がずれ込んでゆくのは乗り継ぎ旅ではありがちなことだが、さすがに参ってくる。郡山盆地に向けて谷が広がってゆく。特に変わったところはないが、雪があることで目を引く風景になる。

  郡山駅到着前に、なぜか構内に、かつて仙石線で走っていた103系の編成が留置されているのに気づく。前述のとおり仙石線は今では205系に置き換えられ、103系は撤退したはず。直流用の103系は郡山あたりでは使えないので、単に置き場の問題でここに置いているだけなのだろうが、ちょっと懐かしい気持ちになった。(注6

  郡山からは磐越西線に入り、喜多方まで往復して昨年の旅行で食べ損ねた喜多方ラーメンでも食べようかと考えていたが、既に超満員で乗れる余地なし。ならば磐越東線に入って常磐線のいわきに抜けようかとも考えたが、こちらも既に満員になっている。いい加減そろそろ食事にあずかりたいのでこれらは見送り、どうしようかと思案してみると、この後会津若松行きの臨時快速がある。これなら入線した時を狙えるし、臨時列車は一般に定期列車より利用が少ない「穴」なので、座れる確率が高い。

  その臨時列車は割と早めにホームに入ってきた。455系急行形車両の3両編成なのだが、先頭車は「クロハ455-1」。「ロ」とはグリーン車のことで、車両の半分がグリーン車に改造されている。車番にこそ「ロ」の文字が残っているが、今では扱い上は普通車に格下げされているので、「青春18きっぷ」でも堂々と乗ることができる。ちなみに、もともと普通車扱いだったもう半室のほうも転換クロスシートになっていて、ボックスシートである他の車両よりはグレードの高い仕様となっている。

  うまい具合に、自分の待っていた場所の目の前に元グリーン車の乗降口が来たので、遠慮なくそちらに入る。がっしりした座席に、足下には足のせ台まである。こんなのに乗らせていただいてもよいのかと恐縮してしまう。1本見送ったことによる怪我の功名だ。

磐越西線 元半室グリーン車のクロハ455 

  出発時刻が近づけば乗客も増えてくるだろうから、今のうちに遅い昼食をいただいておこう。朝に仙台駅で購入していた「牛たん弁当」がようやくのお目見えだ。実はこの弁当は2度目なのだが、仙台名物のジューシーな牛タンが御飯の上で食欲をそそり、しかも加熱容器でホカホカをいただけるのが、列車で食べる駅弁としてはポイントが高い。その前回のインパクトが忘れられず、リピートした次第だ。

  ひもを引き抜いて温まるのを待ち、包装を開ける。前回と同様、御飯を覆うように敷き詰められた牛タンがまずは目に飛び込んでくる。そして箸を付ける。十分待ったはずなのに温まりが今ひとつ良くない。ちょっと残念だが、コリコリの牛タンと素朴な麦飯が味わい深く、今回も満足。ここまで散々飢餓感を味わってきただけに、格別だった。

仙台駅弁「牛たん弁当」 

  グリーン車の座席で味わう牛たん弁当の旨さにすっかり幸せになりながら、出発を待つ。今日ここまで、ほとんどの乗り継ぎが数分程度の慌ただしいものだったので、腰を据えて出発を待つというのも実に気分がいい。他と違う雰囲気が敬遠されるのか、この車両には意外と人が寄りつかない。それでも最後には満員になり、列車は会津若松に向けて発車した。なお、この区間の快速に以前は「ばんだい」という名称があったが、この10月に廃止されて名無しの快速になっている。仙山線の「仙山」、仙石線の「うみかぜ」と同様だ。どういう理由からかはわからないが、なんとなく寂しい。

  郡山 15:51 → 会津若松 16:55 [快速 8215M/電・455系]

  もう日は沈みつつある。郡山盆地から山間へとさしかかり、勾配を駆け上がってゆく。古くても急行形電車の安定感はさすがで、特に座席がどっしりしているので気分も落ち着く。森を駆け抜け、右手に会津磐梯山が姿を現す。スキー場のコースらしい白い筋が山肌に浮かび上がって見える。

夕刻の会津磐梯山 

  峠を越え、磐越西線は大きくカーブを描きながら会津盆地に向けて高度を下げてゆく。その先には会津若松の市街地が見えてくる。

  会津若松に着く頃にはもう空に闇が迫っていた。残念ながら喜多方へ行く時間はないので、駅前を少し歩き、あとは駅内の土産物屋を見て過ごす。外の道は凍っているが、地元の人は平然と自転車で走ってゆく。

「白虎隊」の像が立つ会津若松駅前 

  会津若松 18:14 → 郡山 19:24 [普通 1238M/電・455系]

  郡山行きに乗ってもと来た道を引き返す。今度は普通のボックス席仕様の455系だ。

  右へ左へ大きくカーブしながら勾配を登って行く。周りはもう真っ暗だが、磐梯山のスキー場のコースがライトアップされて白く浮かび上がっている。その見える向きの変化で、列車の進んでいる向きの変化がわかる。猪苗代でスキー客が大勢乗り込んできた。窓から寒さがしんしんと伝ってくる。あとはもう闇の道中だが、12月30日はあと5時間ほど残っている。

