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4.有終の美 |
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南小谷から松本行きの電車に乗り、大糸線の旅を続ける。これより塩尻までは、再びJR東日本のエリアとなる。
しばらくは引き続き、姫川の谷を見ながら進む。夏に見た覚えのある巨岩が、毛糸の帽子を被ったような姿になっている。暖かくなるとずり落ちてきそうだが、この谷底ではなかなかそこまで気温が上がらないのだろう。
やがて急勾配を駆け上がり、久々に視界が開けてくる。前方に白馬連山がそびえる、はずだが、やはりそこまでの見通しは利かず、手前の山々までがせいぜいだ。それでも、部分的に射す日差しがアクセントとなり、光る山々が目を引く。
白馬で小休止を挟み、しばらく連山の麓の盆地を進んでゆく。沿線はひたすら白く覆われているが、新潟の「水気の多い」雪と異なり、こちらは砂のような質感だ。木々に積もった雪が風で舞い上がり、煙のように立ち上っている。
神城を過ぎると山越えにかかり、いかにも冬山という風の森林地帯を抜けて、「仁科三湖」へと向かう。その最上流の青木湖のへりをしばらく進むと、ヤナバスキー場前駅に着く。その名の通り、スキー場利用者のための駅で、冬季限定の臨時駅なので先回は通過している。臨時の駅とはいっても簡素ながら待合室を備え、それなりに力が入っている。数人の客が下車していった。
空には晴れ間が広がり、澄んだ青空にくっきり浮かぶ稜線。やはり、晴れ空の下の雪景色こそが最高だ。
三湖の最下流にあたる木崎湖。白い湖畔のただ中に水面が広がり、照り出した日差しがキラキラと反射する。そんな湖の端を、電車は軽快に進んでゆく。
木崎湖が去ると、再び谷がひらけて、そびえる北アルプスの山々が姿を見せる。先ほどより空が晴れてきたぶん、見通しもよくなり、かなりの部分が見渡せる。さすがに山頂部にはガスがかかっているが、白く雪を被った様子が部分的に見て取れる。信濃大町を過ぎ、高瀬川を渡って爺ヶ岳を後にすると、これより松本へ向けて安曇野を南下してゆく道だ。
西側に連なるアルプスは、手前の山と遠くの峰が重なり合い、進むに従って刻々と形状を変えてゆく。野原から一気にそびえ立つ風だから、なおのこと迫力がある。沿線をまんべんなく覆っていた雪の層は次第に薄くなり、地肌が見えてきたかなと思うと、いつしか姿を消していた。このあたりが気候の境目なのだろう。
夢中になって写真を撮っていたが、困ったことに、デジタルカメラのメモリ残量が心許なくなってきた。今使っているカードは300枚分程度の容量があり、二日間の旅行で一杯になることはこれまでなかったのだが。この先は暗くなる一方で、撮影の機会は減ってゆくだろうが、残量を気にしながらの撮影となると、やはり気持ちがよくない。
それはともかく、昨8月と今回と、半年のうちに夏冬両方の北アルプスを堪能できたことは、実に有り難い。南小谷から南下ルートを選んだのは正解だったな、と思う。先端の尖った常念岳、先回は頂上部が雲の隙間から覗くだけだったが、今回は全容を現している。これをもって、大糸線沿線の主立った山々の締めくくりとなる。
篠ノ井線に合流して松本に到着。時刻は14時を過ぎたが昼食がまだだ。昨日から引き続き、食事が遅れがちになっている。列車の着いた大糸線ホームには立ち食いそばの店がある。ちょうどいいなと思ったが、別のホームを見ると、次に乗る中津川行きの電車が入ってくるところだった。その先2時間半近く乗り通すことになるので、その席とりを優先させなければならない。無事席を確保することに成功したが、こちらのホームにはそば店はなかった。そばのためだけわざわざ戻るのも億劫なので、売店でサンドイッチを買い、列車の出発を待つ間に食べた。こういうものぐささは、かなり疲れてきている証拠だ。
JR東日本のエリアに別れを告げ、塩尻から中央西線に入る。平地が尽き、一気に木曽谷の中へ。日陰には雪が残り、気候の厳しさが見て取れる。そんな谷間にもひしめく民家群。かつての主要街道・中山道沿いとして栄えた名残だろう。
奈良井で後続の特急に道を譲り、峠を越えて「太平洋側」へと移る。宮ノ越では対向の特急待ち。特急が1時間1本走る主要幹線にもかかわらず、山の中では単線区間も多いので、普通列車には犠牲が強いられる。
この先は下りの一途だ。西へ傾く太陽が正面側にまわり、すでに夕方の雰囲気となってきた。木曽福島では、なぜか私服の若者が大勢乗り込んできた。ローカル線で若者といえば、大抵は制服か体操服で、いかにも通学途中ですという姿をしている場合が多いので、失礼ながら違和感を覚えてしまう。
