4.繁栄の跡を辿る

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 石炭路線の今


 2000年5月5日
 (南宮崎→)折尾→若松→門司港→田川後藤寺→博多→小倉→新神戸

  目が覚めるとすでに小倉の手前まで来ていた。昨夜は北から南へ、そして今夜は南九州から北九州へと一気に帰ってきた。従って今回は、熊本や大分といった中間地点は素通りであった。九州内の2本の夜行特急を駆使し、効率よく宿泊費も浮かせられる計画だと自画自賛していたが、実行してみて、もうやるまいと思った。いかに乗り放題の「周遊きっぷ」とはいえ、元を取ってやろうなどと、さもしい根性で欲を張るとろくなことがない。

  そんな九州旅行も最終日、幸い今日もいい天気だ。この5月5日の九州での行程は実質半日。かつて炭鉱と製鉄で栄えたという筑豊エリアを駆け足でたどることになる。ポイントは、石炭積み出しのメインルートだった筑豊本線、その筑豊線に残る最後の客車鈍行、関門トンネル開通まで九州の玄関だった門司港、そして炭鉱繁栄の置き土産「ボタ山」を見ることだ。

  列車は小倉で進行方向を変え、まもなく折尾へ。「ドリームにちりん」を下車し、折尾駅の洗面所(またの名をお手洗)で顔を洗う。あとひと頑張り。旅の楽しさより疲れの方が先に立つのが辛い。

  折尾 6:04 → 若松 6:20 [普通 6524D/気・キハ66]

  折尾では鹿児島本線と筑豊本線が立体交差しており、筑豊線列車は下のホームからの出発。この筑豊線は、かつて石炭積み出しの貨車が往来したという名残で、非電化ながら複線の広々した線路だ。列車は洞海湾北側をゆっくり進む。湾の沿岸には工場地帯が続く。

  日が昇り、列車は筑豊線の起点である若松へ。行き止まりの線路の先に小さな駅舎。ホームも1本だけしかない。しかし昔はもっと大規模な駅だったに違いない。駅と海岸の間の一帯には真新しいマンション群が立ち並び、海岸沿いは散策路として整備されている。これもおそらくかつては広々したヤードで、ここから石炭の積み出しが行われていたのだろう。しかし今となっては、想像力をたくましく働かせなければその情景を思い見ることはできない。

  海岸からは、穏やかな洞海湾をひとまたぎにする巨大な若戸大橋が望まれ、昇ったばかりの朝日を背後にシルエットを現していた。

洞海湾にかかる若戸大橋 

  若松 6:36 → 折尾 6:52 [普通 6531D/気・キハ66]

  折尾へ引き返すのに乗ったのは、先の列車の折り返し。改めて沿線を観察すると、両側にだだっ広い荒れ地が広がっていることに気づく。行き交う貨物列車のために整備されたゆとりある複線の線路を今進むのは、2両編成のがらがらの列車。繁栄も過ぎ去るとむなしいものだ。

 最後の客車鈍行

  戻ってきた折尾駅。前述の通り、ここはJR線同士が交差する駅だが、実は日本初の立体交差駅なのだという。駅舎は大正の建築だというおしゃれなもので、そう大きくはないが独特の存在感がある。しかし今、全面高架化の話が進められているとのことで、この風格ある駅舎もどうなることか。

由緒ある折尾駅舎 

  さて次の列車は、駅母屋から駅前ロータリーを隔てた「離れ」のホームからの発着となる。鹿児島線と筑豊線は立体交差している構造上、折尾で直接つなげられないので、鹿児島線黒崎方面と筑豊線直方方面とを連絡する短絡線で結ばれている。従って、ここを通って鹿児島線と筑豊線とを直通する列車は折尾に停車できなかった。それで1988年に短絡線側に別ホームが作られた。そこから発着する列車に乗りかえるには、同じ駅にもかかわらず一旦改札を出て、駅前ロータリーに沿って200mほど移動しなければならない。

  これから鹿児島線に乗って門司港へ向かうのに、あえて短絡線のほうへ向かうのはなぜか? それは、今回の旅行で外すことのできなかった、「最後の客車鈍行」に乗るためである。この列車は、筑豊線直方方面から短絡線を経て鹿児島本線に入る。ゆえ、「門司港行き」でも鹿児島線ホームからは乗れないのだ。

