写真はクリックで拡大表示します。ブラウザーの<戻る>でお戻りください。
4.家路を目指す長い旅 |
写真はクリックで拡大表示します。ブラウザーの<戻る>でお戻りください。
2001年1月3日 秋田→新庄→鳴子温泉→仙台→いわき→東京 |
1月3日。窓の外を眺めると、一面白く雪化粧した秋田の街。残る行程は1日と少し、ひたすら南下、西進して神戸を目指すことになる。その長い帰路に備え、ゆっくりめのスタート。テレビで箱根駅伝復路のスタートを見ながら朝の準備をする。
今日は最終的に東京から夜行快速「ムーンライトながら」に乗ることになる。そこまでどういう経路を取るか、様々なルートを検討した。秋田を早朝に出れば、横手から北上線に入り、さらに大船渡線で気仙沼まで出るという、東北横断+三陸ルートも可能だった。しかし既に二日間の疲れがある中で、朝の6時台に出発するのはちょっときつい。結局、秋田を9時半過ぎに出る快速「こまくさ」で奥羽本線を南下し、新庄から陸羽東線に入る経路を選択した。
かつて、東北本線と奥羽本線を経由して上野と秋田を結んだ特急「つばさ」があった。1982年に東北新幹線が開通すると福島〜秋田間に短縮され、1992年にミニ規格新幹線として山形まで直通するようになると、「つばさ」は新幹線列車の名称になり、残った山形〜秋田間が特急「こまくさ」となった。さらに、1999年に山形新幹線が新庄まで延伸されたことで、「こまくさ」は新庄〜秋田間の快速に格下げされた。つまり「こまくさ」は、昔の特急「つばさ」の在来線部分が短縮を重ねたなれの果ての姿なのだ(注1)。
そんな列車ではあるが、出発を待つ新庄行きの快速「こまくさ2号」は、毎度おなじみ701系電車2両編成のワンマン運転。元優等列車の貫禄など何もない。ただしこの車両は座席の一部がクロスシートになっている。ちょうど1年前に四国の高徳線で乗った1000系という気動車と同様に、ロングシートの正面にクロスシートがあるという変則的な配置になっている。クロス席に座ると真横からの視線を浴びるという、ちょっと違和感のあるレイアウトだ。既に満席なので、運転室後ろに立ち前面展望を狙うとする。
立ち客もかなり多い状態で秋田を出る。線路は2本あり一見複線なのだが、「こまくさ」は右側の線路を走る。左側は標準軌、つまり新幹線規格の線路で、秋田新幹線が使用する。つまり新幹線の単線と在来線の単線が併走しているのだ(注2)。線路は雪を被っているように見えるが、電車は構わず100km/hほどで突っ走る。
羽後境で対向列車とすれ違う。前面に雪がびっしり、車内には客がびっしり。この先過酷な雪道となりそうだ。
大曲で乗客が入れ替わり若干少なくなった。遅れた下りの秋田新幹線の接続を待って出発。を秋田新幹線はここから、もともと田沢湖線と呼ばれていた区間に入り、盛岡を目指す。大曲〜新庄間は新幹線化から取り残された区間で、奥羽本線はここから正真正銘の単線となる。横からの強い風で電車がよく揺れる。運転室にもピュオーと、すきま風の音がしている。
北上線と接続する横手で乗務員が交代。山形県との県境に近づいてゆくが、それに伴い雪の量も増えてくる。湯沢を出ると積雪は50cmほど。降りしきる雪が前面窓を覆い、見通しが利かなくなってきた。乗客はしだいに増えてきて、横堀で満員に。窓の外が見えないので、とにかく雪のすごいところを進んでいるんだということ以外、もはや判らない。
県境を過ぎるとひとまず雪のピークは越えたが、真室川で乗客はさらに増えて超満員に。そもそもUターンラッシュのこの時期に、山形新幹線へのアクセスを前提にしている列車を2両で走らせていることがおかしい。中途半端なクロスシートも、こうなってしまうと混雑を助長する無用の長物だ。せっかくたまに乗ってくれた利用者に、もう乗るものかと思われても仕方ない。1年前の高徳線でも感じたが、どうせ日中は車庫で休んでいる車両がいるのだから、臨時列車を出せとまでは言わないが、せめて増結くらいはできないものか。素人が考えるほど簡単なことでないとは思うが、そういう柔軟性は欲しいところだ。
終点新庄には4分遅れで到着。パンパンの2両編成から吐き出された乗客の大半が新幹線ホームへと向かう。「こまくさ」はといえば、のっぺり顔の表面に分厚い雪の塊がこびりつき、ものすごい形相になっていた。
