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2.去りゆくものたち |
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天竜峡駅では、次の上諏訪行きまで約30分待ちの乗り継ぎ。時刻表の上ではそうなっている。だが実際は、豊橋からここまで乗ってきた列車がそのまま上諏訪行きになるという。つまり実質、飯田線を全線走破する1本の列車だったのだ。
スケールの大きな伊那谷を流れてきた天竜川が峡谷に集められる、その門口にあたるのが景勝地の「天竜峡」で、駅からものの100mほどのところにかかる道路橋からその様子を一望できる。1998年の正月にもここを訪れているが、全般にそのころより寂れているように見受けられた。レジャーが多様化した昨今、景勝地というだけで人を集めるのは、なかなか厳しいのだろう。
先回は少し下流側に架かる吊り橋を渡ってみたりもしたが、今回はそこまでの時間はないので、道路橋から眺めるにとどめる。上流側の比較的緩やかな流れが一変して、切り立つ崖に挟まれて急流をなす。ただ、水が少ないためか、さほどの迫力はない。同じ冬季でも、先回はもっとインパクトを覚えた記憶があるのだが、これは2回目ゆえの「慣れ」かもしれない。
上流側に目を移すと谷が広がり、その背後には、やや霞んでいるが雪化粧した山々が連なる。この先の景色もまずまず望めそうだ。ただすでに14時をまわり、このあとは日が傾く一方なので、眺望は時間との勝負となる。ちらちらと雪が舞いだした。
ここ天竜峡は、天竜川下り舟の拠点でもある。橋の下には舟が2艘ばかりつながれているが、時節柄か、それっぽい客の姿はない。昼食がまだなので、ここで何か得られればと考えていたのだが、駅前で営業しているのが土産物屋か、小さな食料品店くらいしかないので断念する。
「上諏訪行き」になった電車に戻り、飯田線の旅を再開する。両側から山々が覆い被さるようだったこれまでと一変、天竜川の谷の両側に広大な段丘が姿を現し、その外側に山脈が連なる。もう少し先へ進むと、さらに背後に「真打ち」ともいえるアルプスの3000m級が登場することになるが、その完全な姿にお目にかかったことはなく、今回も恐らくそこまでは望めないだろう。
列車はしばらく天竜川の河原付近を進んだのち、登り勾配にかかる。不思議なもので、列車に乗っていると登り坂はよく分かるが、下りはよほどの急坂でない限りあまり実感できない。なので、5ヶ月前に逆コースで同じ道を通っているのだが、ここはこんなに坂が続いていたのか、と新鮮に感じる。
北上してきた線路はいったん西側に向きを変え、しばらく松川のなす大きな谷を登って行く。対岸の高台には飯田の市街地が見える。そこまで上がるために西へと大きく迂回する格好で、いわゆる「Ωカーブ」の拡大版だ。北へと急カーブするさなかに切石駅がある。停まった列車は大きく傾き、ホームとの間が広く空いている。よりによってどうしてこんなところに駅を造ったのだろうか。
▲ 飯田付近の地形。左上から右下へ、松川の谷が広がる。クリックで拡大。
すぐに松川を渡って向きを東へ、そしてまた北へとコロコロ変えて、列車は飯田に到着する。9分の停車時間の間に駅の外へ出て、コンビニで弁当を調達する。20年前の時刻表を見れば駅弁を売っていたようだが、昔訪れたときにはあった駅内の売店すら、今ではなくなっている。地方駅での食料調達は困難になった。
<豊橋から飯田まで、129.3km・4時間22分>
もう夕方近い雰囲気になってきた中でようやくの「昼食」。その間に列車は飯田市街の高台を降りて、いったん天竜川の高さに下る。しかしこれより先で再び川を離れ、段丘を駆け上がって行く。文字通り、飯田線後半の山場を迎えることになるのだ。
伊那大島を過ぎると、小刻みなカーブを繰り返しつつ、どんどん登って行く。先回、反対側から来たときには、下りと登りと繰り返している風に感じたのだが(※)、それは錯覚だったようだ。こちらから辿ると、ほぼずっと登っている。つまり、先回「登っている」と感じた場所は、実は下り勾配が他より緩いか、せいぜい平坦かだったのだ。