次の上松を過ぎると、木曽川の名勝「寝覚ノ床」が現れる。昔に一度訪れているが、そのときの旅行というのが、1997年12月31日から翌1月1日にかけて、今回の旅程をほぼ反対向きに辿ったものだった。結果的に今回は、12年前の旅を逆向きにトレースする格好となり、その中で変わったもの、変わっていないもの、変わりつつあるものを実感する道中であった。ちなみに、列車から「寝覚ノ床」が見えるのは一瞬で、よく注意していないと足下をすぐに通り過ぎてしまう。上松駅を出てから、もうじきか、そろそろかと待ちかまえていたが、あっけなく通過してしまった。
その先も、木曽川の深い谷が続く。峠を越えてからだいぶ下ってきた気がするが、ひとつカーブを過ぎると、また同じようなカーブが現れ、際限なく続いて行くような錯覚を覚える。ふと来た側を振り返ると、谷を取り巻く山々の背後に木曽駒ヶ岳がそびえていることに気づく。ただし、例によって頂上部は隠れている。これまで前ばかり向いていて、そちら側がお留守になっていたのが悔やまれる。
次第に外は暗くなり、線路際の雪が夕日に照らされる。一体どこまで続くかと思われた木曽谷にも、そろそろ果てが見えてきた。雪山に背を向け、列車は中津川に向けて速度を上げる。カメラのメモリ残量は10枚分を切った。だが幸か不幸か、この先もう、カメラの出番はほとんどないだろう。
中津川で次の名古屋行きに乗り換える頃には、日が沈み、沿線の雪も消えていた。これからは外も暗くなるから、見るべきものはない。名古屋までの1時間余は、ほとんど寝て過ごしていた。東海道本線と合流する金山で、今回の「ビッグループ」は一巡したことになる。
ただ困ったことに、途中恵那で特急の通過待ちをした際に出発が3分遅れ、そのまま名古屋まで来てしまった。次に乗る米原行きが定刻で3分の接続、これでは物理的に間に合うはずがない。案の定、こちらが到着してまもなく、隣の米原行きが発車していった。今回の旅行では、往路の米原での遅れを皮切りに、数分程度の微妙な遅れがついて回っている。列車の本数が少ない土地では、多少の遅れについては接続を図ってくれるが、都会では「すぐ次が来る」だけにそうした配慮は期待できない。緻密な計画が数分の乱れのために台無しになることがあり得るのだ。
次の米原行きまでは30分あり、この列車は金山始発なので、確実に座れるよう金山まで引き返すことにする。金山駅は名鉄駅をJR東海道線・JR中央線が挟むという特殊な構造で、そんなターミナル駅であるためか、右へ左へと人の往来が非常に激しい。ラッシュの時間帯とも重なり、油断していると押し流されてしまいそうだ。
入ってきた米原行きの快速は、117系の8両編成。京阪神や中京の「新快速」隆盛の礎を築いた名車も、東海ではその多くがラッシュ時だけのヘルプ要員に甘んじている。とはいえ、快速としてのこの列車に乗れるのは、貴重な機会である。
電車は次の名古屋で大勢の客を受け入れ、通路まで満員になった。117系は2ドア車で、客の少ない国鉄時代は良かったが、皮肉にも利用者が増えるにつれて乗降に不便をきたすようになり、新型車との性能差もあって、主力を担うのが難しくなった。それゆえ、ラッシュ時の片方向にしか使えないわけだ。
名古屋を出ると、さすがは快速らしく、モーターをうならせて力走をみせる。しかし、昔韋駄天ぶりで鳴らした新快速電車でも、新型車と比べるなら緩慢に感じられてしまう。実際、金山で11分差あった後続の新快速(停車駅は1駅少ないだけ)に、大垣では3分差にまで詰められてしまう。
列車は徐々に客を減らし、大垣からはかなり落ち着いてきた。線路際には再び雪が目につきだす。昨日の関ヶ原付近の積雪が、まだ残っているようだ。
この列車は米原まで。東海の117系は、昨日飯田線で乗った119系と同様、あと2,3年のうちに置き換えになると見られている。新世代に追いつかれまじと、モーターを回して力走したこの走りも恐らく最後かと思うと、立ち去るのが名残惜しい。
JR西日本エリアに戻り、この旅も先が見えてきた。223系の新快速は米原を出るやぐんぐんスピードを上げ、117系との世代差を見せつける。積雪は能登川あたりで消え、これで「雪見旅」は終わりとなる。
今回は「ファイナル」と名付けたとおり、自分の中でひとつの区切りとするつもりでやってきた旅行だった。学生の時から行ってきた鉄道乗り継ぎ旅。今後、このスタイルでの長距離旅行は、少なくとも当面は行わないつもりでいる。集大成という意味では今回、去りゆく列車や車両たちを見届けることができたし、思いがけず出会えた北アルプスの絶景は、まさに「有終の美」であったと思う。
大阪で福知山線の列車に乗り換え、当初予定から30分遅れで道場にたどり着いた。