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2.タンゴ鉄道の光陰 |
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時刻表によれば、次に出る豊岡行は11:45発。定刻に出発するとの保証はないが、さきの「タンゴ悠遊1号」を見る限りは、ダイヤは正常に近づきつつあるようだ。それまで30分ほどあるので、駅からほど近い田辺城跡まで歩いてみることにする。駅で若干の時間があり、近くに城跡がある場合は、そこを訪ねることが多い。その土地の歴史を垣間見られるとともに、城跡は高台にある場合が多く、街を一望できるので、手っ取り早くその都市を把握できるからだ。もっとも、田辺城跡の場合は高さがなく、景色は平凡だが。
田辺城は初めてではなく、2009年の年末に知人らと訪問している。丹後を支配した戦国武将の細川幽斎が築き、子の忠興が継いだが、関ケ原の戦いに際しては西軍の攻撃を受けている。それにしても、舞鶴なのになぜ城の名前は田辺なのか、と不思議に思い、調べてゆくと、実は「田辺」のほうが、この地のもともとの地名だったようだ。とともに、福知山・宮津・舞鶴・そして豊岡、つまりタンゴの「T」の先端と接点にあたるこれらの都市に、興味深い因縁があることがわかった。
今日の出発点であった福知山を城下町として興したのは、明智光秀。織田信長の命で攻略した丹波国を支配するにあたり、この地を「福智山」と名付けて整備した。福知山駅のすぐ東側に、その城跡がある。地元では今でも、光秀は名君として称えられているという。その光秀の娘が、細川忠興に嫁いだガラシャこと玉。だが細川家は、本能寺の変に際しては光秀にくみさなかった。「負ければ賊軍」は歴史の常で、その観点でいえば明智は負け組、細川は勝ち組ということになるが、光秀はどだい、天下人となるには人がよすぎたのかもしれない。
時が下って関ヶ原の前、東軍についた細川家は福知山城主の小野木重勝ら西軍方の攻撃を受ける。細川幽斎は居城であった宮津城を焼き払って、田辺城に籠城。形勢は圧倒的に不利だったが、優れた歌人であった幽斎を惜しんだ天皇の勅命によって、関ヶ原の戦いの直前に講和がなされている。逆に、関ケ原で東軍が勝つや、忠興は福知山城を攻略、小野木重勝を自刃に追い込んだ。
その後細川氏は九州に移り、代わって丹後に入った京極氏は拠点を宮津に置いたが、その後丹後藩が分割されて田辺藩が発足、田辺城が再興された。なお、田辺藩の京極家はのちに豊岡藩に国替えになっている。
田辺城は「舞鶴(ぶがく)城」とも呼ばれた。これは城を称えるいわばニックネームであり、したがって田辺だけでなく甲府城や福岡城など、各地に「舞鶴城」を別称とする城が存在した。だが明治になって、丹後田辺は紀伊の田辺と被るという理由で「舞鶴藩」に改称された。当時としては栄えある名称を頂いたわけだ。和歌山に田辺がなければ、今の舞鶴は「田辺」のままで、どこか別の場所に「舞鶴」ができていたかもしれない。
現在の田辺城跡は公園になっており、昔のままの建物はないが、巨大な城門が入口にでんと構えている。ここは城跡です、とアピールするには良かろうが、いかにも復元建造物という風で、逆に有難味に欠ける気もする。
駅前に戻ると、ロータリーの真ん中に、これまたずいぶんとノッポなやぐらが立っている。鏡張りの現代風の駅舎に対してミスマッチにも思えるが、あえて対比させることで、舞鶴の歴史と未来を表現しようとの意図か。ちなみに駅側から見ると、やぐらの背後に「かまぼこの街 舞鶴」という看板が立っていて、なんとなくおかしい。
タンゴ鉄道の旅を再開する。豊岡までは2時間半ほどの長旅となるので、さきのロングシート車両がそのまま折り返すとなるとちょっときついな、と思っていたが、車両は入れ替わって、転換クロスシートの2両編成になっていた。先頭車はKTR705、後ろはKTR703という車番。先頭側の車両に乗り込むと、座席もなかなか上等だ。タンゴ鉄道の車両は、総じてグレードが高い。第三セクター線としてはかなり奮発している。
