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2.海・川・山の山形 |
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1999年12月30日 (新宿→)村上→余目→新庄→米沢→坂町→五泉→新潟 |
夜行快速「えちご」の夜は熟睡。新潟で進行方向が変わり、終点村上へ。村上では次の酒田行き普通列車821Dへ、わずか3分の接続、そこに壮絶な席取り合戦が待っている・・・。
村上には定刻6時05分に到着。その瞬間、列車を降りた乗客が一斉に走る、走る。乗り換えの地下道は一番先頭寄り。私が乗っていたのは6両編成の4両目なので、遅れを取ったが、地下道を走った勢いで821Dの先頭まで走り、何とか席を確保。なかなかスリリングな乗り継ぎに、「えちご」はやっぱり18きっぷ利用者のためのものなのだ、と感じる。
村上〜酒田間は、電化しているにもかかわらず普通列車がすべてディーゼルという変わった区間。直流から交流に切り替わるデッドセクションがあるためだが、あえて電車に置き換える意義もないとみえる。府屋までは間近で海岸が出入りする「笹川流れ」を見ながら進むことになるが、まだ夜が明けきらない時間帯、暗黒の海に立つ波が何となく不気味だ。
府屋を過ぎると新潟県から山形県に移り、「東北」入りとなる。この先、海岸線が緩やかになり、空も明るくなってきて、列車は漁村を通過しながら順調に北上して行く。小波渡(こばと)から日本海に別れを告げて内陸へと向かい、羽前大山で対向列車待ちの11分停車。村上以来初めての小休止で、気分転換に外へ、と思うと、皆考えることは一緒で、大勢がホームに出ていた。荒涼とした農村、背後には雪山。これが東北の冬景色か。
ここから庄内平野を進んでゆく。鶴岡では地元客は入れ替わったものの、「えちご」組の顔ぶれは変わらない。彼らはこのまま青森までも行くのだろうか・・? 私は、青森まで行ってしまうと明日中に神戸に帰れなくなってしまうので、余目で降りる。前方には鳥海山の姿。くっきりと稜線が見えるわけではないが、山そのものが空の色の中に浮かび上がっているかのようで、しばし見とれる。
余目からは陸羽西線に入り、山形県の内陸部へと向かってゆくことになる。新庄行き快速「最上川」号は、余目を出ると古口までノンストップで快調に走ってゆく。積雪が増えてゆき、左手に風車の群れを見ながら進むうちに、平野は尽き、最上川の谷間に入ってゆく。高屋から古口にかけては、最上川に沿って進むハイライト区間のはずだが、トンネルや林に阻まれてなかなか展望が開けず、やっと見通しが良くなってきたころにはもう、古口が間近。
古口は、古びた木造の小さな駅で、周りの積雪は40センチほど。駅近くの桜の枝が無惨に折れてしまっていて、地元の人たちが、「この前の雪は大変だった」というようなことを言っている。凍って滑る道路をおそるおそる歩き、最上川舟下りの乗り場から川を眺めてみる。松尾芭蕉が「五月雨を集めてはやし」と詠んだ最上川、今は雪山を映して寒寒と流れている。
列車の旅に復帰し、古口を出るとまもなく最上川を渡る。陸羽西線が最上川を跨ぐのはこの一度限りで、この先この川に近づくこともない。その後平地が広がって、あたり一面の雪がまぶしい。線路だけでなく、道路にも風よけがめぐらされている。なおこの列車の左手の座席は、窓側に45度回転できるというシロモノだったのだが、私が座ったところは窓と窓の境目で(そこしか空いていなかった)、回転すると景色が遮られるので意味がない。
山形新幹線の延伸開業から間もない新庄駅ホームでは、改札前で雪だるまがお出迎え。
駅東側には無料の駐車場が広がり、その向こうには真っ白な栗駒山系の雄姿。ここでも路面があちこちで凍結しており、滑りそうになることしばしば。ふだん雪と無縁な生活をしているだけに、スリリングであると同時に怖いものがあった。
新庄から村山までは、今後の予定を考えて山形新幹線でひとっ飛び。列車は新庄延伸に合わせて導入された、「こまち」と同タイプのE3系。新幹線の名に恥じない非常に安定した走りで、雪道をすいすいと駆け抜ける。この列車にとどまっていれば、東京には14時半前には到着できる。でも今回、新幹線は「つなぎ」に過ぎない。私が東京にたどり着くのは、明日の早朝だ・・。
