2.駆け足名所めぐり

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 10年限りのバイパス線

  大畠 12:05 → 櫛ヶ浜 12:52 [普通 5341M/電・115系]

  徳山行きの普通電車で大畠を後にする。ここから山陽本線は再び向きを西に転じ、次の柳井港から海岸を離れる。次の柳井では9分の停車。今日二度目の、貨物列車の通過待ちだ。駅の時刻表を見ると、上り下り1つずつ赤い数字が入っている。寝台特急「富士・はやぶさ」が停まる、れっきとした特急停車駅なのだ。

  その後は単調な景色の中を進み、櫛ヶ浜(くしがはま)へ。ここがちょうど、今回の旅の「折り返し点」となる。

  櫛ヶ浜 12:55 → 西岩国 13:58 [普通 2234D/気・キハ40系]

  櫛ヶ浜は、駅自体は小さいが、ホームが3本ある。これから乗る岩徳線の列車は、駅舎から最も遠いホームより発着する。3分の接続だが、少し迷いながら移動していたら、かなり際どい乗り換えとなってしまった。黄色い気動車の1両で、席はほぼ埋まっている。これまで進んできた方向から引き返す格好で櫛ヶ浜を出て、すぐに山陽本線から分かれる。

  さてこの岩徳線、岩国〜櫛ヶ浜間の営業キロは43.7kmで、山陽本線経由(柳井まわり)の65.4kmより21.7kmも短い。山陽本線が海岸沿いを大きく迂回するのに対し、岩徳線は内陸側を直線的に結んでいるためだ。実に、この路線は本来、山陽本線のバイパス線として開業したものだ。全通は1934年。明治に開通した柳井経由の旧線を「柳井線」とし、内地ルートが新たに「山陽本線」とされた。

  ところが、その10年後には「柳井線」がメインルートに返り咲き、内地ルートは「岩徳線」としてローカル線に格下げされてしまう。これは、山陽本線を複線化するに際し、勾配やトンネルの多い内地ルートより、海岸ルートのほうがやりやすいと判断されたことや、柳井線のほうが柳井・光・下松といった主要都市を通っていたという事情によるらしい。

  こうした歴史的ないきさつから、岩徳線の駅のホームは無駄に長い。少なくとも7,8両くらいは停まれそうだ。今乗っている列車は1両単行、現在岩徳線を走るのは最大でも3,4両程度だから、使うのはそのごく一部にすぎず、端の方は朽ちかけているところが多いのだが、何かのきっかけでもない限りは、わざわざつぶされることもないだろう。

  そのような駅設備のオーバースペックぶりを除けば、この路線が「元山陽本線」であった証拠を見いだすのは難しい。全線にわたって非電化の単線で、新幹線の高架の下や、両側に迫るヤブの間をディーゼルカーがのろのろと進むこの線路が、かつての主要幹線だったとは信じがたい。もっとも、岩徳線が「山陽本線」と呼ばれた時代はわずか10年間、しかもそれから60年以上も経過していることを考えれば、やむないことだろう。

岩徳線の細々とした線路 

  岩徳線の沿線は、ごく普通の山村風景だ。山口県独特の黄色いガードレールが、まだらに稲刈りの済んだ田園地帯にあってよくマッチし、群生する彼岸花とも好対照をなしている。乗客はしだいに減少し、軽く山を越えて周防高森、玖珂(くが)といった比較的大きな駅へ。線路は間引かれて寂しいが、もともと拠点駅だったことが察せられる。

岩徳線の田園風景。山口名物「黄色いガードレール」が 

  欽明路(きんめいじ)を過ぎると、列車は長いトンネルに入る。全長3kmを超える欽明路トンネルで、この存在が山陽本線複線化の上でのネックとなり、岩徳線転落の一因になったという。とはいえこれも、もし戦中の逼迫した情勢でなかったならばどうだっただろう。旧山陽道である国道2号や、戦後にできた山陽新幹線・山陽自動車道は、岩徳線に近い経路を取っている。仮に内陸ルートがそのまま本線となっていれば、柳井ルートのほうこそ呉線同様の「風光明媚なサブ路線」的な扱いとなっていただろう。岩徳線は、つくづく時の運に恵まれなかったものだと思う。

  トンネルを抜ければ、あとは岩国へ向かって下ってゆく一途だ。第三セクターの錦川鉄道と合流して川西、そこから錦川を渡って西岩国へ。この西岩国も、岩徳線開業の当初、今の岩国駅を差し置いて「岩国」を名乗っていた。(その間、現岩国駅は「麻里布」と呼ばれた。)本線ルートが移ったことで、ここも市中心駅の座を剥奪されて今に至る。

