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4.不愉快な四国 |
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2000年1月3日 神戸→後免→阿波池田→徳島→高松→宇野→岡山→粟生 |
さて、年が明けて2000年。騒がれたY2Kは全く大したことのないまま2日が明け、年末旅行の実質的な続きとして、今後は四国へ渡ることとなる。私にとって四国は、1990年1月4日以来、ほぼ10年ぶり、2度目の訪問となる。
1日を有効に使うために、往路は夜行快速「ムーンライト高知」を利用することに。0時を過ぎた神戸駅は、さすがに人影もまばらでひっそり。EF65に牽引された列車は、「ふるさとライナー山陽」「ムーンライト高知」「ムーンライト松山」の3列車併結で何と10両の長編成。もはや客車列車そのものが絶滅寸前な中にあって、臨時とはいえ貴重な存在だ。ただし、この列車に神戸から乗り込んだのは私一人。
「ムーンライト高知」は通常はグリーン車だけの編成だが、ピーク期には普通車指定席が連結されて、「18きっぷ」でも利用可能となる。ただし、その座席はといえば、背もたれの薄っぺらな紺色シートで、倒れる角度が小さい上、背中を離すとガチャンと戻ってしまう。しかもそのガチャンがかなり大きい音だから、なんとも気を遣う。臨時列車用の余りモノ車両だけに仕方ないのだろうが、あまりにも夜行には不向きな座席だった。
そんな座席が気になってしまったこともあって、この夜の寝付きはすこぶる悪く、そのまま明石、加古川、姫路へと進み、岡山でも目が覚めた。その岡山では、広島行きの「ふるさとライナー山陽」編成を切り離すために小休止。その後も眠れぬことに変わりなく、瀬戸大橋を渡るときも起きており、多度津で「松山」編成を切り離したことも覚えている。というわけで、この夜はほとんど眠れずじまい。早くも先行きが危ぶまれる。
長い長い夜が白々と明けるころに高知平野へ。でも日帰りなので、先の日程を考えると高知目前で引き返さなければならず、後免で下車。神戸では10両あった列車が、今やわずか3両。それだけで、ずいぶん「果て」に来たような気になってしまう。これを1両のディーゼル機関車で牽くのはもったいないような気も。
後免から阿波池田ゆきに乗り、土讃線を引き返す格好となる。この先、景勝・大歩危小歩危をはじめ、吉野川上流の渓谷を望む、本日のハイライト区間となる。
さて、やってきた列車は・・。全ロングシートのワンマン列車。そりゃないだろ・・と思わずつぶやく。車両の端から端までロングシートが続き、そこに人がまばらに座るさまは、なかなかに異様だ。
土佐山田を過ぎると平野から一気に勾配を駆け上がり、山の中へ。吉野川の上流に位置し、霧の立ちこめる秘境のような谷を進んで行く。驚きなのは、絶壁のような険しい山の頂上付近、あんな所にどうやって行くのと思えるような所にまで、民家や畑が続いていること。四国の人はたくましい。
途中繁藤、大歩危と、特急行き違い待ちの停車。それぞれ20分前後の長い停車である。おかげで途中下車でき、景色をじっくり楽しめたのは良かったが、何とも前近代的で効率の悪いダイヤだなと思う。
四国を旅行して印象的だったのは、「えっ、あんな所に」というような所にまで人の生活が息づいていることだった。下の写真は大歩危駅近くでの光景。この険しい斜面に沿って民家や田畑が続き、上の方は霧で見えないほど。まさに、「どうやって行き来するの?」。
大歩危では川が深い谷を削り、線路と道路が脇の狭い場所をかろうじて進む。小歩危を過ぎるとようやく霧が晴れ、谷も広がって、ついに秘境を脱したという感。
阿波池田からは徳島線に乗り換え、引き続き吉野川に沿って徳島を目指すこととなる。乗り込んだ列車は1000系気動車(JR四国製車両には、キハやモハなどのカタカナ記号が付かない)の2両編成、クロスシートとロングシートが半々の変則的な配置でおもしろいが、ロング席の真っ正面にクロス席があって、丸見え。このクロス席で弁当を食べるのは、ちょっと気が引ける。
徳島線に入っても、相変わらず待ち合わせの多い非能率ダイヤ。吉野川は一気に幅を広げ、乗客もだんだん増加、穴吹で1両増結。それでもさらに増えて、徳島に着くころには満員になっていた。
徳島は、沖縄を除けば全国で3つだけの「電車の来ない県庁所在地駅」(ほかは鳥取、山口)だが、駅ビル併設の大きな駅。ここで昼食の「うなぎ寿司」を調達しておく。
お次は高徳線、高松まで2時間16分の道のりとなる。お客はそこそこ多い。ところが、列車はわずか1両。徳島を離れれば空いてくるかと思いきや、客の入れ替わりは意外と激しく、常に混んだ状態のまま推移。そんな状態のため、せっかく買ったうなぎ寿司にも手がつけられず、かといって外の景色も単調で、面白みに欠ける。
そのつまらなさに輪をかけたのが、相変わらず工夫のないダイヤ。待合いが異様に多く、その時間も長い。特急(地元の人は「急行」と呼ぶ)のために鈍行を相当犠牲にしていると見える。おまけに、寝不足の影響がそろそろ出てきたか、頭が痛くなってきた。
高松に近づくと、さらに客は増えてきた。それなのに、高松市に入ってからも8分停車が2度! 外で空気を吸おうにも、座席を離れるわけにもゆかず、暑苦しい車内でじっとしているほかなく、こちらはイライラし通し。徳島駅の留置線にたむろしていた大量の車両を思い出し、あのうち1両でも増結していてくれたなら、と恨めしい気持ちになってくる。
最後に私がメモに書き付けた言葉は、「もう高徳線には乗らん」。列車に乗るのを楽しみにやってきている当方にとって、それ自体が苦痛になることほど、悔しいことはない。
再開発中の高松駅を後にして、悪い印象しか残らなかったJR四国とはおさらば。かつての連絡船時代を偲んでフェリーで本州へ戻ることにする。
船に乗り込むと、あの船独特の油臭さでますます気分が悪くなってしまったものの、屋外に出て風を浴びると落ち着いてきた。ようやくうなぎ寿司を食べて、高松から1時間で宇野港へ。もう、日が傾いてきた。
JR宇野駅は、かつての連絡船の玄関口で広々とヤードが広がっていた形跡はあるものの、今やすっかり縮小され、小さな駅舎と1本のホームがあるだけ。完全に一終着駅になり果てた感だ。
薄暗くなり、あとは帰るのみ。加古川へ向かう道中、ほとんど寝て過ごしていた。