#000-010

  「十年の旅百景」は、2009年8月30日のサイト開設10周年を記念し、その10年間(1999年9月〜2009年8月)に旅先などで撮影してきた写真から100枚(+α)を選定したものです。

  お気に入り写真アンケートの結果はこちらです。

#011-020

 #000 旅立ちの朝

  駅で迎える朝というのは、何となく気分が違う。近所の見慣れた風景がすがすがしく見える。旅先であればなおさらで、夜明けとともにこれから新しい世界が開けるのだという高揚感がある。

  列車を待つホームから望む東の空には、まさに日が昇ろうとしている。天気は良好。今日はどんな風景に出会えるのだろう。

 #001 山間の接続駅

  中国地方の山間深くに位置する備後落合駅。過疎の山村と呼ぶに抵抗ない場所だ。だが鉄道についていえば、芸備線と木次線が出会う重要な拠点であった。かつては急行「ちどり」が、この駅を経由して広島と松江を結んでいた。ジャンクションであったからこそ、それなりの規模を保っていた駅である。

  それも今や見る影はない。いや、99年当時はまだその残照があった。区間短縮された急行「ちどり」が、ここ備後落合で折り返して広島に向かっていた。木次線の普通列車と接続を図り、一度の乗り換えで一応は山陽と山陰を結べるかたちがとられていた。どれだけの人がそのような使い方をしていたかは分からないが、この顔合わせは、芸備線や木次線が「陰陽連絡線」として機能していた時代の名残をかすかに伝えるものだった。

  その急行も消滅し、備後落合駅は日に数度普通列車が顔を合わせるだけの駅になった。三方へ向かう線路はやせ細る一方で、将来はおぼつかない。

 #002 岩穴の水平線

  日本海側には自然の造形が豊富だ。起伏の激しいリアス式の海岸が続くこと、また特に冬場に絶えず押し寄せる厳しい波風の浸食作用によるのだろう。若狭湾に位置する高浜・城山公園で目にしたこの奇岩もその一つだ。

  「明鏡洞」という名は、洞穴の向こうに見える海が鏡のように見えることからつけられたと言う。見渡す限りの水平線というのも気持ちのよいものだが、こうして一部分を切り取る風景にも趣がある。天然のトンネルを打ち抜いた日本海の猛々しさと造形の妙に、恐れ入るところである。

  「城山」の名が示すとおり、かつては高浜の半島部を自然の要害とした城があったという。人が地形を作り替えるより、人が地形を使って営む。これも、日本海側に絶景が数多く残る理由だろう。

 #003 最上川冬の色

  陸羽西線古口駅を出て積もる雪の中を少し歩くと、谷に目一杯広がる川に行き当たる。松尾芭蕉が「五月雨を集めてはやし」と詠んだ最上川。しかし今ここに広がるのは、歌人が目にした風景とはかなり異なるはずだ。ほぼモノクロに近い沈黙の世界を映しつつ、水の流れが重たげに動いている。

  日本三大急流に数えられ、新庄盆地から庄内平野へと出て行く古口あたりの渓谷では、川下りの遊覧船も運航されているが、年末とあって動く船の姿は見あたらない。ただ雪に半分埋もれた小舟が河原にたたずんでいる。五月雨の季節は遠い。

 #004 風雪に耐え

  幹を見るに、かなりの老木と察せられる。そこから出る細い枝は、度重なる積雪のためか折れ曲がっている。雪の重みで折れたり傾いたりした木々に出会うことは、豪雪地帯を旅していれば珍しくはない。だがこの米沢城の歴史を思うと、そこに特別な意味合いを感じられる。

  江戸時代の米沢藩初代・上杉景勝は広大な越後の地から大幅な減封によって米沢に入り、藩の財政は慢性的に逼迫していたという。幕末まで命脈を保てたのは、9代藩主上杉鷹山らの尽力あってのことで、その像が公園内にある。過酷な環境をねばり強く生き残ってきたあるじの姿を、この木は体現しているのだろうか。

 #005 木曽谷の果て

  1999年12月31日。西暦の千の位が1つ増える夜を間近に控え、世間は「ミレニアム」を合い言葉に騒ぎ立っていたが、この山間の集落にそんな雰囲気はみじんもない。あるとすれば、年越しを前にした厳かな静けさ、というところか。

  木曽川に沿い、中山道の宿場町を辿るように谷間を進む中央本線。塩尻から名古屋側の区間は通称「中央西線」とよばれる。塩尻側から峠を越えて、最初に着くのがこの薮原だ。つまり西側から中山道をたどれば、ここで木曽川に別れを告げることになる。写真でいえば、右手の峠が太平洋側と日本海側の分水嶺にあたる。

