現在の播但線は姫路〜和田山間ですが、かつては姫路〜飾磨港間5.6kmも「播但線」を名乗っていました。(もっとも、共通していたのは名前だけで、相互の結びつきは皆無だったようです。)姫路から山陽電鉄線の西側に沿って南下する路線でした。
もっぱら臨港貨物路線で、旅客輸送は山陽電鉄にお任せだったようで、旅客列車は74年時点でわずかに朝夕1往復ずつの運転でした。86年10月限りで廃止。
現在工事が進むJR姫路駅の高架化に伴って、JR線と立体交差する山陽電鉄線も巻き込んでの大規模な再開発が行われており、とりわけ姫路駅近辺では飾磨港線の痕跡は完全に失われつつあります。
以下、緑色矢印は姫路→飾磨港方向を示しています。
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地平時代のJR姫路駅(山陽電鉄の車内から)。岡山方へ向かう線路の中に1本、南側に曲がってその先で途切れた線路があり、これが飾磨港線であったと思われます。
飾磨港線はその先、山陽電鉄の線路をくぐってその西側に回り、しばらく並走する格好となっていましたが、JRの高架化に伴って山陽電鉄線が西側に付け替えとなり、廃線跡の一部が取り込まれました。 |
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山陽電鉄手柄駅南側では、一部、廃線跡が歩道化されています。 |
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その先では写真の通りの荒れ地に。この向こうで、廃線跡は山陽電鉄線から離れてゆきます。 |
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山陽電鉄網干線 飾磨駅の西で、歩道化された廃線跡がその下をくぐります。これより先、飾磨港線はさらに南進、新日鐵広畑工場への引き込み線も分岐していたそうです。 |
1966年に姫路市手柄山で開かれた博覧会のアクセスのために姫路駅〜手柄山間にて開業。
当時の高度成長の時代にあって、新交通を軸にした先鋭的な都市計画を姫路の地に実現しようという思惑があったようで、将来的には飾磨の工業地域や姫路城、北部の住宅地までも直結するという壮大なプロジェクトでした。
しかし博覧会後は全くふるわず、計画は頓挫。1974年に営業休止、79年に正式廃止に追い込まれました。実働わずか8年足らず。その夢のあとには、薄汚れたコンクリートの細い道だけが、文字どおり市の頭の上にのしかかる「負の遺産」として残されました。
軌道跡は、ながらく大半の区間で放置されていましたが、姫路駅周辺の再開発等に伴って次第に姿を消してきています。かつてその上を走っていたモノレール車両は、手柄山の地下(もと手柄山駅)で今も眠っています。なお、姫路市は手柄山駅を改修し、2011年から公開するとの計画です。
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旧手柄山駅を出たところ。線路はその先で切り絶たれ、黒ずんだコンクリートの軌道は今や鳥の足場に。この足下にモノレール車両が収まっていますが、もはやどこへも出ることはできず、旧手柄山駅は文字通り列車の墓場となっています。 |