2.三陸海岸ひたすら北上

 

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 かきめしに舌鼓

  宮城県から岩手県にかけての太平洋に面する、いわゆる三陸海岸は、全国でも有数の「リアス式海岸」で、下の地図でもわかるとおり、海岸線の出入りが非常に激しい。この入り組んだ地形が天然の良港となり、漁業も盛んなのだが、鉄道敷設の上では大きなネックとなってきた。そんな三陸海岸沿いを辿る路線が完全に整備されたのは、比較的近年のことである。



  石巻からは、上の地図のとおり、宿泊地となる盛岡まで、太平洋にできるだけ近いところを辿って北上してゆくことになる。しかし幸か不幸か、乗り継ぎがあまりにもよいせいで、寄り道できる機会がほとんどなく、ひたすら車窓を眺めるばかりの行程となる。

  石巻 12:06[04] → 前谷地 12:24 [普通 1634D/気・キハ48]

  石巻線に乗り換えて、いったん内地のほうへと向かう。旧北上川流域のだだっ広い田園地帯が続き、眠くなりそうなのどかな雰囲気。前谷地(まえやち)で気仙沼線に乗り換える。石巻線・気仙沼線で走る気動車は、国鉄型のキハ48だが、座席が2列-1列、それぞれ向かい合わせという、キハ110などにあわせた配置となっている。のちほど海沿いに出るのに備えて、進行方向右手、2列のほうの座席に就くと、老夫婦が同席してきた。

  前谷地 12:29 → 気仙沼 14:18 [普通 2941D/気・キハ48]

  相変わらず田んぼと山ばかりの単調な風景を進む中、老婦人が話しかけてきた。自分が兵庫から来たことを告げると、なんと自分たちも昔仕事の都合で尼崎や大阪に住んでいたことがあると言われる。東北に来て「尼崎」の名を聞くとは思いもよらなかった。

  今では石巻に住み、これから奥さんの実家のある柳津(やないづ)に行くところだとのこと。周りの一面の田んぼは宮城名産のササニシキの産地だということ、列車で旅するなら気仙沼(けせんぬま)まで行けばいい海産物があるだろうとのこと(今回そちらへ向かうのだが、下車する余裕がないのが残念)など、話が弾んだ。最後に、柳津の手前で幅広い北上川をわたるときには、「この川はすぐ先(下流)で旧北上川と分かれている」と教えていただいた。北上川が外海へ向かうのに対し、「旧」北上川は石巻湾へと注ぐ。「旧」のほうがもとの本流だったが、石巻を避けるために、あとで外海への水路をつけたようだ。

ゆったりと流れる北上川を渡ると、列車は柳津に着く 

  老夫婦が柳津で降りてしまうと、あとは再び独りに。ここで、仙台で調達した「かきめし」を開く。ご飯の上に、大粒の牡蠣やハマグリがゴロンゴロンとふんだんに乗っかった、なかなか生々しい姿。子供の頃は、牡蠣のあのグロテスクさと生臭さを忌避していた私、カキフライがうまいと感じられるようになったときには、我ながら大人になったものだと感じたものだ。で、この「かきめし」、牡蠣のうまみを活かしつつ、生臭さが見事消され、ご飯の味も良い加減。ハイレベルの競争の中で洗練されてきたという仙台の駅弁。98年の「牛たん弁当」に続いて、期待を裏切らない内容だった。

仙台の「かきめし」。見た目によらず(?)うまい 

 リアス式海岸 出たり入ったり

  陸前戸倉から、久々に海岸沿いへ。ただし、本吉までは昭和52年開通の新規格路線とあって、駅と駅の間はほとんどトンネルで内地を突っ切るかたち。三陸海岸は代表的なリアス式海岸で、線路を通すのにもかなりの苦労があったことが偲ばれるが、ようやく線路が達するころには鉄道が必ずしも不可欠な存在ではなくなっていたという、皮肉な歴史がある。それが後で乗る、三陸鉄道の開業にもつながっている。

  北上に伴い、沿線に雪が目立ちだす。本吉からはいくぶん緩やかな地形となり、小金沢、大谷海岸と、駅裏にすぐ太平洋が望める駅が続く。漁港が多く、色とりどりの大漁旗を掲げた漁船が並んでいる。