もと来た道を引き返し、峠を越えて由良川流域へ。相変わらず田畑も道路も広く冠水している。その先に架かる鉄橋が前方に姿を現す。手前の水浸しの風景と合わせると、広大な湖の中に橋が横たわっているように見える。
この度もゆっくりしたペースで由良川を渡り、濁った波の打ち寄せる奈具海岸を見ながら進む。対岸に見えるのは丹後半島か、と思ったが、地図で見ると、栗田湾という湾の内側に過ぎなかった。
宮津に着き、しばらく停車していたのは覚えているが、その後居眠りして、うとうとしながら天橋立へ。タンゴ鉄道沿線随一の観光地で、駅の規模も大きい。駅舎やホームの上屋は白塗りで上品だが、あいにくこの天気では映えない。そして上屋はペンキがあちこちはげてきている。
駅を出るとしばらく右手に海が現れ、振り返れば一直線の陸地が見渡される。天橋立も何度か訪ねている場所だが、ここだけがどうしてこうなったのかと、いつも不思議になる。その海が後方に去り、この先宮津線は、日本海にコブのように突き出た丹後半島の付け根を、斜めに切るようなルートをとる。
さて、バイパス線として近年開業した宮福線とは対照的に、宮津線は歴史が古く、西舞鶴側から峰山までは既に大正時代に開通、全線開業は昭和7年。それだけに線路や設備も、旧態を色濃く残している。地勢に抗わず、野山の間を縫って進むさまは、交通手段としては不利な条件だが、旅で乗るにはやはりこのほうが面白い。
野田川は、かつて加悦(かや)鉄道が接続していた駅。当時丹後山田といわれた同駅から大江山方面に南下し、丹後ちりめんやニッケル鉱石の輸送にあたった。大江山でのニッケル採掘は戦後中止されたが、その後もニッケル精錬工場への専用線を有し、その貨物輸送が経営の柱だったという。結局、宮津線の貨物輸送が廃されたことに伴い、1985年に廃止。希少な旧式車両が「加悦SL広場」に保存されており、移築された旧加悦駅舎が資料館となっている。
似たような末路を辿った鉄道として、兵庫の別府(べふ)鉄道(1984年廃止)や、岡山の同和鉱業片上鉄道(1991年廃止)がある。この規模の地方鉄道としてはよく生き残ったほうだが、主力であった貨物輸送の取りやめによって立ち行かなくなった点が共通している。あと10年早く生まれていれば、現役時代のこれらの列車に乗れたかもしれない、と残念に思う。だが、自分より後の世代は、自分が体験してきたものに対して同様の感情を抱くことだろう。結局どの世代にも、その時代の人間にしか共有できない独自の経験があるのだ。
野田川を出ると、加悦鉄道の廃線跡とおぼしき自転車道が左へ分かれ、宮津線のほうは坂を登って山越えにかかる。京丹後市に入り、しばらくは盆地を直進する。峰山から再び軽く山を越え、網野へ。
対向待ちでしばらく停車するので、ホームに降りてみる。ヨットを模したという白い駅舎が浮いて見える。ここに限らず、宮津線の駅はほとんどが建て替えや改修を受け、無人駅も含めて個性的な建物になっている。駅なんて乗り降りできればそれでいい、と言わんばかりの、至って素っ気ない造りだった宮福線の各駅とは好対照だ。おそらく、3セクへの転換に際し、イメージアップを図る狙いがあったのだろう。時はバブルの頃、補助金なども出て羽振りがよかったのかもしれない。
だが、天候のせいもあろうが、その多くはくすんで見える。立派な建物を造ったものの、どの程度の手入れがなされているのだろうか。ホームに目をやれば、駅名標に錆が浮いている。野田川のはもっとひどくて、本来白いはずの背景部分がほとんど茶色に変わり、よく見ないと文字も読めない有様だった。設置したきり、更新する余裕もないのだろうか。こういう対比を見ると、鉄道の本分とはいったい何なのか、と思えてならない。
もういちど山を越え、木津温泉を過ぎると、海に近い高台の雰囲気になる。ついに丹後半島の根元を突き抜けたのだ。文字通りカブトのような小山が脇に立つ甲山(こうやま)を過ぎると、前方に久美浜湾が見えてくる。ここは「湾」というよりは、砂浜の内側に形成された湖だ。
