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2.海と山と桜 |
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降り立った紀伊天満は何の変哲もない無人駅。ここから線路に沿って引き返す格好で歩いて行く。こういう道中には、ちょっとした風景の良い場所や、土地独特の文化を示すものなど、意外な発見があったりするのだが、特に何もないまま勝浦の市街地へ入って行く。
漁業と観光の拠点・那智勝浦らしく、その市街地にはそれなりの賑わいがある。駅から正面へ歩くと入り江の漁港に当たる。まぐろの直売などもしているので、買い付けに来る客もいるのだろう。もちろん私にはそんなものは買えないので眺めるだけだが、大阪から特急で3時間半ないし4時間を要するこの勝浦で、いかにも遠洋漁業をイメージさせる「まぐろ」の文字を見ると、別世界というか、ずいぶんはるかな場所へ来てしまったものだと感じてしまう。
紀伊勝浦の駅には、特急「南紀」が停車していた。ここへきて初めて、東海側の車両に遭遇したことになる。「南紀」はこの後折り返して名古屋へ向かう。東側から勝浦まで達するニーズがどの程度あるかは知らないが、列車の運用としては、勝浦は名古屋側から見た「南の果て」ということになる。亀山までの残りは200kmを切って195.1km。距離的にも折り返し点といえる。
そろそろ昼食を調達しておきたい。97年に紀勢線に乗ったとき、夜行で早朝に到着した新宮駅では、その利用者を見込んでか、すでに駅弁が売られていた。そのとき購入したのが「めはり寿し」で、今回も勝浦駅の売店で目に付いたので買っておく。と同時に、いかにも姉妹品という風に一緒に売られていた「さんま鮨」というのも気になったので、併せて買っておく。なぜか「すし」の表記が異なるが、魚を使っているか否かの違いだろうか。どちらかは夕食にしよう。
新宮行きの特急「スーパーくろしお9号」は、定刻より少し遅れて入ってきた。この特急には、終点までの1区間だけの乗車だ。だが、ここまで乗ってきた客は皆降りてしまい、私の乗り込んだ3号車には何と、誰もいない。1両貸し切り状態で、15分を過ごすことになる。
列車は、さきほど下車した紀伊天満をあっという間に通過し、次の那智を過ぎるとまた海岸沿いに出る。「くろしお」には、曲線の多い紀勢本線でスムーズに走れるよう、国鉄時代から振り子式の381系が使われてきた。「スーパーくろしお」は、先頭を展望車にするなどのリニューアルの施された車両だが、それでもくたびれ感は否めない。座席はギシギシきしみ、走り方もクネクネというよりは、ブヨンブヨンとした妙な揺れを伴っている。
新宮手前まで、特急は海沿いを進む。車内を独占し、車窓に広がる海原も独占できるのだから、こんな贅沢なことはない。昼食はこの車内で、とも考えていたが、短い時間で慌てて食するよりも、窓の外を眺めつづけるほうを優先させる。
新宮には3分遅れで到着した。さて、ここでの50分をどう過ごすか。地図で見ると、比較的近いところに新宮城跡とやらがある。どの程度の城かは分からないが、「城跡」といえば「高台に桜」が定番。とにかく行ってみよう。
駅から北へ数百メートル歩くと、市街を見下ろす小山に行き当たる。まさにイメージどおり、中腹から山頂にかけて、桜の木が連なっている。平日ではあるがそこそこの人出がある。花そのものは、満開から少し散り始めている感じだ。神戸や大阪あたりでは五分七分だったことを思えば、やはり南に来ているんだなと思う。
上り詰めると、裏側を幅の広い熊野川が流れている。その対岸はもう三重県だ。時間が限られているのですぐに下山したが、そんなに大きな公園ではないので、ざっと歩き回るくらいでちょうどよい規模だった。ようやく「花見旅」らしい風景に出会うことができた。
駅に戻り、列車の旅を再開する。ここから先はJR東海のエリアとなり、電化区間もここで終わる。乗り込むのは亀山行きのディーゼルカー。紀勢本線の残る180.2kmを、4時間以上かけて走り抜くロングラン列車だ。97年の旅行のさいには、当時運転されていた通称「紀州夜行」で新大阪から新宮に来て、そこから引き返す格好で紀勢線の西側を辿っていった。従って、これより亀山までの区間は未踏の路線ということになる。
駅を出た列車はすぐにトンネルに入る。さきほど訪れた新宮城跡の小山をくぐり、すぐに熊野川の鉄橋にさしかかる。河口に近い広々とした川幅だが、一気に渡って三重県に入る。今の県境はここだが、昔の「紀伊国」はまだしばらく続く。
周参見あたりからこれまで、ほぼ海岸沿いの曲がりくねった線路を辿ってきたが、三重県入りした途端に平坦な高台をまっすぐ走るようになる。JR世代の軽快気動車は、駅間を勢いよく突っ走る。線形の違いはあるが、電化されていても国鉄時代の車両がゆっくり走っていた西日本区間より、むしろスムーズに走っているのが皮肉だ。ディーゼル車が高性能化している今、電化は必ずしも近代化の必須条件ではないのかなとも思う。
