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4.飯田線を堪能 |
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中央アルプスから東側へ向けてなだらかに下る高台のさなかに、七久保の駅はある。白塗りの駅舎は無人駅になっているが、そこそこ大きく、青空に映えて「高原の駅」の風情。駅前には商店や旅館などが現役で、今ではおおかた失われた「小さな駅前」の景観を残している。
駅を離れて少し歩いてみる。見晴らしのよいところで一度立ち止まって、飯田線沿線の風景を見ておきたかったのだ。残念ながら今もアルプスの頂は隠れている。しかし、伊那谷のダイナミックな地勢のさなかにいる、というのは体感できる。日差しはきついが、まとわって体力を奪うような不快な暑さではない。
次の上り列車は1時間ほど後に来るが、1カ所でそれほど時間を費やしても仕方ない。ここは私が勝手に「Z乗り継ぎ」と命名した方法で、下車駅を増やす作戦をとる。一旦逆方向へ戻ることで、もう1カ所訪問することができるのだ。
上諏訪行きの下り電車に乗って、もと来た道を引き返す。運転席後ろに立ち、窓越しに2つの「Ωカーブ」を観察する。先頭から見ると、この飯田線の線路がいかに急カーブ続きかが改めて分かるが、それだけでなく、特にΩカーブ前後の高低差もかなりのものだ。「アルプスの裾になんとか食らいつく」と、11年前にノートに書きつけたのを思い出す。
カーブの「底」で列車は川を渡るが、その河原には角の取れた白っぽい岩がゴロゴロしている。似た光景をどこかで見たような、と思えば、昨日中央本線の車内から見たのとそっくりだ。木曽谷と伊那谷とを隔てているのが中央アルプス。同じ山脈を源とする川だから、似ていて当然なのだ。
Ωカーブを過ぎた伊那福岡で、2度目の途中下車。こちらは駅舎はなく、コンクリート造りのモニュメントのような駅となっている。ここも駅前はそれなりの集落になっている。飯田線はもともと私鉄4社によって引かれた路線で、駅と駅の間がJR線らしからぬ短さだ。それだけ、集落を漏らさずつないでおり、利用者が多いわけではないにせよ、地域と密着しているという印象を受ける。
七久保と同じように少し歩いてみた。こちらは、駅近くに家が建て込み、すっきりと見通せる場所はなかったが、その間から見る駒ヶ岳の雲が少し晴れ、山頂部をいくらか見ることができた。
駅に戻り、上り電車に乗り込む。来た電車はJR東海の313系。走りが滑らかで座席も快適だ。管内の旧式電車を徐々に置き換えている新鋭だが、ついにこの飯田線にも勢力を伸ばしてきた。あと数年もすれば、東海の国鉄世代電車はほとんど置き換わるといわれており、次に飯田線に来るときには、もうこればかりになっているかもしれない。利用者にとってはもちろん有り難いことなのだが、いささか寂しさもある。
この電車は豊橋行きで、この先中部天竜まで乗ることになる。Ωカーブ2連続も、3度目になるともう流れが読めてくる。それをしっかり見届けて、さきほど降りた七久保へ。ここを過ぎると、あとは下りの一途となる。高遠原、伊那田島と、駅の裏すぐのところに果樹園。りんごの実がほのかに色づいている。カーブとアップダウンを繰り返しつつ、全体としては高度を下げてゆく。段丘を去り、天竜川の流域へと向かっているのだ。上片桐からはもう一つΩカーブを経て、一気に天竜川近くまで下ってきた。下平は標高442m。695mだった七久保から12.8kmの間に253mも下ってきた計算で、平均20‰ほどの勾配だったことになる。もし反対側から来ていれば、七久保駅に降り立ったときの感慨もまた違うものだっただろう。
しばらくうとうとするうちに、飯田線最大の拠点である飯田駅に着いた。12分の停車時間があるので、外に出て土産などを買う。この駅は99年5月に訪れ、駅の売店で五平餅を食した記憶があるのだが、畳まれてしまったのか、その売店が見あたらない。地方路線の駅で商売をしようとすれば、それこそ松本駅クラスでなければ難しいのかもしれない。
飯田の街そのものが段丘上にひらけており、地図で見ると、飯田線はこの街を囲むようにして大きなΩカーブを描いている。飯田駅を出ると、再び天竜川の方向に向きを転じて、勾配を下ってゆく。ここで、松本駅で昼食用に購入した「野沢菜入りとりめし」を頂いておく。鶏のからあげとそぼろがメインの素朴な弁当だが、付け合わせの炒めた野沢菜が良いアクセントになっている。
さて、長く続いた伊那谷の旅もまもなく終わりになる。相変わらず、中央アルプスと伊那山地に囲まれたダイナミックな地勢が続くが、しだいにその幅が狭まってくる。
天竜川下り舟の拠点となる天竜峡を境に、飯田線の旅は第二ステージに入る。