  折尾駅の「離れ」ホームに姿を現したのが、赤いディーゼル機関車、そして赤い6両の客車。客車列車の近代化に貢献したという50系客車で、これが初めての乗車機会である。

  機関車が客車を引っ張るタイプの列車は、近代化や合理化に伴い急激に数を減らし、JR発足当時は東北や山陰、九州などの長距離ローカルに残っていたものも、その後10年程で一気に淘汰されてしまった。寝台特急や青函トンネルの快速「海峡」に残るものの、普通列車としては筑豊線の2往復だけとなった。

  折尾 7:17 → 門司港 8:10 [普通 2630レ/客・50系]

  列車は、客車独特の緩慢な走りで進み、まもなく鹿児島線に合流する。出発や停止のときには振動がワンテンポ遅れて来る。駅での停車時間も長めで、こんなに悠長に走っていて他の列車に追いつかれないのが不思議なくらいだ。

  そんなペースで古びた工業地帯をわき目に進んでいたかと思うと、スペースシャトル形の乗り物(?)がデンと立つ新築のスペースワールド駅にも停車、ここではなんとも場違いな感じがする。

  考えてみれば、機関車が客車を牽くというのは、鉄道史始まって以来の形態で、いわば鉄道の元祖ともいえるスタイル。かつて栄え、その名残を随所に残す筑豊線に、そんな旧態依然の列車が残っているというのも皮肉といえる。しかしそんな筑豊線にも近代化の波は迫り、2001年完成予定で電化工事が進められており、すでに折尾の短絡線にも架線柱が立っていた。この電化開業の時は、客車鈍行の終焉の時ともなる。今回の旅行でどうしても外せなかったのは、そういう理由からだった。

  列車は小倉を過ぎ、ホームが異様に多い(そしてさびれた雰囲気の)門司を過ぎると、北側には本州が見えてきた。海岸沿いには古びた倉庫が立ち並び、こんなところにも北九州繁栄の名残を見た気がした。

 九州の玄関

  緩慢なペースのまま、列車は門司港に到着。幅の広く取られたホームだが、人影はまばら。先頭に立っていたディーゼル機関車が切り離され、取り残された客車の色あせたワインレッドの車体が寂しげに見える。

がらんとした門司港駅ホームに到着した客車鈍行 

  鹿児島本線の「0哩(マイル)」碑が立つ門司港駅。昭和17年に関門トンネルが開通するまで九州の入口駅で、ホームの幅広さもその名残である。そして見るべきはその駅舎。1991年に一度訪れているがその時は夜中だったので、全容を見るのは初めてだが、随所に大正建築の風格が漂う。

かつての九州の玄関口、門司港駅舎 

  これだけだと、ただ時代の流れに見放され衰退した駅というイメージになってしまうが、昭和63年にこの駅舎が重要文化財に指定され、それに伴ってそのレトロな雰囲気が脚光を浴びるようになった。今、駅前には同時代の建築が数多く保存され、かつての港町・貿易センターの雰囲気を伝える観光スポットとなっている。やはりりっぱに造られたものは、磨けば相応に輝くものだ。

  対岸には本州が間近に見渡され、ああ、旅もいよいよ終盤なんだなあという実感。しかしその本州に渡るのは、もう少し先である。

すぐそこがもう本州 

 ボタ山はいずこ

  九州最後のポイントは、炭鉱の遺跡「ボタ山」を見ることだ。掘り出した石炭の屑が積み上げられてできたボタ山も、風化やニュータウン開発が進んだことで、今や原形をとどめるものは数少ないと聞く。

  門司港 8:51 → 小倉 9:06 [普通 3627D/気・キハ47]
  小倉 9:10 → 田川後藤寺 10:11 [普通 937D/気・キハ147]

  田川後藤寺ゆきのディーゼル車に乗り、城野から日田彦山線入り。ここで、昨晩宮崎で買った「紫いもアンパン」と、折尾のキヨスクで購入した海藻サラダで遅い朝食。鹿児島へ帰省すると、「本場」だけあっていろいろとレアなさつまいもが出されたが、紫の芋は子供心に気味悪くて、食べられなかった思い出がある。それが今になって全国的なブームとなり、こうして売り出されているのだから不思議な気分だ。紫色の餡は、意外とあっさり味だった。

  居眠りなどするうちに列車は軽く山越え。香春(かわら)では山が無残に切り取られ、ふもとにはものものしいセメント工場の姿。北九州では今や、石炭の代わりに石灰岩の山々が掘り返されているのだ。一方、後藤寺の一つ手前、田川伊田では、昔貨物列車が盛んに往来していた(であろう)線路が取り払われ、スカスカの中抜け状態になってしまった構内がわびしい。

  田川後藤寺 10:19 → 新飯塚 10:41 [普通 1534D/気・キハ40]