村山駅で、新幹線を降りた私を待っていてくれたのは、今や東北一帯にはびこる701系。足回りのレール幅こそ新幹線に合わせた標準軌だが、車体のハコそのものは他の路線と同等で、ロング座席のそっけない造りだ。この車両の出現が私にとって、東北の鈍行旅の魅力を激減させるものとなったことは否めない。となると我ながらげんきんなもので、この電車では山形までほとんど寝て過ごしていた。山形周辺では、積雪の量は少ない。今は、最上川水系のなす盆地を北から南へと進んでいるが、同じ盆地でもこういう差を生み出すのは、一体何なのだろう。
それにしても、東京駅の新幹線ホームからやってくる列車と、2両編成のローカル仕様のワンマン電車が、同じ線路の上を走るとは、考えてみると奇妙な取り合わせだ。
山形では3分の接続。次の列車はロングシートではなかったが、空席が見あたらなかったので運転席後ろで「かぶりつき」。線路が単線になったり複線になったりで、見ていて結構おもしろい。こんな区間にミニ新幹線を高速で走らせるのだから、さぞかし高度な行き違いダイヤが組まれているのだろうと思う。米沢盆地に入ると、再び白一色の世界に。
米沢では2時間ほどの滞在時間がある。町歩きをしようとしたところが、ここでもコインロッカーが封鎖されていて、重い荷物を担いで歩く羽目になる。
曇りから小雨、雪、最後には晴れ間も出るという、雪国らしい変わりやすい天気の中、江戸時代の古き良き雰囲気の残る米沢の町を巡りつつ、米沢城跡まで歩く。
城跡には、米沢の誇る名君・上杉鷹山(ようざん)の像が立つ。10代藩主の鷹山は、数々の産業を興して藩の財政を立て直したとのこと。今も米沢は独特の工芸や味覚に恵まれた都市として、鷹山の残した業績の恩恵に浴しているわけだ。
城跡公園の周囲の堀には氷が張り、桜並木も毎年毎年重い雪がのしかかるせいか、枝がいびつに折れ曲がった姿。決して気候環境の良くない土地で、何とか忍びつつ繁栄を作り出してきた米沢という街を象徴しているように思えた。
帰路では、街角の店で売られていた「甘酒饅頭」が目にとまり、立ち寄って購入。蒸したてを出してくれ、腰があってかつふわふわした食感、そしてしっかりお酒の香り。これぞ旅の醍醐味。
結局、米沢ではかなりの距離を歩くことになってしまった。重いカバンで体力消耗。爆弾犯がいかに恨めしく思えたことか。
米沢駅で名物「牛肉弁当」を購入して、米坂線のディーゼル車に乗り込む。この列車は古参キハ52で、通路の床がブカブカしている部分があり、これから気象の厳しいところへ入っていくのに「おいおい大丈夫かいな」と思う。
米沢の市街地を南へ迂回し、しばらく盆地を進む。「牛肉弁当」は素朴な味付けが良い。もう少しボリュームがあれば・・。食べている間に周りの積雪も増え、随所に防風柵が並ぶ。
今泉で14分停車して、ここからいよいよ屈指の豪雪区間に入って行くこととなる。が・・そんなところで、米沢での疲れが出たか居眠りしてしまい、気が付くと既に山の中。ここの積雪はすごい。山肌に積み重なり、覆い被さっている。厚みは1m近いだろうか。樹木があちこちで折れ曲がり、変形しているのが哀れに思える。
谷川が蛇行し、列車は慎重すぎるほどののろのろペースで進んで行く。その両脇には、高さ80cmほどの「雪の壁」が続く。そして、そんな谷にも人の生活がある。
しかし残念ながら、もう外は暗くなってきた。小国で15分ほど停車しているうちに外はほとんど真っ暗になり、あとは目を凝らしても、見えるのは線路際の雪のかたまりだけ。今度来るときは午前中に来たいものだ。
積雪は次第に減り、終点坂町あたりまでくると15cmほどになっていた。
坂町からはロングシートの新型電車で新潟へ。その間はほとんど寝ていた。どうも「ロング→寝る」という構図ができあがっているようで・・。
新潟駅で夕食のラーメンを食べる。しかし、冬の夜は長い。今夜乗る「ムーンライトえちご」まで、まだまだかなりの時間がある。暗いので何も見るべきものはないけれど、列車に揺られる方がまだ気が紛れるので、まだ乗ったことのない磐越西線の方へ、少し足を延ばしてみることにした。
夜の五泉の町はさすがにひっそりしたもので、歩いていてむなしくなってきた。帰るころになると霧が立ちこめてきて、列車は徐行運転に。
新潟に帰ってきてみると、ダイヤが全般に乱れている。羽越線方面がかなり遅れていたらしく、改札員に文句を言うおっさんの姿が。この手のおっさんは、タクシー代を出せとかいった法外な要求をするもので、いやらしいことに改札でわざわざ邪魔になるようにまとわりついている。
あとの1時間半、待合室は空気が悪く、かといって外は寒いし、改札の見苦しい光景に立ち会うのも面白くないので、居場所に困ってしまう。結局、「えちご」も10分ほど遅れて到着。ようやく安息の地を見いだした、という気分。乗り込んで切符の拝見が済んだ後は、即熟睡した。