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3.ふたつの峠越え |
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1996年12月23日 (新宿→)新津→越後湯沢→横川→小諸→小淵沢→横浜→東京 |
12月22日には1日かけて長岡から新宿まで南下したわけだが、夜行快速「ムーンライトながら」で新潟県へと北上、ふりだしに戻ることになる。一見無駄な動きだが、いかに夜行列車を活用しつつ、押さえるべきポイントを拾おうかと熟慮した末の苦肉の策である。翌12月23日には、再び新潟から首都圏へ1日がかりで南下することになるが、前日とはルートを変えて、上越線から信越線、小海線などをたどることにしている。
目が覚めると長岡。時刻はまだ4時過ぎ。今日はここから引き返すかたちで上越線を進む予定にしているが、ここで降りてしまうとあまりに時間が早いので、新潟まで進むことにする。この列車は新潟に5時12分に着き、そこから普通列車で折り返すと、長岡には6時38分に戻ってくることになる。
うとうと過ごすうちに、新潟の手前の停車駅である新津に着いた。私は何を思ったか、ここで降りねばならないと勘違いし、あわてて列車を降りてしまった。どうせ折り返しは同じ列車になるので、大勢に影響を与えるミスではないのだが、二晩連続で睡眠時間3,4時間というハードスケジュールのツケは、確実にまわってきているようだ。旅程はまだ半分以上を残しているだけに、先が思いやられる。
上り列車がやってくるまでの45分ほどの間、新津駅の待合室で所在なく過ごす。外の路面は濡れており、遠くで雷鳴が響いている。霧が濃かったものの天気は良かった昨日と違って、今日の新潟は荒れ模様なのか。まだ真っ暗なので、そのあたりの判断はつかない。
長岡行きの電車は2両。まだ暖房の効きが不十分なのか、それとも寝起きの低血圧のせいか、背中がゾクゾクするような嫌な寒気を覚える。窓から寒さが伝ってくるようだ。そんな窓をバラバラと打つものがある。外はみぞれ模様らしい。その後東三条から長岡までの約半時間ほどは眠っていたようだ。浅い眠りで、かえって気持ちが悪い。
ようやく薄明るくなってきたころ、再び長岡着。越後中里行き電車に乗り換えて、上越線に入る。越後川口までは、ちょうどほぼ1日前に進んだと同じ線路をたどることになる。しかしまたしても居眠りしてしまい、気がつくともう越後川口を出たところだった。
進むにつれて、落ちてくるみぞれの中に白い粒が目立つようになってきた。雪模様に変化してきたのだ。それだけ次第に山地へ近づいてきたわけだが、意外なことに乗客は次第に増えてゆき、座席が埋まって立ち客も目立ってきた。私のボックス席に、サラリーマン風の3人連れの男性が乗ってきたが、話を聞いているとどうやらスキー場の関係者らしい。となると合点がゆく。雪に覆われる冬の新潟において、雪山は雇用確保に欠かせない格好の「職場」なのだ。
同席者の会話は、来春開業の「北越急行」の話題へと移った。東京から富山・金沢方面へ行くのに、今までなら長岡までまわっていたのが、越後湯沢から直江津へショートカットできるようになる。バイパスとしての役割が主となるだけに、単線ながら時速160kmまで出せる高規格路線として作ってあるそうだ。地元の人たち、こと湯沢に縁のある人たちには当然関心の的となる話題であり、同席者たちも、特急の停車駅はどうなるか、普通列車の運転本数はどうかといったことを話している。もっとも、いずれ北陸新幹線が金沢方面につながれば、北越急行はバイパスとしては用済みになると言われており、決して将来を楽観できるわけではない。
周囲の山々がしだいに険しさ、白さを増してきた。それにつれて列車も高度を上げる。越後湯沢に近づくと、乗客の大半が降りる支度を始めた。やはり彼らは「通勤客」だったのだ。
越後湯沢の駅は、上越新幹線との接続駅らしく広々としたコンコースを備えた近代的な駅だが、どことなくうら寂しい印象を受ける。私自身の体調のせいもあろうが、陰鬱な天候が雰囲気を暗くしているのだろう。こんなところに長くいると、気が滅入りそうだ。
次の水上行きまで2時間近くある。雪がふりしきる湯沢の町へ歩き出す。積雪は10cmほど。シャーベット状の重い雪だ。比較的規模の大きな街だが、この中途半端な時間にこの天候ときては、駅周辺をうろうろするくらいがせいぜい。土産物屋をのぞき、名物の笹団子を買って、駅に戻った。待合室で朝食代わりに食べた笹団子は、旨かった。やはり、地のものはその地で食するのが一番味わい深いものだと思う。
4両編成の水上行きに乗って上越線の旅を再開する。湯沢から先、いよいよ三国山脈に挑む峠越え路線の様相を呈してくる。列車は大きく蛇行しながら高度を稼ぎ、雪はさらに深くなる。雪の少ない暖冬といわれてはいても、やはりあるところにはあるものだ。駅のすぐそばにスキー場が構える越後中里で、ここからの本格的な山越えに備えるかのように、7分の小休止。