  私はここで列車を降りる。ここのホームもむやみに長い。改札に近い部分以外は使われることもなかろうが、それでも一応はホームの体裁を保っている。駅舎は大きくはないものの、洋館のような上品な建築で、玄関部のアーチは、これから訪ねることにしている錦帯橋をモチーフにしているらしい。駅の規模や周囲の様子を見るに、市の玄関口を名乗るにはもともと手狭だったのではないかという気もするが、もしここが「岩国駅」のままであったなら、この駅舎もとうに建て替えられていたかもしれない。「格下げ」のおかげでかえって往時の姿がとどめられたとも言える。

「岩国駅」を名乗っていた時代もある西岩国駅 

長いホームは幹線時代の名残 

 錦帯橋を渡る

  この西岩国で下車したのは、錦川に架かる「錦帯橋」を見に行くためだ。幸い、良いタイミングで錦帯橋行きのバスがやってきた。「いちすけ号」と名付けられたこのバス、観光向けにレトロ調にされた車両だが、だれも乗っていない。不安に感じつつ乗り込んだが、5分ほどして唐突に道端で降ろされた。おいおいと思ったが、ここが終点らしい。バスは私一人を降ろして、そのまま発着所のような所へ入っていった。

  少し歩くと、目の前に錦帯橋が姿を現した。さきの路線バスの閑散ぶりと対照的に、周囲は観光客で賑わい、河原には出店も並ぶ。いまどき観光客のほとんどは、公共の交通機関など使わず、車や観光バスで乗り付けてくるものなのだと痛感する。

  それはさておき、この橋の偉容はすぐさま目を引く。錦川の清流の上を描く5連のアーチは均整がとれ、真っ青な空の下にあってくっきりと浮かぶ。対岸の山の上には、白壁の岩国城が橋を見下ろすかのように立っている。橋そのものも秀逸な建造物であることに違いないが、この周囲との調和こそが絶妙で、快晴に日にここに来れたのは誠に感謝すべきことだ。

  この錦帯橋は、1673年、岩国藩の3代藩主・吉川広嘉の代にできたといい、翌年の架け替え以後1950年に台風で流失するまで一度も流されることがなかったという。今は穏やかに流れる錦川だが、ひとたび暴れ出すと、この姿からは想像もつかない猛威を振るうのだろう。(事実、近年では2005年に、洪水で橋脚の一部が損壊したと聞いた。)ゆえにこそ、流されないようにとの知恵を絞り、結果この傑作が誕生したわけだ。

  木造ゆえ、流失しなくとも個々のパーツは古くなれば入れ替えられ、部分的な補修も繰り返されてきただろうけれど、それでも基本的な姿を変えることなく、300年余を経てきたというのが、新陳代謝と修復を繰り返す人体のようで、人工の建造物らしからぬ「生命」のようなものを感じさせる。かたちを変えられなかったということは、工学的にも完璧に近かったということだが、この橋の魅力は、理屈だけで説明づけられるものではないだろう。

青空に映える錦帯橋 

  橋をひととおり眺めたところで、実際に渡ってみることにする。300円の料金を払って、実際にアーチの上に立つと、まるで時代劇のセットの上にでもいるかのような不思議な気分になる。見下ろすと、川の水面に、半円形の橋桁のてっぺんに立つ自分の影が映っている。はたから見るとこんな風に見えるのか、と思う。

こんな感じ 

  上がって下がってを繰り返し、対岸へ。この先には、もと岩国藩の武家屋敷があったという吉香公園がある。岩国藩吉川氏は、「毛利の両川」として名をはせた吉川元春の子広家を祖とし、関ヶ原の敗戦で中国一の大大名から周防・長門二国に減封された毛利氏長州藩の支藩だった。ただし広家が関ヶ原で東軍に内応したことから、家中での評価は低く、そのため正式な藩として認めてもらえなかったという。その微妙な立場ゆえに、岩国城も、築城からわずか7年で取り壊しの憂き目に遭っている。現在山の上に建っている天守閣は、戦後に復元されたものだ。

  このような、いささか気の毒な歴史を辿ってきた岩国藩だが、その遺産である錦帯橋は、今も大勢の見物人を集めている。河原には彼岸花。鮮やかながら命わずかなその花と、人の人生の何倍も存続してきた橋との対比。