その前に、少し予備知識を。日本列島には「中央構造線」という大きな断層があり、関東から甲信、東海、紀伊半島、四国、そして九州を貫いているという。一方、縦方向には「糸魚川静岡構造線」と呼ばれる断層線があり、これは新潟・富山県境の親不知あたりから、静岡へと続いている。両者は諏訪湖あたりで交わっているらしい。信州を縦断してきた今回の旅は、実はこの縦の断層を(厳密にというわけではないが)辿ってきた行程といえる。3つのアルプス、姫川や筒石の不安定な地盤、伊那谷の特殊な地勢、これらには皆、断層の働きが関係している。そしてこれから踏み込んでゆく天竜川の峡谷にも、その力は確実に働いている。
天竜峡駅を出た列車は、すぐにトンネルに入る。そこを出た先の風景に、もうこれまでの伊那谷の名残はない。見えるのは、深い谷いっぱいに流れる天竜川、それだけ。蛇行する川に押しやられるように、線路は崖のさなかのわずかなスペースに引かれ、電車はトンネルへの出入りを繰り返しながら進んでゆく。川はすぐそこだが、トンネルや林に阻まれて、谷の景色はなかなか見通せない。
そんな場所だからほとんど人が住む余地はないが、駅は2,3kmおきにある。その数少ない集落を結ぶ、稀少な交通手段なのだろう。事実、昨日まで運転されていた代行バスは、すべての駅に寄らないにもかかわらず、電車なら30分強の天竜峡〜平岡間に、3倍の1時間半を要していた。飯田線にはバスが通れるような並行道路がなく、駅に立ち寄るには、少し離れた国道から枝道へ出入りを繰り返さねばならなかったからだ。
平岡までの間で2カ所、極端な徐行をした。ここが例の落石の現場だろう。確かにいつ岩や土砂が崩れてきてもおかしくない場所だが、この地形だと復旧工事の重機を入れるのにも難儀したことだろう。ここに鉄道を通したのは、天竜川の電力開発のためだったという。そんな強い動機付けがなければ、そもそもこんな所に線路を引き通すことなどなかっただろう。
谷がいくぶん開け、平岡へ。ここは比較的まとまった町で、特急も停まるが、この先はさらに辺境の様相となる。次の鴬巣(うぐす)の手前では、今の鉄橋に沿って、古い鉄橋がそのまま残されている。線路を付け替えて、古いのをそのまま放置したのか。長野県最後の駅となる中井侍のホームは、崖を削って無理矢理場所を設けたような造り。
そして次の小和田(こわだ)駅は、飯田線の数ある「秘境駅」でも特に有名で、外部から道路が通じておらず、今では駅周辺に民家もない、ほぼ孤立した駅だという。しかし皇太子妃雅子さまの旧姓と同じ表記(読みは「おわだ」)という話題性で賑わったり、今ではあまりの「秘境」ぶりがかえって注目されたりと、ある意味ではにぎやかな秘境駅ともいえる。そんな小和田駅のホームには、「静岡県」「愛知県」「長野県」の3県を示す柱が立っている。ここはまさに、その3県の境界が間近なのだ。なお、この駅自体は静岡県浜松市に位置する。市町村合併でそうなったのだが、新幹線の停まる浜松市街は天竜川のはるか下流。ここがその「市」の一部だと言われても、全くピンとこない。
大嵐(おおぞれ)を出ると、列車は長いトンネルに入る。ここで飯田線は天竜川峡谷を離れ、東側の水窪(みさくぼ)川の谷に移る。もとは天竜川に沿っていたのだが、佐久間ダムの建設に伴って移設された区間だ。
地図を見ると、天竜川の谷の東に並行するように、谷が続いていることが分かる。下の地図で、中央部を縦方向に貫く、不自然なまでにまっすぐな谷間。これは中央構造線の断層に起因するものだという。水窪川はこの谷を南に流れて、やがて天竜川に合流する。
▲ 天竜峡〜中部天竜にかけての地形。クリックで拡大。
列車はV字に切れ込んだこの谷をしばらく進む。そして城西駅手前には「S字橋」と呼ばれる独特の鉄橋がある。列車は水窪川東岸から西側に渡るように進むが、渡りきらずに東岸に戻ってしまう。もともと、川の東岸にトンネルを掘って線路を通すつもりだったが、あまりに地殻変動が激しくて掘削中のトンネルが崩壊、やむなく鉄橋で迂回させたのだという。まさに今進んでいるのは、そんな「大地の切れ目」なのだ。
やがて、もう一度長いトンネルに入り、天竜川の谷に戻るが、佐久間を出るとすぐに天竜川を渡る。この先この川は、さきほどの水窪川の谷に移り、浜松方面へ下ってゆくので、飯田線と出会うのはこれが最後だ。その鉄橋の先に中部天竜がある。
前述のとおり、ここを目指して来たのは、この駅に併設される「佐久間レールパーク」を訪ねるためだ。機関区の跡に、古い車両や飯田線ゆかりの品を集めて展示しているという施設だが、駅に入れる切符さえあれば入館できる。基本的に土日祝のみ開くが、今日は盆の時期なので開館している。11年前に訪れたときは正月だったので閉館しており、今回が初めての機会。だがこれが最後の訪問ともなる。JR東海が名古屋に新たな鉄道博物館を造ることになり、それに伴って11月をもって閉館されるのだ。