新庄から陸羽東線に入る。50cmを超える積雪が周りを覆い、降りしきる雪で眺望は利かない。それでも列車は結構なスピードで駆けて行く。これが鉄道の強みだ。県境の境田が積雪のピークで、ホームに1mほど積もっている。
ちなみに陸羽東線には「奥の細道湯けむりライン」の愛称が付けられている。駅名にも「瀬見温泉」「赤倉温泉」そしてこれから目指す「鳴子温泉」など、温泉地を前面に出した名称が多いが、これらは近年改称されたものだ。最近の村おこし・町おこしの一環と見える。
宮城県に入り、鳴子温泉で列車を降りる。陸羽東線の拠点駅であり、沿線随一の温泉街だ。湿った雪が間断なく落ちてくる中、その町の中を歩いてみる。
滑る道に足を取られながら歩く。この天気なら無理からぬことだが、人の姿よりも車の往来が多い。JR線に並行するかたちで江合川が流れ、温泉街はその谷に沿ってのびている。過去に訪れた中では兵庫の城崎温泉や飛騨の下呂温泉など、由緒ある温泉地はなぜかこういう立地が多い気がする。
鳴子はこけしが有名だとのことで、街中にこけしの店が並ぶほか、街角にそれを模した柱などが立つ。あまり雪道を歩き回るのもしんどいので、駅前に戻って共同浴場「滝の湯」に入ってみる。こぎれいな建物で雰囲気も良い感じ。冷えた体をしっかり温めておく。だが外へ出ると、雪はさらに激しくなっていた。
小牛田(こごた)行きの列車で陸羽東線の旅を再開する。実はまだ、秋田を出てから食事らしい食事をしていなかった。鳴子で購入した薄皮まんじゅうを昼食代わりにする。食に贅を尽くした昨日とは対照的に、初日同様の粗食でしのぐことになった。
依然、沿線の雪は衰えない。木々に重くのしかかり、見通しは悪い。それでも次第に平地が広がり、客も増えてくる。
この列車では東北本線と接続する小牛田まで行かず、古川で新幹線に乗り換える。小牛田まで行ってしまうと仙台以降の接続に間に合わないため、仙台までの1区間だけ新幹線を利用する。
仙台まで乗るのは盛岡発「やまびこ」と秋田発「こまち」の併結列車。山形新幹線および秋田新幹線は線路幅を標準軌(新幹線の幅)にすることで東北新幹線との直通を可能にしたものだが、設備は在来線の流用であるため、「こまち」用のE3系は車体が若干小さい。
列車は7分ほど遅れて到着。そういえば秋田新幹線は朝から少し遅れていた。盛岡〜秋田間のほとんどが単線の秋田新幹線なので、ひとたびダイヤが乱れると影響が波及してなかなか回復できず、それが東北新幹線にも影響するのだろう。「こまち」側の16号車に乗り込んだが、こちらも予想通りのUターンラッシュで大混雑。押し合いへし合いの車内で十数分を過ごす。
東北最大の都市にして交通の要衝である仙台。この先は常磐線の乗り継ぎでひたすら東京を目指すことになる。さきほどの新幹線に乗り続ければ、定刻だと17時36分には東京に着いてしまうのだが、鈍行を乗り継ぐ自分の到着予定は23時ごろ。これからはほとんど闇の中を進むことになるが、今日という日はまだあと3分の1残っている。
この先はいわきで8分の接続時間があるくらいしか遊びの時間が無いので、前もって夕食を調達しておく必要がある。しかし新幹線が遅れたため、次のいわき行きへの乗り換え時間はわずか10分余り。乗り遅れてしまうと後がなく、せっかく新幹線でワープしたのが何だったのだということにもなるので、買い物は断念してとにかく列車に乗り込む。結局仙台出発は3分ほど遅れたのだが。
いわき行きの電車は急行形の455系で、6両編成だが車内は満員、デッキまで人がいっぱいだ。網棚にも大きな荷物がいっぱい載せられ、昔の急行の帰省ラッシュはこんな感じだったのかなと思わせる。外は暗くなり、積雪の量は減ってきたがまだちらちらと舞っている。
岩沼から常磐線に入り、乗客は次第に減ってゆく。福島県に入って原ノ町で大勢が下車し、浪江でようやくクロスシートに陣取る。仙台出発時の喧噪は去り、車内はすっかり静かになった。窓の外に目をこらすと、わずかな雪のかけらが見られ、空気の冷たさが窓を伝ってくる。手にはまだかすかに鳴子温泉の香りが残っている。(注3)