  しかし「果て」と呼ぶにしては、こうして俯瞰する町並みは規模が大きいように思える。木曽の谷はひたすら深く、険しい。にもかかわらず、それぞれの集落がそれなりに栄えているのは、かつての主要街道の宿場であったことと、林業という産業に恵まれていたことによるのだろう。街道といえば、今でもここは名古屋と長野を結ぶ特急の通り道である。ただ昔と違うのは、ここ薮原には止まらずに素通りされてしまうところだ。

 #006 達しがたい地

  四国の山はとにかく険しい。しかも絶壁のような急斜面に耕地があり、民家がある。どうしたらあそこまで行けるのかと不思議になる。朝霧がいまだ晴れず、中腹より上を隠しているからなおさら達しがたく思える。ただでさえ遅い冬の夜明けだが、この峡谷にはなかなか訪れそうにない。

  谷底を流れているのは吉野川。「大歩危」という見るからにものものしいこの地名が、訪れる者を阻む地だったことを物語る。土讃線の線路はこの狭い谷に沿い、トンネルを出入りしながら進んで行く。

 #007 海路回帰

  四国の旅を終え、高松からフェリーに乗って辿り着いた宇野港。この日は夜行列車での寝不足から始まって、頭痛に悩まされる行路だった。だが船で浴びた潮風は、そんな憂さを忘れさせてくれた。

  かつては国鉄の連絡船が高松へ結び、文字通り四国への玄関口だった宇野。瀬戸大橋の開通により、鉄道連絡船としての宇高航路は終わりを告げた。だがその後も、国道の連絡フェリーとして船の運航は続いている。

  本州に帰ってくるとともに、空の明るみは薄れつつある。苛立ちの多い旅だったが、これで終わりと思うとやはり虚無感が押し寄せる。

 #008 新緑とレトロ列車

  海に程近いところにまで山が迫り、斜面に張り付くように民家がそそり立つ佐世保の風景は、港町ならではだ。古びたホーム、新緑の色、レトロ列車。何気なく降りた駅だったが、列車が去るまで思わず見入ってしまった。

  港を望む佐世保駅から松浦鉄道に乗ると、すぐに短いトンネルに入る。佐世保中央駅を出て、国道をまたぐとすぐ中佐世保駅。その間200mで、日本最短の駅間だという。

  乗ってきたのは「レトロン号」という観光タイプの車両。この2000年にデビューしたばかりで、私はその情報を持っていなかったので、全く意図しない遭遇であった。このまま乗っていたい気分だったが、その後のスケジュールの兼ね合いもあり、慌ただしく下車した。

  松浦鉄道は、本土最西端のたびら平戸口駅へと向かう。いつかこの列車に乗って、西の果てを巡りたい。

 #009 長崎港眺望

  先に訪れた佐世保と同じく、長崎も港町の色を強く帯びた街である。その長崎港を望む斜面に位置するのがグラバー園。頂上に至る長いエスカレーターの先にあるのが、「旧三菱第二ドックハウス」。バルコニーに立つと、大型の船が行き交う長崎湾と、その周囲を囲むように連なる山々、そして海岸から山の中腹にかけて広がる町並みが一望できる。

  幕末から明治期にかけ、この国が維新と文明開化に情熱を燃やしていた頃、遠い国から新天地に降り立った実業家たちがいた。彼らが建て、住み着いた邸宅の幾つかが、この園内に移築されている。洋風ではあるが木製で、瓦をふいた和洋折衷の造りに、この日本の地で成功を収めようという彼らの夢と野望と、覚悟のほどがうかがえる。グラバーは武器売買で利を得たというから、彼らの功罪の「功」の部分だけを評価するなら片手落ちになるけれど、少なくとも彼らの存在を抜きに、今ここにある街の姿について語ることはできないだろう。

 #010 場違いな湯けむり

  ふと海岸を見て、不思議な光景が目に留まった。波の打ち寄せる岩場から湯気が上がっている。近くに降りて触れてみると、確かに温かい。

  ここは薩摩半島南端に近い山川漁港。指宿枕崎線の山川駅は、有人駅としてはJR最南端に位置する。そういえばここから「砂蒸し」で有名な指宿温泉が近い。ここも海岸の地熱が高いのかもしれない。

  「名物」となるほどの現象ではないのかもしれないが、日本がマグマの上に乗っかっている国であることを思い出させる光景である。

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