  田川後藤寺も広さの割に閑散とした駅。ここから後藤寺線に乗り換えて新飯塚へ抜けるが、博多方面へ出る客が多いようで、1両の列車は混雑している。後藤寺を出て1つ目の船尾駅近くで、またしても石灰岩の切り出しが大々的になされている。その後は割に単調な景色の中を進むが、「ボタ山」は、どれがそれなのかよく分からない。やはりもう原型をとどめず風景の中に溶け込んでしまったのか。

  新飯塚 10:48 → 飯塚 10:50 [普通 2641D/気・キハ66]

  新飯塚で筑豊線に乗り換え。博多〜飯塚〜直方〜黒崎の篠栗−筑豊ルートが現在もっか電化工事中で、すでに架線柱が立ち並び、架線も張られている。

  飯塚駅のホームから見える、なだらかな稜線の3つの小山。あれがボタ山か? もともとはどす黒いガラの山だったのだろうが、今ではすっかり緑の草木に覆われている。炭鉱の時代は遠く、今や筑豊を象徴するのはセメントとニュータウンなのか。

バックに見える3つ頭の「ボタ山」 電化工事の進む飯塚駅にて 

 史上最大の疲労

  飯塚 10:56 → 博多 11:32 [快速 4625D/気・キハ200]

  博多行き快速は、キハ200の4両。真っ青な「シーサイド」、真っ黄色な「なのはな」、そして今回は真っ赤。登場当初はその名も「赤い快速」とネーミングされていたほどだ。これでちょうど、JR九州のキハ200「三原色」を制覇したことになる。車内は大混雑。運転席後ろに子供たち軍団が陣取った。

篠栗線の快速 シンボルカラーは赤 

  篠栗から篠栗線に入り、一路博多を目指すが、あちこち工事中。電化と並行して線路の改良も行われているらしく、そのせいもあってよく揺れ、せっかくの新型気動車の走りが台無しだが、見ているぶんにはなかなか楽しい。

  吉塚で鹿児島線に合流、新幹線の高架も並んで、九州一のターミナルに再び近づいてきた実感。近くにいた子供が、「あっ、700系のぞみだ! でも僕はレールスターの方が好きだな。」・・・そのレールスターに乗って、まもなく僕は神戸に帰るのです。

  博多 12:09[05] → 小倉 12:49[45] [特急「ソニック17号」3017M/電・883系]

  博多から乗る九州最後の列車は特急「ソニック」の883系電車。キハ200の「三原色制覇」に続き、これをもって「JR九州の特急形電車全種制覇」となった。その内訳は、485系(にちりん)、783系(みどり・ドリームにちりん)、787系(ドリームつばめ)、883系(ソニック)、885系(かもめ)だ。

  車内はこれまたJR九州らしく、おもちゃのような奇をてらった内装。しかし走りだすと、その実力に舌を巻く。ゆったりめに引かれた鹿児島本線の線路上を、容赦なくがんがん突き進む。振り子式なのでカーブもものともしない。走りの面では、今回九州で乗った中でも最強だったと思う。それでも博多出発時の4分遅れは取り戻せないまま、小倉へ。ついに九州とお別れだ。

おもちゃのような883系「ソニック」に乗って、九州の特急電車制覇 

  小倉 12:57 → 新神戸 15:08 [新幹線「ひかり368号」368A/電・700系]

  帰りは行きと同様「ひかりレールスター」に乗ることにしており、今度は指定席を確保している。車両端ではあるが窓際席。座席は4列でゆったり配列、背もたれも手すりもがっしりして居住性は抜群。(ただし座席のドリンクホルダーは軟弱そう。)室内も、自由席が「蛍光灯の明るさ」だったのに対し、指定席は温かみのある落ち着いた雰囲気。悪夢の往路とは万事天と地の差。しかし料金はたった510円高いだけである。

  新幹線はするするとスピードを上げて関門トンネルをくぐり、出たところはもう本州。寂しさを感じる半面、今回はほっとした気持ちも強く、複雑だ。

  窓際で時速285kmを満喫、と思っていたものの、あまりの景色の動きのすさまじさに、目がチカチカする。昔、帰省の時に味わった210km/hの感覚とは、明らかに違う。目で追えていたものが追えないのは歳のせいだけじゃない。ただでさえ疲れているところで、こんなものを見ていてはいけない、と、カーテンを引いて目をつむる。

  結局、せっかくの「レールスター」復路はほとんど寝て過ごす羽目に。小倉から新神戸までの2時間強はあっという間だった。史上最大の疲労を覚えた今回の旅の余韻に浸りつつ、六甲トンネルへと消えてゆくひかり368号を見送った。

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