漁港から上り坂となった橋で海を渡り、高台から一望する。なかなかの規模の港であり、右側には仙崎の町並みが広がる。
今いる島は「青海島」とよばれる。本州の西端、その日本海側は「北長門海岸国定公園」に指定され、仙崎港からはこの青海島を一周する遊覧船も出ている。残念ながら歩いてゆける範囲でそこまでの絶景にお目にかかれるわけではないが、こうして入り江に広がる港町を眺めるのも悪くない。
道中、地元の人に「金子みすゞのことを聞いてきたのか」と尋ねられた。不勉強な私はその名すら知らず、返事に窮したが、調べると近年脚光を浴びだした大正・昭和期の詩人らしい。その時代の作家にありがちな幸薄い生涯だったようだが、その作品には故郷・仙崎への思いが色濃く反映されているという。
京都から下関(厳密には1つ東側の幡生)までを北回りで結ぶ山陰本線。「本線」を名乗りながら長らく旧態依然だった。大半の区間が電化されず、機関車に牽かれた旧型客車が長い時間をかけて走り抜いていた。21世紀を迎え、なおも客車で運転される列車はごくわずかになったが、ブルートレインは細々と生き残っていた。東京と出雲市を結ぶ寝台特急「出雲」は1往復が残り、山陰本線内ではディーゼル機関車が牽引していた。
一方、2001年に島根県内の山陰本線の高速化工事が完了し、この7月に新型特急車両が導入された。電化こそされていないが、大幅に時間が短縮された。左に写る特急「スーパーくにびき」がそれだ。確かに高性能ではあるが、安っぽい面構えをした2両編成に、威厳めいたものは感じられない。そんな新世代特急と、「旧態依然」の象徴ともいえる「出雲」との対面。山陰本線の変容と世代交代を印象づけられた。
「出雲」は2006年に廃止され、これをもって、山陰のありふれた存在であった「機関車が牽引する列車」は完全に姿を消した。
松江から西側に横たわる宍道(しんじ)湖。2年前に山陰を訪れた際、突然の台風上陸で足止めを食い、宍道に3時間遅れで到着した。そのときの宍道湖は吹き寄せる強風で冬の日本海を思わせるような荒れ模様だった。しかし今目の前に広がるのは、それと同じ湖とは思えない、おそらくは本来の姿の、穏やかな宍道湖である。
朝の松江側から望む、その静かな湖面には、何艘もの小舟が浮かんでいる。特産のしじみ貝の漁を行っているのだろうか。背後の平たい島は嫁ヶ島といい、これがまた絶妙のアクセントとなっている。
俳人・松尾芭蕉をはじめ、日本三景のひとつに数えられる松島に魅せられた人は数多い。そんな松島湾の光景を列車にいながらに堪能できるのが、海岸線のごく近いところを走る仙石線だ。しかし惜しむらくは、ここを走るのは通勤タイプの電車で、窓に背中を向ける座席になっていることだ。仙台近郊からの延長なので仕方ないのだが、これでは座るとかえってもったいない。そういうわけで、ドア際に立って車窓を眺める。
松島湾に浮かぶ島々には、それぞれ独特の味がある。そしてそれらがまとまって、「松島」という独特の風情を作り上げている。逆光にシルエットをなすその姿が、絵巻のように車窓を流れてゆく。
ピリッとした氷点下の夜明け。明るさを含み始めた空はひたすらに青く澄んでいる。盛岡から旧式のディーゼル車に乗り、雪国の旅を始める。
西の丘の向こうに輝く山が姿を現す。標高2,000mを超す岩手山。冷たいブルーの世界の中、そこにだけ朝日が当たり、スポットライトを浴びているかのようだ。まだ半分は雲に隠れているが、これから晴れてくるのだろうか。旅の‘開幕’にふさわしいお出ましだ。
レールがまるでスキーのシュプール(軌跡)のようだ。線路の雪を巻き上げ、入ってきたのは3両の普通列車。古びたディーゼルカーだが、エンジンを強化しているので、見た目よりも足取りは軽い。
途中下車した安比高原駅は花輪線の最高点駅であり、標高504m。スキーリゾート地の玄関口らしいが、駅前からきれいに除雪された道が伸びるばかりで、周辺にはほとんど何もない。人けのなさに寂しさを覚えだした頃、カーブの先から颯爽と姿を現したのがこの列車。
中央本線の塩尻より東側は「中央東線」と呼ばれる。甲府盆地から信州へ向けて、高原へと駆け上がる登り勾配が続く。富士山に背を向け、右手前方に八ヶ岳が近づき、左側には甲斐駒ヶ岳を中心とした南アルプスの山々が連なる。天候さえよければ、山々のオールスターともいえる、そうそうたる顔ぶれの中を進むこのハイライトシーンに、感激を覚えずにはいられない。
うっすらと雪の積もった朝の沿線。列車は高度を上げ、山々の眺望がひらけてゆく。澄んだ青空のもと、屏風のように続く南アルプスの峰にはガスがかかるも、それによりかえって稜線が浮かび上がる。素晴らしいタイミングだ。
煉瓦の車庫から顔を出す特急車両。スキー列車「シュプール号」として関西方面からやってきたものだ。糸魚川は北陸本線の駅だが、白馬・松本方面へと向かう大糸線が分岐する交通の要衝だ。雪山をバックに、3本の列車が入れる堂々たる煉瓦車庫の立つさまは、その象徴といえる。
大糸線に乗り入れる「シュプール号」はこのシーズンを最後になくなった。2005年度をもって西日本のスキー列車そのものが姿を消し、この冬の風物詩も過去のものとなってしまった。
春の嵐が吹き荒れたこの日、列車のダイヤも混乱していた。そんななか、紀伊半島を南部(みなべ)まで南下した。紀州梅で有名な南部だが、花はもうなく、枝には若葉が芽吹いていた。冬と春がせめぎ合う中、自然の営みは確実に進みつつある。
夕刻、紀勢本線の電車に乗り、帰路に就く。大荒れの太平洋に面する絶壁の上を進んでゆくと、前方に夕日の姿。黄砂でかすんだ空に、半月状の赤い太陽がぼんやりと映る。
今乗っているのは、あと数日で引退する元急行用の電車だ。この陽が落ちるとともに、その最期もまた一日迫る。
もとは京阪神間の競争の一端を担ったという強者も、70年近い歳月を経て、生き残るはただ1両限り。本州の西の果てで余生を過ごす老兵の日課は、朝の7時前に宇部新川を出たのち、雀田〜長門本山間、わずか2.3kmを5往復し、夕方に宇部新川に戻ってくるというものだった。
宇部新川で出番を待つクモハ42001。真夏の朝日はすでに、そのチョコレート色の車体を照らしている。その存在感は圧倒的で、道のりはわずかだったが、忘れ得ぬインパクトを残すものだった。
翌年クモハ42は引退。2002年は最後の夏になってしまった。私にとって、この電車以上の強い印象を覚えた車両はそれまでになく、その後にもないだろう。