いわきでの接続時間に食料調達の望みをかけていたのだが、このたびも列車の遅れから即座の乗り換えを強いられる。跨線橋を渡って3分の接続では、他に何もできない。この先上野まで三時間半あるだけに、これは非常に辛い。スムーズな乗り継ぎが、ここでは完全に仇になっている。
ここまで来るともう積雪はない。2駅先の湯本で特急「スーパーひたち」の通過待ち。この隙を突いてなんとかホームで缶のお茶を買う。このお茶と、非常食として持参したカロリーメイトで何とか飢えをしのごうという算段。停まる駅駅の目の前でコンビニがあかあかと灯りをともしているのを見ると、なんとも恨めしくなる。
勿来(なこそ)が福島県最後の駅、これをもって「東北」とはお別れだ。しばらくガラガラの列車で夜汽車の気分だったが、水戸からは一気に乗客が増える。もう名実ともに「関東」だ。まだあと2時間か…と思っていたが、そのあとは記憶にない。空腹で体が省エネモードに入ったのだろう。
長い長い常磐線の旅の果てに上野到着。ここまで来れば、あとは約1時間後に東京を発つ「ムーンライトながら」に乗れさえすればよく、東京へはいくらでも電車が来るので、もはや時間のプレッシャーはない。コンビニであまりにも遅い夕食を買い込み、山手線で東京へ。
18きっぷ利用者御用達の大垣行き夜行快速「ムーンライトながら」は今夜も満席。今回は最後部の9号車、つまり小田原から自由席になるうえに名古屋で切り離されてしまう車両しか取れなかった。車内の表示はなぜか最初から「自由席」になっている上に、案内も1駅遅れて表示される。車掌のミスだろうか。
2001年1月4日 (東京→)名古屋→神戸 |
明けて1月4日。「ムーンライトながら」の夜はよく眠れず、気分も良くなかった。どうも胃の調子がおかしい。食習慣が無茶苦茶になっているので、胃が悲鳴を上げている。今回の旅は今日の午前中で終わるが、ここらが限界のようだ。
列車は大垣行きだが、9号車は名古屋止まりなので降りなければならない。大垣行きの前6両もこの先は自由席なのでそちらに移ることもできるが、同様に乗り換える客が多いと予想されるので、どうせならこの後を追って走る、いわゆる「臨時大垣夜行」に乗ってみようと思う。
急行「東海」用の165系車両を使用した名無しの夜行鈍行(通称「大垣夜行」)を、「東海」の特急化に際して373系に置き換え快速にしたのが「ムーンライトながら」だが、「大垣夜行」時代から多客時には救済のための臨時列車が運転されており、名前はないが「臨時大垣夜行」と呼ばれている。こちらは今も急行形電車が使われており、かつての「大垣夜行」を彷彿させる。165系列も今や希少な存在になり、乗れるチャンスはもう多くないだろう。短い区間だが、それを味わっておこうと思う。
臨時大垣夜行は湘南色の8両編成で、その8号車には「クハ167-1」とある。167系はもともと修学旅行用の車両だったらしいが、そのトップナンバーだ。先を急ぐ人は「ながら」へ移ったのか、意外と空いており、ボックス席に座ることができた。
もと急行形の貫禄か、モーターの低いうなりはいかにも旧式電車なのだが、走りはなめらかで軽快だ。新型車と比べてガタピシしているのだが、なぜか安定感というか、安心感がある。残念ながら、私がこうして長距離旅に繰り出すようになったのは既に「急行」の末期。急行形車両のほとんどが鈍行用に転用され、その活躍さえももはや風前の灯だが、やはり急行車両はこういう所でこそ本領を発揮できるものだと思う。
濃尾平野を軽やかに進むうちに薄明るくなり、沿線には再び雪が。やがて高架を駆け上がって岐阜へ。ホームにもうっすらと積もっている。
117系の米原行きに乗り換える。大垣からは登り勾配にさしかかり、雪の量も増えてくる。雪国とは昨日お別れしたつもりだったが、まだもう少し楽しませてくれそうだ。一面真っ白な関ヶ原を越え、伊吹山の麓を進んでゆく。
米原からは3日ぶりのJR西日本エリア、そして最後の列車となる。すぐに居眠りし、京都あたりまで記憶が無い。外を見るとすっきりと青空が広がっている。もちろん雪はもうない。そういえばこの旅は曇り空や雪空ばかりだったが、こんなに青い空はいつ以来かな、と記憶を辿ると、往路で乗った飛行機以来だった。