ホームに面して立つ2階建てのコンクリート建築は、古びた建物だが明るく塗られ、これが本館のようだ。列車の本数は少ないので、レールパーク利用者が乗り降りして、発着のいっとき改札が賑わう。その脇には長机を出して、グッズなどの土産物を売っている。
建物の裏側に、車両がずらりと展示されている。ここに集められているのは基本的に、旧式の客車や機関車が多いが、戦前の京阪神の「急行」として活躍した「クモハ52004」は、いわば「新快速」のルーツである。特急用気動車の「キハ181-1」、関西では同じグループがまだ現役だが、塗装が国鉄時代の特急のものなので、少し昔を思い出させる。先ほど改札で受け取ったパンフレットの表紙を飾るのが、このキハ181だった。あまりに古い車両よりも、何らかのかたちで現在とつながっているもののほうが、やはり親近感が持てるものだ。
キハ181のトップナンバー。「しなの」のヘッドマークを掲げる
電気機関車ED11 2の運転室が公開されているというので上がってみた。その中は狭く、いかにも機械室というふうの古めかしい機器が所狭しとひしめいている。油臭く、熱気のこもる室内に参ってすぐ退散したが、貴重な機会だった。
保存されている車両は、野ざらしであるにもかかわらず綺麗な状態を保っている。実質無料で入れる施設で、これだけ手厚く維持管理されているのは有り難いことだ。他社の鉄道系博物館が都市部にあるのに対し、これだけ奥まったところに造ったのは、マニアックな人気を誇る飯田線とセットで楽しんでもらおうという意図なのだろう。現有資源を活用して鉄道ならではの魅力を伝えようという、好感の持てる方法だったと思う。ただ、かつて豊橋から運転されていたトロッコ列車が、車両の老朽化から廃止されるなど、このやり方もそろそろ潮時という判断なのだろう。展示車両の多くは新しい博物館に移ることになっているが、選に漏れたものもある。それらの去就が気にかかる。
蒸し暑い中、レールパークを巡っている間に、またも頭が痛くなってきた。先の列車に乗っていたときからその兆候はあったのだが、我ながら情けなくなってくる。本館の建物内には、駅名標や列車の行き先表示板(サボ)、昔の機器類が所狭しと並べられ、こちらも見応えのあるものだったが、残念ながらもう集中して見られる状況ではなく、時間も残り少なくなってきた。こちらは飯田線ならではの展示物が多く、閉鎖後どうなるかが特に気になる。
この体調で、豊橋まで残る1時間半以上が立ちづくしとなるときついので、名残惜しくも早めにホームに戻る。飯田線最後の列車となるのは、中部天竜始発の豊橋行き。ドア際のロングシートを取る。待つ客は多いように見えたが、2両の電車に大半が着席できる程だった。
飯田線は引き続き、険しい谷間を進んでゆくが、人を寄せ付けない秘境の雰囲気はもうない。河原ではキャンプが張られ、レジャー客の姿も多く見られるようになる。山越えにかかり、静岡県から愛知県に移るとともに、天竜川系から豊川系へと変わる。
三河川合から、左手に宇連川が沿う。林に遮られて見通しは良くないが、次の三河槙原を過ぎたところで、一瞬眺望が開ける。ここは河床が平たい岩場となっており、「板敷川」の異名をとるという。川向かいにキャンプ場があって、まな板のような河原で遊ぶ人影が多数。
天竜川からはスケールダウンしているが、依然両側には険しい崖がそそり立ち、列車は宇連川とともにその間を進んでゆく。やがて谷が広がり、本長篠へ。川は離れ、列車は段丘上へ進む。このあたりはなんとなく伊那谷を思い出させる。「起承転結」の「結」の部分に入ってきたのだなと思う。
客が増えてきて、地勢の広がりが飯田線の旅の終わりを感じさせる。豊川駅からは複線となり、やがて名鉄との共有区間に入ってゆく。厳密に言えば、線路を1本ずつ保有して共用することにより複線のように使っている。これは、飯田線・名鉄のそれぞれの前身である豊川鉄道と愛知電鉄の時代からの名残である。東海道本線に沿い、最後に豊川を渡る。
16時55分、195.7kmにわたる飯田線の旅は、豊橋の行き止まりホームで完結を見た。感慨にふけりつつホームにいると、同じ線路を名鉄の快速急行が追いかけてきて、隣の線に入った。特にホームが仕切られているわけではなく、当たり前のようにライバル同士が隣り合うのが面白い。
あとは、東海道本線を西へと進む行程を残すのみだ。米原行きの新快速に乗り込み、豊橋を発つ。さきほど通ってきた飯田線の線路がしばらく並走し、豊川行きの電車を追い抜く。私が豊橋まで乗ってきたのの折り返し列車だった。
夕方ラッシュにさしかかる金山、名古屋で大勢が乗り込み、通路一杯になった。日は傾き、薄暗くなる中、うとうとと過ごすうちに、客は次第に減り、大垣を過ぎると席を埋めるほどになった。
米原からは西日本の新快速に乗り換える。もう外は真っ暗で、見るべきものはない。帰り道はいつも速く、あっけない。