  郡山 19:41 → 黒磯 20:42 [普通 2152M/電・455系]

  「昼食」からさほど時間が経っていないが、この先も更に乗り継ぎ旅が続くので郡山の駅そばで腹ごしらえをしておく。

  黒磯行きの普通は、またも455系。昨日の北陸本線、そして今日の東北本線や磐越西線は、かつて455系が実際に「急行」として走り慣らした区間。残念ながらその時代を経験することはできなかったが、先ほどの臨時快速などはその片鱗をうかがわせるものだった。今日について言えば、朝のキハ28に始まり、途中乗った719系も急行形電車の足回りを流用しているというから、ここまでかなりの区間で急行の流れを汲む車両に乗ってきたことになる。それだけ東北で急行車両が幅を利かせていたということだが、21世紀に入って急行形は各地で急速に勢力を減じつつあり、こんな機会ももう何度と得ることはできないだろう。

  白河を過ぎると客も減り、東北最後の駅白坂から関東へと移って行く。沿線にはまだ雪が残っている。この積雪がどこまで続くかが見ものだ。

  黒磯は交流から直流電化に切り替わる境界。普通列車の運用は完全に分断されており、455系がここから南に入ることはない。(455系自体は交直流両用だが、急行撤退後の東北では専ら交流区間で使用されてきた。)従ってここでお別れとなる。すでに栃木県に入っているが、鉄道の観点で見ればここが東北の南限という感じがする。

東北の雄、455系とは黒磯でお別れ 

  黒磯 20:58 → 宇都宮 21:46 [普通 1622M/電・E231系]

  寒いホームでしばらく待たされ、やってきた次の列車はE231系の5両編成。一気に首都圏に入ってきた感じがする。年季を経てガタピシしてはいたが、クッションが効いてまろやかな感触だったここまでの電車とは対照的に、新しくてパワフルなのだが、いかにも機械が制御しているという風の制御音が耳に付き、乗り心地もごつごつしていて何となく落ち着かない。比較するとJR西日本や東海が開発した近郊車両のできのよさがわかる。

  宇都宮 21:47 → 赤羽 23:27 [普通 690M/電・E231系]

  宇都宮から先は、同じE231系の10両編成。うち4,5号車はグリーン車である。小金井からはさらに後部に5両増結されて15両に。栃木県から、東北本線で唯一茨城県に属する古河、そこから利根川を渡って埼玉県へ。外が真っ暗なので、こうして地図を辿るくらいしか楽しみがない。驚いたことにここまで南下しても沿線に雪が残っている。今日は関東でも広く積雪があったのかもしれない。大宮の手前あたりまで続いていた。

  赤羽 23:35 → 新宿 23:48 [普通/電・205系]

  赤羽からは埼京線の電車で新宿へ。新宿から乗る夜行快速「ムーンライト信州」への接続時間は6分。ところがその出発ホームが見当たらず右往左往。ここまできて乗り遅れようものならシャレにもならないので慌てたが、なんとか間に合った。考えてみれば、もし東北本線がどこかで数分でも遅れようものなら、あるいは埼京線が何かの拍子で止まったりしたら、取り返しのつかないことになっていたところで、結果オーライとはいえなんと無謀な乗り継ぎプランだったかと、後で我ながら恐ろしくなった。

 注記

  注記の内容は2016年12月現在。

  1. このときに石巻〜女川〜石巻間で乗車した2両編成は、気仙沼線を走行中に東日本大震災の津波に遭い廃車、そのまま現地で解体された模様。この旅日記冒頭の写真の車両がそれだが、写真に写る女川駅ホームとともに過去のものとなってしまった。

  2. 1960年5月22日のチリ地震はマグニチュード8.5、モーメントマグニチュード(Mw)9.5とされ、計測された地震としては世界史上最大規模のものだった。なお2004年12月26日のスマトラ島沖地震はMw9.1、2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)はMw9.0であり、いずれも津波で甚大な被害が発生した。

  3. 女川駅は東日本大震災で駅ごと流失、約200m内陸に移設の上2015年3月に復旧した。

  4.  このとき乗車した車両も東日本大震災で被災(石巻駅停車中に津波で冠水)し、廃車となっている。

  5. 2015年5月、仙石線の全線復旧にあわせて、この区間に東北本線〜仙石線の接続線を設け、仙台〜(東北本線)〜高城町〜(仙石線)〜石巻間を短絡する「仙石東北ライン」が運行を開始した。電化方式が異なるため直通列車にはハイブリッド気動車が採用されている。仙石線の快速の役目は仙石東北ラインに置き換わり、あおば通〜(仙石線)〜高城町間は普通列車のみとなった。

  6. 仙石線の103系は2004年7月までに置き換えられたが、1編成(郡山駅に留置されていた編成)は同線の立体交差化工事に伴う運用増のために2007年3月に復帰。2009年10月まで使用された。この編成がJR東日本最後の103系となった。

 

 

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