これより先、直通する列車は少ない。この列車も、冬季期間はスキー客のために水上まで走るが、通常は中里止まりということになっている。プランニングのネックとなる区間だ。
中里を出ると、上越線の上下線は大きく分かれる。昭和6年に全通した上越線は当初単線で、今進んでいる上り線が当時からの線路である。こちらは越後中里〜土樽間と土合〜湯檜曽間の2カ所にループ線をもうけて高度を稼ぎ、土樽〜土合間の「清水トンネル」で峠を越える。その長さ、9702m。もちろん当時としては最長だった。複線化のために昭和42年に開通した「新清水トンネル」は13500m。こちらは現在の下り線として使用され、ループ線はない。ちなみに、昭和57年に開業した上越新幹線は、22221mの「大清水トンネル」で同じ峠を越える。これは青函トンネルに次ぐ日本2位の長さである。清水、新清水、大清水と、名前のとおりレベルアップを重ねてきた国境越えの3本のトンネルは、日本の建設技術の進歩をそのまま証ししている。
最初のループはトンネルの中なので識別できない。離れた下り線と一旦合流して土樽。ここから全長10km近い清水トンネルに突入する。延々と続く暗闇と轟音。戦前の先人たちの労苦を思いつつ、再び襲ってきた眠気と闘う。トンネルを抜けるとそこはもう群馬県で、まもなく土合駅に着く。静まり返ったモノクロの世界。周囲に生活の気配は見あたらず、ホームに足跡もない。しかし一人だけ、下車した人の姿が見えた。
しばらく進むと、右手下方に一瞬、直角に伸びる線路と、湯檜曽の集落が見える。すぐに列車はトンネルに入り、大きく左へカーブしながら勾配を下ってゆく。そしてトンネルを抜けたところは、さっき下方に見えた線路。なんだか不思議な気分だが、これがループ線の醍醐味だ。
上越の国境を越えてきた電車は、水上で終着となる。ここは利根川の最上流に近く、駅は狭い谷間の温泉街に横付けされたような格好となっている。
乗り換えた高崎行き電車はたったの2両。すでにかなりの混雑だ。これから群馬の中心へ向かう列車が、山越え列車の半分の長さとは何たる事か。水上を出ると、沿線の雪はみるみる減ってゆく。そして乗客はますます増えてゆく。重い鞄を、網棚に上げることも、足下に置くこともできず、同じ姿勢で保持しなければならない。そんな状態が1時間。まるで「走る拷問部屋」だった。
高崎で、満員電車から吐き出されるように外へ出る。青い空。昼前にして、今日初めて見る日の光。車内からはほとんど外が見えなかったので、この1時間のあいだに何か別の世界にワープしてきたかのようだ。実際に監獄から出される人の心境も、これに似たものがあるのだろうか。
ここから電車を乗り換えて、信越本線に入ることになる。次の列車まで30分ほどあるので、普通ならホームや駅内を歩き回ろうかと考えるところだが、先の苦痛でそんな気力さえなくなってしまったので、そのまま乗り換える。
これから入る信越線は、高崎から軽井沢、長野、直江津、長岡を経て新潟へ向かう路線だ。実は今朝、新津から長岡、そしてひと駅宮内までは、この信越線を逆にたどってきたのである。つまり、宮内で分岐した信越線と上越線が、ここ高崎で再び出会ったことになる。
先に述べたとおり、上越の「国境越え」は、10km近いトンネルとループ線を駆使してようやく越えられたほどの難所であり、完成をみたのは昭和に入ってからのことだった。ではそれまではどうやって関東から新潟へ達していたのか? その答えが、この信越本線の存在である。その全通は明治37年。今見れば実に遠回りだが、明治の技術ではこれしかルートのとりようがなかったのだろう。
高崎を出、田園地帯を進んでゆくと、前方に険しい山々が近づいてくる。そして横川に到着。正面は山にふさがれ、ここが終着駅になっていてしかるべき地勢だ。ところが、その先にも線路は続いている。
ここ横川から長野県の軽井沢までが、信越線最大の難所、「碓氷峠」である。峠とは言っても一方的に登ってゆく道のりで、軽井沢までわずか11.2kmの間に、552mもの標高差がある。途中には、JR路線で最もきつい66.7パーミル、つまり1000mにつき66.7m登る勾配が続く。たいしたことのない数字のように思えるかもしれないが、鉄道という乗り物は文字通り鉄と鉄との摩擦で動くものであり、本質的に坂道に弱い。それに、ただ単に坂を登れればよいというわけではなく、途中でスリップして立ち往生したり、下り坂で暴走したりしないよう、万全を期さなければならないのだ。