この車内で、少し遅い昼食。紀伊勝浦で購入した「めはり寿し」を開く。箱にある説明書きによれば、この地方の農家の弁当として食されていた高菜のにぎりをモチーフにしているとのことで、素朴ながら、醤油をつけて食べるとなかなか味わい深い。もっとも、名称の「めはり」は、大きくて目を見張って食べていたことからきているらしいが、弁当の寿司はそこまで大きくない。さすがに大きさまで再現すると、駅弁として食べにくいからだろう。
熊野市で客が入れ替わり、これより一転、山がちな地勢となる。トンネルが連続し、しかもその一つ一つが長い。地図で見ると、熊野市から尾鷲にかけてはギザギザのリアス式海岸が続き、険しい山々が海岸近くまで張り出している。このため、線路は半島部をトンネルでショートカットし、入り江を直線的に結ぶように引かれているのだ。実際、この区間の工事はかなり難航したようで、戦後の1956〜58年にかけて、尾鷲〜熊野市間が開通し、ようやく紀勢本線の全通が成っている。
そのようなわけで眺望はなかなかひらけないが、トンネルの間にある入り江の風景が絶品。波田須(はだす)では高台から海岸を見下ろし、新鹿(あたしか)では特急待ちの間に車内からホーム脇の桜を眺める。海と花という取り合わせもなかなかのもので、こういう気の利いた桜の木の存在に、自分を含めた日本人の桜好きのほどを再認識する。
賀田(かた)、三里木、九鬼(くき)と、同様に入り江の浜辺の風景が続く。これらの駅では、客の出入りがそこそこある。普通列車の本数は多くはないが、地域の足として重宝されているのだろう。この地形だと、鉄道がなかった時代は船で行き来するしかなかっただろうから、鉄道開通はことのほか悲願であったに違いない。
尾鷲は似た地形だが、これまでより広い湾で、何かの養殖のいかだのようなものが浮かんでいる。その後しばらく内陸を進み、紀伊長島の手前で再び海沿いに出るが、今回の旅行で海を見るのはこれで最後となる。
夕暮れの雰囲気漂う紀伊長島で7分の小休止をはさみ、海を後にして山越えにかかる。紀伊と伊勢の国境に立ちはだかる荷阪峠。かなりの急勾配で、一気に山の中へ入って行くが、さすがは軽快気動車、ぐんぐんと登って行く。長いトンネルを抜けて山を越えるが、ここまで実に9時間以上かけて「紀伊国」を通ってきたことになる。線路際のキロポストの数字は、いつしか二桁になっている。
ここからは志摩半島の付け根を北上する格好となり、外はもう薄暗くなってきて、見るべきものはあまりない。しかし、大台ヶ原を源流とする宮川が沿ってきて、深い谷を削っている。宮川はその名の通り、伊勢神宮のある伊勢市に至る。列車はその谷の高台の部分を進んで行く。その谷が広がってくると、沿線に茶畑が目立ってきた。
和歌山からずっと、紀州鉄道以外には分かれる路線がなく、一本道で進んできた紀勢本線だが、多気で鳥羽・伊勢市方面からの参宮線が合流してくる。「してくる」というよりは、紀勢線が参宮線に合流して行くような形状となっている。それもそのはずで、参宮線は明治期にすでに開通しており、多気から尾鷲方面へは大正以降の建設。これから進む多気から亀山へ至る区間は、今でこそ「紀勢本線」を名乗っているが、もとは参宮線の一部だったのだ。
もう外はあまり見えない。松阪、津と多くの乗客を迎え、初めて立ち客が出る混雑となった。複線の線路を近鉄の電車が走って行く。単線をゆくディーゼルでは勝負にならない。この時間帯に2両で走らせている時点で、はなから勝負などしていないのだろう。
19時20分、すっかり暗くなった亀山に、列車は到着した。約11時間半、380.9kmに及ぶ紀勢本線の旅の完結である。
ここからは関西本線、草津線、東海道本線と、旧東海道に沿ったルートで帰路を急ぐことになる。JR西日本のキハ120を2両連ねた加茂行きは、次の関までは快調に進むが、そこからは山越えにかかる。相変わらず安っぽさの目立つキハ120、車内はなんとなく薄暗い。
柘植(つげ)からは草津線に乗り換える。新宮以来久々の、電気で動く車両だ。なぜかよく揺れるというイメージの強い同線だが、今夜の電車もよくバウンドする。ここで、紀伊勝浦で購入したもうひとつの駅弁。「さんま鮨」を開く。さんまのすしとは珍しいなと思って買ったのだが、意外とクセはない。ほどほどに脂がのって、結構気に入った。「めはり寿し」共々、シンプルだが「ご当地メニュー」を頂いたという満足感を得させる弁当だった。
草津からは新快速に乗る。芦屋まで1時間。そこから灘まで約10分。往路の灘から新大阪までは随分長く感じられたが、紀伊半島ののんびりペースに慣らされた身には、いともあっけない帰路だった。