久美浜駅は京都府最後の駅。ゴールドメタリックな外装の特急「タンゴエクスプローラー」車両と行き違う。いや、今となっては「タンゴエクスプローラーだった」車両だ。大阪とKTR路線を直結していたこの特急も、この春からはJRへの直通をやめ、特急「たんごリレー」としてKTR内だけで走るようになった。タンゴ鉄道が今の形で発足した1990年、その看板列車として投じられた豪奢な車両だが、20年を経て故障が目立っていたとも聞く。車両の余命を考えると無理させられないというのも、乗り入れ取りやめの一因だろう。このあたりにも、タンゴ鉄道の苦しい台所事情がうかがえるとともに、高速道路無料化実験のさなかのこのタイミングには、鉄道派として敗北感も覚える。今回は途中下車できず、車窓の楽しみも薄いぶん、どうしてもそんなところに思いが向いてしまう。
これより峠を越えて兵庫県に入る。最後の停車駅である但馬三江を過ぎると、またも衝撃的な光景。築堤の足元が広大な池のようになり、車が斜めになって沈んでいる。乗っていた人はいなかったと信じたいが、ついふた月半ほど前の東日本大震災、その大津波の様を連想してしまう。
トンネルを抜け、最後に列車は円山川にさしかかる。この川も、2004年の台風23号上陸のときに洪水を起こし、豊岡市街を水浸しにした。その後治水工事が進み、タンゴ鉄道の鉄橋も架け替えられた。この種の工事は、橋脚を減らし、水の通りをよくする目的がある。その鉄橋を渡りきると、終点・豊岡が近い。これで、タンゴ鉄道の全区間を‘片付けた’ことになる。
豊岡には、定刻より5分遅れで到着した。JRホームと柵で仕切られた頭端式ホームの先に、改札口のプレハブ小屋がある。この豊岡駅も、JR側は橋上駅舎に建て替えられたのに対し、タンゴ鉄道についてはその脇から出入りする格好で、西舞鶴駅と同じく仲間外れの扱い。初見でタンゴ鉄道に乗ろうとすると、右往左往してしまいそうだ。
折り返しの列車までは30分以上あるが、外は肌寒く小雨もぱらつき、出歩く気にはなれない。JR駅や、連絡通路で結ばれた正面のショッピングセンターをうろつき、時間をつぶす。福知山、西舞鶴、そして豊岡と、いずれも駅は新しくなった。だが、最近の駅に概していえることだが、待合の少しの時間を気安く過ごせる空間がなくなった。駅そのものが単なる「通路」の一部になってしまったように感じる。
ホームに戻ると、2両が切り離され、先ほど後ろ(西舞鶴方)につながっていたKTR703だけが折り返し西舞鶴行きとなって出発を待っていた。同じタイプの車両なのに、KTR705と比べるとずいぶんひどい。車体の塗装は精彩を欠き、ひび割れて錆が出ている部分もある。車内に入るとほこりっぽく、破れたままになった座席がある。
結局天候は回復しないまま、もと来た道を引き返してゆくことになる。
今回は、ほとんど列車に乗り続けるばかりの行程になってしまったが、北近畿タンゴ鉄道という第三セクター路線に、苦戦する鉄道業界の縮図を見た気がする。国鉄分割民営化からまもなく四半世紀、その間に、国も企業も面倒を見きれない交通機関を地元で維持しようという、文字通り「第三」の試みがもたらしたもの−発足期の蓄えが尽き、当初の攻めの姿勢が虚しく、ある場合には足かせにさえなっているという皮肉。その中でも何とか切り詰め、存続を図ろうという努力とその限界。周りが水浸しになっていようとも走る鉄道のたくましさ、しかし手厚く保護するだけの余力がどこにもないという現実−。
宮津まではほとんど寝て過ごし、気づけばもう天橋立を出ていた。あわてて下車し、わずか1分の乗り換えで今日最後の福知山行きに乗り込む。
山を越え、大江付近では相変わらず由良川があふれており、あの水没した交差点では、やはり相変わらず信号機が点灯していた。
曇り空の暗さに夕刻の暗さが重なり、17時ちょうどに福知山到着。次にいつ機会が訪れるか分からないが、必ずやもっと天気の良い時に、もういちどタンゴ鉄道を巡りたい。
ちなみに、舞鶴若狭道を含む高速道路の無料化実験は、翌6月の19日をもって終了した。