そこで、この区間を通過する列車には強力な「助っ人」がつく。補助機関車EF63で、「峠のシェルパ」とあだ名される。この機関車は2両セットで列車の横川寄りにつき、登る列車を下から押し上げ、下る列車の先頭で踏ん張る役目を果たす。横川駅にはこの機関車のねぐらである横川運転区が併設されており、坂を登る列車が来るたびに、その後方で連結作業が繰り広げられる。ホームには、その姿を狙うファンの姿が散見された。
この区間、特急は1時間に1本やってくるが、普通列車は1日7往復しか通過しない。そこで別料金(運賃と特急料金を合わせて980円)が必要だが、40分ほど後に来る特急「あさま15号」で軽井沢を目指すことにする。
横川の駅舎は実にこぢんまりしている。山麓の小駅のたたずまいで、機関車の連結がなければ特急が停まることもないだろう。そんな横川駅舎の絵はがきがセットになったオレンジカードを、記念に購入した。
駅周りを歩いていると、軽井沢方から特急列車が下ってきた。先頭に青い機関車・EF63が2機、ブレーキを引きずるような甲高い音を響かせ、その後ろに若草色の帯をまとった特急車両が延々と連なる。上野と長野方面を結ぶ特急だけに編成は長い。それを先頭で支えるのだから、このEF63という奴は確かにただものではない。
時間が迫ったので駅内に戻る。この横川にはもうひとつ名物がある。駅弁「峠の釜めし」である。この駅では、販売員の人たちがホームに出てこれを販売する。かつてはどこでもやっていたホームでの立ち売りも、列車の停車時間がなくなったことや、窓が開けられない列車が増えたことですっかり姿を消したという。だがここ横川では、機関車の付け外しがあるので、どうしても数分の停車を余儀なくされる。もちろん、ただ停車時間があるから売れるというわけではなく、名物といわれるだけの内容もあるはずだ。
「あさま」が入る前に、その釜めしを販売員から購入する。容器はずっしり重い。文字通り、陶器の「釜」に入っているのだ。そして、11両編成の「あさま」の入線を見守る。列車がホームに着くと、例の甲高い走行音を響かせて、高崎側からEF63の重連が近づいてくる。私を含めて数人の見物人が見守る中、機関車は特急の後部に近づき、連結された。これで山越えのスタンバイOK。それを見届けて、私は自由席の8号車に急ぎ乗り込んだ。
ゆっくりと横川を出た列車は機関車のねぐらの脇を通り抜け、勾配区間にさしかかる。スピードは出さない。ひたすらそろりそろりと進んでゆく。勾配のきつさは、窓の外の景色を見ていればわかる。架線柱が、まるでだまし絵のように明らかに地面から見て斜めに立っているのだ。そして、さっきまで山のふもとにいたのに、すでに中腹まで達している。やがて断続的にトンネルに出入りする。日陰には雪が残っている。最後に長いトンネルを抜け、山腹からいきなり高原地帯に移る。横川から17分、軽井沢に到着。
避暑地、リゾート地として有名な軽井沢だが、鉄道ファンにとっては別の意味で、つまり碓氷峠のもう一方の端として意味を持つ駅である。「あさま」を降りて後ろを見てみると、早くも機関車は切り離されてどこかへ行ってしまっていた。まさに助っ人であった。そして「あさま」もまもなく長野へ向けて出発して行った。
標高939mの軽井沢。空気がひんやりしている。新潟で経験した、鳥肌の立つような湿っぽい寒さとは別の種類の、ピリッと引き締まる冷たさだ。ここ軽井沢も、97年秋の北陸新幹線開業に向けて新駅の建設が進んでいる。もう新幹線が走ってきてもおかしくないくらいに、外観上はできあがってきている。
この峠越えを1回きりにするのはもったいなく思えて、14時23分の高崎行き普通列車で横川へ引き返すことにする。やってきた電車は3両編成。それに対してEF63はやはり2両くっつく。坂を下るスピードは登るときよりさらに遅い。24分かけて横川に到着。
6分後に出る長野行きの普通に乗るため、あわただしくホームを移る。つくづく今回はばかげた乗り継ぎばかりするものだと思う。今度もまた、EF63が2両、高崎寄りにくっついた3両の電車。特急車両と比べて乗り心地が悪いぶんだけ、気のせいかスピードが「あさま」のときより速く感じる。だが実際の所要時間は変わらないから、単なる気のせいである。
今回ここまで碓氷峠にこだわったのには訳がある。97年秋に新幹線が開業するとき、この横川〜軽井沢間は廃止されることになっているのだ。(その先の軽井沢〜篠ノ井間は第三セクターに移行する。)今でさえ、特急が普通列車よりもはるかに多い区間だから、特急が新幹線にかわってしまえば、鈍行だけのためにこんな不経済で非効率的な山越え区間は不必要、というわけだ。それは時代の変化だからと言ってしまえばそれまでだが、明治の昔に新潟を目指し、人知を駆使して結ばれた鉄路が、こうもあっさりとうち捨てられることに、どこか承服しがたいものを感じてしまう。
車窓の下方に、頑丈そうな煉瓦のアーチ橋が通り過ぎた。かつてはその上を列車が走っていたという。これもまた、碓氷の山に打ち立てられた記念碑である。