※ 旅日記09-3(4)では「カーブとアップダウンを繰り返しつつ、全体としては高度を下げてゆく」と表現している。
日陰には積雪が残り、これまで柔らかな日が射していた空も暗くなってきた。やがて列車は、山裾の高台へと上り詰める。前方には、中央アルプスの主峰のひとつ、木曽駒ヶ岳に連なる山々が姿を現す。「高遠原」とは、そんな地勢をイメージさせるに実に的確な地名だと思う。もっとも、そこにそびえるはずの主役たちは、雪雲に覆われて、残念ながら今回もお目通りかなわない。見えているのは、その手前に位置する2000m級の山々までか。だが、この時期なら上出来だろう。
段丘の最高地点となる七久保は、先回下車した駅だ。「登り詰めた」という達成感は今回の方がはるかに強い。登ってきたのは電車であって、自分は中から眺めてるだけだけど。
左手には引き続き木曽駒の取り巻きが居座るが、右手に目を転じると、段丘の端がまさに地面の果てのようになっていて、その背後に伊那山地の山々がそびえている。段丘の向こうがストンと落ちているので、間にあるはずの天竜川の谷が死角になり、近景と遠景をセル画で重ねたような不思議な風景になっている。
伊那本郷の先、東西方向へ大きく段丘をえぐる谷に突き当たり、列車はΩカーブに挑む。足場を確かめるかのように、ゆっくり、じっくりと谷のへりを辿り、対岸へと渡る。これまで隠れていた天竜川が、広がる谷の下方に一瞬姿を現す。そして列車は、再び段丘へと上がって行く。さきほど進んできた線路が、谷向かいの斜面を横一線に貫いているのがわかる。田切の先でも、同じような光景が繰り広げられる。
駒ヶ根を過ぎると、天竜川との高度差はしだいになくなってきた。伊那市で乗客はいくらか増えたが、席を埋めるほどでもない。本長篠のあたりからボックス席に座っていたが、だれかと相席になることはついになかった。学校がまだ冬休み中ということもあり、全体を通して2両編成で十分事足りる程度の利用だったことになる。
ここから先の風景には特に見るべきものもなく、しばらく居眠りするうちに外は暗くなった。紺色の空に、山の白さが浮かんで見える。中央本線と合流する辰野には、定刻より4分ほど遅れて17時21分の到着。実質1本の電車で乗り通した、飯田線195.7kmの旅の完結である。ほっとするとともに、ちょっと虚しさも覚える。今回、豊橋から終点上諏訪までトータル7時間以上に及ぶ付き合いとなった119系電車も、これが最後になるかもしれないと思うから、なおさらだ。
<豊橋から辰野まで、195.7km・6時間38分>
電車はこの先、上諏訪まで乗り入れる。辰野から中央本線の旧線を辿り、岡谷から新線に合流する。下諏訪を過ぎると、右手に諏訪湖が登場する。もうその姿は見えないが、灯りのない黒い空間が大きく広がっているのが、それだと判る。
上諏訪に到着し、久々に外の世界に降り立つ。標高750mを超え、日も陰った諏訪の空気は、これまでになく冷たい。そんなホームの一角に、電飾で彩られた空間がある。かつて1996年にこの駅を訪れたときには、ここに「露天風呂」があった。露天といってもしっかり囲われて目隠しされているが、ホームの物音が入ってくる不思議な温泉だった。ただ、話題性はともかく、わざわざ服を脱いで入る割には落ち着けないし、ホームでそうする必然性も見あたらない。そんな声が多かったためか、その後この露天風呂は足湯にリニューアルされた。掲げられたのれんには「すわってのんびり」「すあしで湯ったり」と。「すわ」「すあし」が若干大きく書かれているのは、「諏訪」「諏訪市」にかけているのだろう。それとともに、「一駅一名物 駅露天風呂」という、見覚えのある石碑も残っていた。
のれんをくぐって中に入ると、5人ほどが湯船に足を浸けてくつろいでいた。脚をまくればよいだけだから、厚着している身には気軽だ。あまり時間はないが、私も少しばかり入ってみる。ずっと靴を履きっぱなしで、直角の座席に座り続けていたから、ちょうど脚がだるくなってきていたところだ。居られたのは3分ほどにすぎなかったが、実に良いリフレッシュになった。