大谷海岸にて。松並木の向こうには砂浜、そして太平洋の入り江 

  先の老夫婦が、「今日はとても暖かい」と言っていたが、確かに車内は暑いくらいで、うららかな日差しが車内に差しこみ、北国とは思えない穏やかさ。それでも沿線に残る雪を見ると、外の気温の低さは一目瞭然。それだけ暖房がよく利かせてあるわけで、やはり近畿とは寒さの「格」が違うのだろう。

  魚市場最寄ということで賑わいのある南気仙沼を過ぎると、大船渡線と合流して気仙沼に到着。ここで大船渡線のキハ100に乗り換え、さらに北上ルートをたどることとなる。時刻は14時半、しかし早くも冬の短い日は傾きつつある。

雪の残る気仙沼駅。気仙沼線キハ48(右)から大船渡線キハ100(左)に乗り換え 

  気仙沼 14:28 → 盛 15:27 [普通 333D/気・キハ100]

  気仙沼を出ると、さすがに軽快気動車、80km/hほど出していったん内陸へと進んで行く。上鹿折(かみししおり〜訛って「かみししょり」と読まれていた)を過ぎると峠越えにかかり、ここが宮城の北端となる。いよいよ、東北でまだ唯一未踏だった岩手県に足を踏み入れることとなり、これで私が訪れていない県は、愛媛と沖縄だけになった。

  脇ノ沢で再び海に近づいた後は海岸と内地を繰り返し、やがて大船渡湾沿いへ。この湾は北へ奥深く入り込んでおり、沿岸には漁港や倉庫、工場などが並ぶ。三陸沿岸の町々が、立地の割に「ひなびた」感じがしないのは、三陸沖という良漁場と、リアスの入り江という天然の良港を持つためなのだろう。

大船渡湾は完全に内海になっており、山に囲まれ穏やか 

 夕暮れ時の三陸鉄道

  大船渡線の終点盛(さかり)に着くと、ホーム向かいに釜石行きの単行列車が出発を待っていた。三陸鉄道。これから乗車する盛〜釜石間は「南リアス線」と呼ばれ、途中吉浜までは国鉄時代(1970〜73年)に開通した旧盛線、その先釜石までは84年開通の新線。国鉄の廃止対象路線と工事凍結路線を引き受けた、初の第三セクター路線として、1984年に開業したものである。

三陸鉄道の列車(左)に乗り換えて三陸沿岸の旅を続ける 

  盛 15:40 → 釜石 16:28 [三陸鉄道普通 217D/気・36形]

  盛からスイッチバックするかたちで出発すると、大船渡の街を巻くようにして後にしてゆく。新規格路線らしく、内地を高架やトンネルで突っ切って行くが、列車はゆっくりペースで、もったいなくも思える。

  外は次第に薄暗くなってきた。気仙沼線のときと同様、駅前後のほかはトンネルが連続。特に、最後に開業した吉浜より先は、ほとんどがトンネルで海がなかなか見られず、「三陸鉄道」の名のわりには車窓の面白みには欠ける。しかも今回は、途中下車の余裕が全くないので残念至極。それにしても、もしこれほど稀に見る高規格路線が、わずか十数年のうちに廃止・打ち捨てにでもなっていたなら、国鉄愚策の記念碑として後々まで笑いぐさになっていたことは間違いなかろう。

そろそろ三陸の海も見納め 

  南リアス線の終点釜石に着く頃には、もうすっかり暗くなり、この先は宿泊地盛岡を目指すのみだ。経路としては、山田線ルート(宮古経由)と釜石線ルート(花巻経由)が考えられ、花巻まわりのほうが盛岡へは25分早く到着できるのだが、ここではあえて山田線ルートを選択する。理由は後述する。

暗くなった釜石。三陸鉄道に別れを告げる 

  釜石 16:40[39] → 宮古 18:06 [普通 647D/気・キハ100]

  宮古行きの気動車は、再びキハ100。途中「盛行き」という列車と2度すれちがったが、1度目はキハ100で2度目は三陸鉄道の気動車。つまり三陸鉄道と山田線(釜石〜宮古間)は、車両の相互乗り入れを行なって、「三陸縦貫線」を構成しているわけだ。しかし三鉄車両は、海沿いを走ることもあってか、赤いラインの色あせが目立ち、老化が否めない。少子化・高齢化・過疎化・クルマ化という逆風の中、第三セクターの中では健闘している部類の三陸鉄道とて予断は許されない、という現実を象徴しているかのようだった。