咲き誇る彼岸花と 

 宮島タッチ

  時間があれば、公園から岩国城へと、もっと観光したいものだが、せっかくなのでこのさい、安芸の宮島にも立ち寄っておきたいので、錦帯橋観光はこのあたりで切り上げる。岩国までバスで移動しても良いが、さきに通ってきた岩徳線の川西駅に、「錦帯橋まで徒歩20分」という看板があったので、その言葉を信じて川西まで歩くことにする。

  そうはいっても、駅までの道順を正しく把握しているわけではない。しかも、時間にさほど余裕はない。次の15時20分発を逃せば、その後は1時間以上あいてしまう。そうなれば宮島どころではない。なんとかなるさと思ってその方向へ歩いたが、駅を案内するようなものは何もない。駅にはあんな看板を設置してあったが、あれはあくまで距離的な目安で、実際に歩いて川西駅と錦帯橋の間を移動する物好きなど、そうそういるまいと高をくくっているのだろう。

  それでも我ながら大したもので、川西駅には迷わずたどり着いた。ただし、時間的にはかなりぎりぎりで、どこかひとつでも道を間違えばアウトだっただろう。長い階段を駆け上がり、ほぼ同時に入ってきた岩国行きの単行ディーゼルカーに乗り込んだ。

  川西 15:20 → 岩国 15:35 [普通 2236D/気・キハ40系]

  そうやって急いで乗った列車だが、次の西岩国で対向列車待ちの7分停車。どうせ停まるんだったら川西での出発を7分遅らせてくれていたら、などと身勝手なことを思う。ホームはひたすら長いが、1両の列車同士の行き違いだった。向こうから来たのは、多分私が先に櫛ヶ浜から西岩国まで乗ってきたのが折り返してきた車両だろう。

  岩国 15:39 → 宮島口 15:54 [快速「シティライナー」 5366M/電・115系]

  岩国から山陽本線に復帰し、快速でひと区間。宮島口の改札を出ると、宮島航路の発着場は真正面に見える。その先に厳島が堂々と横たわり、厳島神社の朱塗りの大鳥居は、この港からもすでによく目立つ。

全国唯一のJR連絡船、宮島航路 

  この時間からでも、宮島へ渡ろうという観光客は非常に多い。宮島口から宮島への航路は、JRと「松大汽船」の2社が別々に運行しているが、JRの乗り放題きっぷを持っている私は、当然JRのほうを利用する。ただ、ここでは全く切符の提示を求められない。不思議に思いつつそのまま列に並ぶ。

  船の運航時間は10分で、間隔は15分。つまり、到着した船はたった5分で折り返すこととなる。そのあたりは手慣れたもので、入ってきた船は手際よくつながれ、乗ってきた客を降ろすとすぐにこちらの客を受け入れる。人の波にせき立てられて船内の階段を上がり、通路に立ち止まった頃には、船は早くも離岸しようとしていた。

 宮島口(港) 16:10 → 宮島(港) 16:20 [宮島航路 41便]

  宮島航路は、JRの運営する航路として唯一残存するものである。従って、扱い上はJR路線であり、「青春18きっぷ」や今回の乗り放題きっぷのような切符でも乗船できる。(宮島口〜宮島間には、営業キロ1.0kmが設定されている。しかし実際には、明らかに数キロあるだろう。)船体にもしっかりと、JR西日本の青いロゴが描かれている。

  船は宮島口の桟橋を離れると、そのまままっすぐ、大鳥居の方向を目指して進む。西の海は、傾きつつある日の光にまぶしく輝く。宮島桟橋は厳島神社より東に位置するが、宮島行きの船は日中、大鳥居の近くを経由することになっている。観光客向けのサービスだろうが、この16時10分の便がちょうどその最終となる。

  やがてその大鳥居が目の前に近づく。デッキに立つ人のほとんどがそちらに注意を向け、歓声があがる。鳥居の向こうの、海に面する神社に観光客が居並ぶ姿も見える。船はそこから左へと旋回し、まもなく宮島の桟橋につけられる。船を降りると、その先の改札のようなところで切符をあらためられる。考えてみれば、船に乗ってから降りるまで出入りのしようがないから、検札はこの1カ所で十分というわけだ。

宮島の船乗り場も神社風の建物 

  港から厳島神社にかけては、旅館や土産物屋などが建ち並び、人の往来が盛んだ。私は寺社仏閣に関心が無く、今回は時間もないので、とりあえずそのあたりを少し歩き、海を眺めて港に戻る。