慌ただしく湯を上がり、同じホームから出発する甲府行き普通列車に乗る。ラッシュにかかって客は多く、しばらく立って過ごす羽目になったが、驚くほど脚が軽い。たった3分でも、温泉効果はてきめんだ。
次の茅野でかなりが下車し、富士見あたりまでくると空席も目立ちだす。長野県から山梨県へ移って、小淵沢へ。昼間なら八ヶ岳と南アルプスを望める圧巻の区間だが、今はもちろん闇の中。
そこから甲府盆地に向けて、どんどん下って行く。この列車は甲府行きだが、韮崎(にらさき)で途中下車する。この駅を選んだのは、韮崎市の中心駅で、夕食の購入が確実にできるだろうと踏んでのことだ。ホームはJRの駅としては珍しく、見るからにかなりの傾斜がある。計算通り、駅内にはパン屋があり、そこで食糧調達。駅正面に大規模店舗が連なり、駅前というより幹線道路沿いの雰囲気だ。
大月行きに乗り、甲府へ。どっと客が増えるかと予想していたが大したことはなく、その乗客も次第に減って、うら寂しい雰囲気になってきたあたりで、甲府盆地のあかりが後ろ下方へ去り、列車は全長4,670mに及ぶ新笹子トンネルで山を越える。
大月より先、東京行きの中央特快に乗り換えることになる。関西人の私は、関東の新世代車両のことには詳しくない。まだ国鉄世代が中心だった時代なら、どこも大概共通していたから把握しやすかった。今はそれぞれが独自に車両を開発し、いつのまにか世代交代が進んで知らない顔ばかりになっている。特に東日本の首都圏エリアだと、Eなにがし系という電車ばかりになって、その区別がつかない。人間は古くなるに応じて、どこか新しいものを追うのをあきらめて、古いもの、自分にとってなじみ深いものにしがみつく部分が出てきてしまうようだ。
さて、現在首都圏の中央線を担うのはE233系という車両だ。私はまだ乗ったことがない。かつての主力、国鉄世代の201系は、いつしか中央線からほぼ姿を消したらしい。関西では第一線で重用されていて、「まだ」30年選手という認識だが、東日本だと「もう」潮時だったのだろう。
なので当然、今度の列車はE233系と踏んでいた。ところが入ってきた車両は、見慣れた顔。ほぼ撤退したはずの201系だった。予備的にわずかに残っている車両が、たまたまやってきたのだ。前面には「中央特快」と大書きされた標示を掲げている。まもなく完全に見られなくなる光景なので、貴重なものだ。
10両編成はガラガラで、自分の車両には他にだれもいない。内装はくたびれ、座席は擦れて色がまだらになっている。露骨に廃車前の放置状態という風で、仕方ないこととはいえ気の毒になる。電車はトンネルの出入りを繰り返しつつ、結構激しい走りを見せる。山間を走っているためか、足下が冷えてくる。朝の福知山線の電車と同様、国鉄世代車はどうも気密性がよくない。
このあたりはいつも早朝か深夜にしか通らないが、高尾を過ぎると一転、沿線が都会じみてくる。乗客も増え、八王子で満員となった。この時刻にして東京へ向かう側の客が増えてゆくのが、いつも不思議でならない。立川からは「特快」の名にふさわしく、駅をすっとばしてゆく。うとうとしているうちに、いつの間にか新宿に着いていた。
今夜は新宿発の夜行快速「ムーンライトえちご」で車中泊し、新潟を目指すことにしている。普通ならここ新宿で下車すればよいのだが、今回は訳あって、このまま中央線を進んで行く。御茶ノ水で、ホーム向かいの総武線電車に乗り換えてひと区間、秋葉原へ。そして京浜東北線で上野へ。
わざわざ上野に立ち寄ったのは、この駅を出発して金沢へ向かう寝台特急「北陸」を一目見ておきたいと思ったからだ。上野〜金沢間には「北陸」および夜行急行「能登」が走っている。同じ区間を2本の夜行列車が走るというのは今や他になく、それなりに需要はあったのだと思われるが、この3月をもって両方とも廃止されることになってしまった。「利用者の減少・車両の老朽化」という表向きの理由には、「夜行列車や社をまたぐ列車をさっさとなくしたい(のであえてテコ入れはしない)」、という運営側の後ろ向きな意向が込められている。