  車窓に見えるのはもはや、灯台と港の明かりのみ。しばらく居眠りしているうちに宮古が近い。

 国鉄色キハ52に出会う

  さて、私は今回の旅の目的の一つに、「国鉄色のキハ52に出会う」ということを挙げていた。

  昔の気動車の姿を今に伝える数少ない生き残り、「キハ52」は、私の特に好きな車両の一つ。中でも赤地にクリーム色帯の「国鉄色」とよばれるカラーリングは、山陰に1両だけ残っていたものが廃車になってしまい、乗る夢はついえたかと残念に思っていたが、最近の「リバイバルブーム」の中、盛岡地区(花輪・山田線)に国鉄色のキハ52・58が復活したとの話を聞き、ぜひこの目で見てみたいと思っていた。釜石からあえて山田線ルートを選択したのも、実はこのためだったのだ。

  もっとも、国鉄色に塗り替えられたキハ52は2両だけで、いつどこで走るのかは分からない。したがってここで出会えるという保証はなく、1日目の山田線と2日目の花輪線のどこかで目にすることができれば御の字、という考えだった。

  ところが。宮古で出発を待っていた盛岡行きの3両編成、その先頭に何とお目当ての車両が。車番は「キハ52 145」で、塗装は真新しくぴかぴか。喜び勇んで、52特有の幅の狭いドアから乗り込む。願いはいともあっさりと叶ってしまった。この列車の編成は下の通り。

盛岡← キハ52(国鉄色)+キハ58(盛岡色)+キハ58(国鉄色) →宮古

  宮古 18:10 → 盛岡 20:41 [普通 649D/気・キハ52]

  宮古発車は18時40分、しかしこれが盛岡行きの最終列車となる。盛岡までは2時間半を要し、先はまだ長い。乗務しているのは女性車掌。仙石線に次いで2度目となる。車内アナウンスの声色が変わるだけでも、雰囲気がずいぶん変わるものだ。

  茂市(もいち)は、岩泉線の分岐駅。対向列車はキハ52の2両編成で、うち1両が「もう1両の」国鉄色。なんともうまく遭遇したものだ。岩泉線は1日3往復(+岩手和井内までの区間運転1往復)しか走らないため、乗りつぶし派にとって最大の難関の1つとされている。わが盛岡行きにも、岩泉線攻略に挑んだとおぼしき人たちが、かなりの数乗り込んできた。

  岩泉線だけでなく、山田線川内〜上米内間も1日4往復しか列車が走らない超閑散区間であり、しかもそのうち1.5往復は快速で、途中区界以外は素通りされてしまう。大志田に至っては、上りが1番列車と最終列車の2本、下りは最終の1本しか停まらないという駅。時刻表からも、沿線の過疎ぶりが察せられる。

  ここから、長い登り勾配区間にさしかかる。もう闇の中で、外にどんな景色が続いているのか見ることはできないが、列車が時速40kmほどのペースで、たびたびギアを落としながら、長い駅間を延々と走りつづける様子に、その道の険しさがうかがえる。おそらく渓谷の山村地帯を進んでいるのだろう。沿線に雪が目立つようになり、線路際にも積もっている。

  そんな峠の頂上、標高744mの区界(くざかい)で列車は13分の休止。静まり返った中にディーゼルのエンジン音だけが響き、私のほか数名がホームに降りて一服したり写真を撮ったり。積雪が40cmほどに達し、ホームも線路も雪で覆われ、真っ白。「冬の夜汽車」らしい絶好のロケーションであった。

闇の中にアイドル音を響かせたたずむ、国鉄色キハ52 

  区界からあとは下りの一途で、ほとんど慣性で走るようにして盛岡を目指す。20時41分、終点盛岡に到着。ちょうど1年前の札幌もそうだったが、夜の駅構内の冷え込みが尋常ではなく、あっという間に体の熱を奪われる。しかも、正月だからということもあるだろうが、通路に人けはなく、もう真夜中の雰囲気。足早に宿泊のビジネスホテルへと急ぐ。粉雪が道路一面を覆い、街灯に照らされて街中は結構明るい。澄み切った夜空に、月が冷たげに輝いていた。

 

 

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