  ちなみに、厳島には鹿がいて、観光客の中に紛れ込んで歩いている。ただし奈良の鹿のような「公認」の存在ではなく、あくまで山の鹿が勝手に下りてきているという扱いらしく、餌をやるなという趣旨の看板が立っている。そうはいっても、観光客はせがまれたら何かやるだろうし、土産物屋の人が煩わしそうに追っ払っていたから、地元にとっては迷惑なばかりの存在かもしれない。

宮島は、桟橋から厳島神社にかけてのエリアが賑わう 

宮島側から、宮島口方面を望む 

 宮島(港) 16:55 → 宮島口(港) 17:05 [宮島航路 44便]

  わずか30分程度の宮島滞在を終え、再びJRの連絡船に乗り込んで島を後にする。私の旅の中で、船に乗る機会は少ないが、こういうのもなかなか悪くない。松大汽船の船と並走し、ほぼ同時に宮島口の桟橋に着く。ちなみに、松大汽船は広島電鉄の系列だとのことだから、海の上にも「JR対私鉄」の構図があることになる。

松大汽船の船と並んで本土方面を目指す 

  宮島口 17:15 → 瀬野 18:03 [普通 1660M/電・103系]

  まだ空に明るさは残るが、この先はもう、東へと乗り継いで姫路を目指すのみとなる。やってきた瀬野ゆきの普通は、緑色の103系。瀬野より先は、この9分後に来る糸崎行きの快速に乗り換えることになるが、この電車に空席があるので、体力を温存すべくあえてこちらに乗る。秋の日は・・と言うとおり、外は見る見る暗くなる。広島を過ぎ、終点の瀬野に着く頃には、ほぼ闇に包まれた。

  瀬野 18:06 → 糸崎 19:04 [普通 5372M/電・115系]

  3分の接続で、続いてやってきた快速に乗り換える。ただしこの先は、終点糸崎まで各駅停車となる。西高屋で大勢下車したので座席を確保。もう外は見えないが、このあたりが広島都市圏の東限なのだろう。

  糸崎 19:06 → 福山 19:33 [普通 1766M/電・115系]

  糸崎からは、赤穂線日生(ひなせ)行きの普通電車にすぐの接続。この糸崎を境に、車両が「広島仕様」から「岡山仕様」に変わる。同じ115系だが、岡山エリアの車両は先頭部の行き先表示器がLEDに替えられているのに対し、広島エリアではそもそも先頭の表示器を使用していない。ほかから転属してきた車両でも、白地の幕を出して走っているから、これが広島の方針なのだろう。車両の塗装も、広島地区は独特である。JR西日本管内にあって、広島はある意味独立勢力になっていると見受けられる。

  福山 19:51 → 岡山 20:40 [快速「サンライナー」 3758M/電・117系]

  電話の用があったので福山で一旦下車し、この駅始発の快速「サンライナー」に乗り換える。福山の在来線ホームは新幹線駅の下に入る格好となっており、そのため必要以上に長く、また薄暗い。19時台にもかかわらず、行き交う人もそう多くなく、どことなく薄気味悪い雰囲気がする。

  「サンライナー」は、もともと京阪神の新快速用だった117系での運転。車内のプレートには「昭和55年製」とある。岡山に活躍の場を移した元エースも、もうじき30年選手か。客は少なく、出入りも少ない。ただし、倉敷あたりまでくると、反対方向の列車の客はかなり多い。

  「サンライナー」は岡山止まりだが、ホーム向かいには、さきに福山で下車した日生行きが待ちかまえ、こちらからの接続をとって発車していった。私が今日最後に乗ることになる姫路行きには、30分ほどあるので、発着する様々な列車を見て回る。山陰や四国向けの特急、また高松行きの快速「マリンライナー」などが発着する分、広島と比べてにぎやかな印象を受ける。

岡山にて。短編成化された115系とマリンライナー 

  岡山 21:11 → 姫路 22:36 [普通 1336M/電・113系]

  最後の姫路行きは、よく見ると115系ではなく113系だった。モノ自体はほとんど変わりなく、素人目にはまず違いの分からないものだが、113系ならばもともと近畿圏で使われていたものだから、親近感がわく。席についてしばらくして、気が付くと県境の三石だった。その後もうとうとするうちに寒くなってきた。

  姫路を一番電車で出発し、最終一つ前の電車で姫路に帰ってきた。乗り放題切符をじゅうぶん活用した今回の旅行は、22時36分の姫路到着をもって終了。姫路駅名物の駅そば屋は、ホームでまだ営業中だった。

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