「北陸」は使ったことがなく、特に馴染みがあるわけでもないが、せっかくの機会、最後にひと目見ておこうと思った次第だ。
上野駅の13-17番線は折り返し専用の櫛形ホーム。今や珍しくなった「旅立ちの駅」の風情を残している。「北陸」の入る13番線には、平日深夜にもかかわらず、すでにカメラを構えた人たちが十名ばかり控えている。やがて濃紺の客車が姿を現す。行き止まりの線路なので、牽引機関車が客車を押しこんでくる格好で、テールエンド側を先頭にして入ってくる。
最近では始発の特急でも、出発間際に入ってきて、慌ただしく出て行くことが多いが、「北陸」は入線後、発車まで15分ほどの間をおく。優等列車たるもの、やはりこうあってほしいものだと思う。その間に自分を含め撮影者たちは、列車をなめまわすように前へ後ろへとまわって撮影を続ける。これから廃止が近づけば、またひとつフィーバーが起こるのは間違いない。
私にとって最後になるであろう「北陸」の出発を見届けたのち、宇都宮行きの電車で大宮へ向かう。正式には東北本線だが、東北まで行かない近郊列車に「東北」はそぐわないということか、「宇都宮線」という通称が用いられている。近畿圏の「JR京都線」「神戸線」のようなものだろうか。そしてこの列車は途中、尾久、赤羽、浦和、さいたま新都心にのみ停車する。京浜東北線を各駅停車とした場合の「快速」のような存在だろう。
大宮で下車し、新宿からやってきた「ムーンライトえちご」を待ち受ける。
「ムーンライトえちご」は、1996年以来、「雪見旅」の定番となってきた列車だ。車中泊で費用を浮かせつつ時間を目一杯活用するのにうってつけで、特に20代のころには散々お世話になった。その時代の旅行を象徴づける列車をひとつだけ選ぶとするならば、迷いなく「ムーンライトえちご」だ。
しかしそのスタイルには次第に限界が見えてきた。車中泊明けの居眠りやミスが重なるにつれて、夜行列車の利用は極力控える方向になっていった。「えちご」自体2009年春の改正で、毎日運転から18きっぷシーズン中心の臨時列車となった。時を同じくして、やはり18きっぷで何度か利用した「ムーンライトながら」(東京〜大垣)も臨時化したし、関西から九州・四国方面へ運転されていた臨時の夜行快速も完全に姿を消した。自分も乗らなくなった張本人の一人だから、文句を言えた義理ではない。今回は「原点回帰」の意をこめて「えちご」を選択したが、次に乗る機会があるかは分からない。
乗り込んだ車内は、3から4割程度の客の入りで、まだ若干ざわついている。平日ということを差し引いても、18きっぷ期間中なのにこの程度の入りでは、臨時化は仕方ないのかなと思う。かつて毎年のように利用していたころは、急行用の165系車両にグリーン車用の深いリクライニング席があてがわれ、快速としては贅沢な快適さだった。今は特急車両になり静寂さは増したかわりに、普通座席だから以前ほどのリクライニングはしない。それでも、大盤振る舞いであることに変わりはない。
しばらく意識が飛び、気づくと日付が変わり、次の停車駅・高崎に停まっていた。ここで「ムーンライトえちご」は、後から追ってきた上野発の急行「能登」に抜かれることになる。その「能登」は、ホームの向かい側に入っていた。今後のための体力温存を考えると出て行くのはどうかとも考えたが、「能登」と出会うチャンスも恐らくこれが最後、奮起してホームへ向かう。
「能登」は1998年に一度、大宮から金沢まで利用している。ボンネット形の先頭車は、今や通常はこの列車にしか使われない。いかめしさと柔和さを併せ持つ、前世代の特急車両ならではの貫禄だが、3月にこの列車が廃止されればこのタイプも一線を退くことになる。数枚の写真を撮り、こちらも出発を見送る。一足早く闇へと消えて行く「能登」。
臨時化された夜行列車は、ほぼ例外なく衰亡へと向かう。その末路を暗示するかのように、この列車はこの先長岡まで「能登」の後を追うことになる。