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4.新幹線と山越えディーゼル |
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2006年8月1日 出水→新八代→熊本→阿蘇→大分→別府 |
8月1日。祖母の家を後にし、再び列車の旅で九州を北上してゆくことになる。今日は豊肥本線をたどり、阿蘇山を観光して、大分の別府に宿泊することにしている。そして翌日は湯布院へ。九州観光の王道ルートとも言えそうだが、そこはワタクシ、予定には鉄道趣味もふんだんに織り込んでいる。
かつて、出水を発つときに乗る列車といえば、博多行きの特急というのが恒例だった。その名は「有明」から「つばめ」に変わり、車両も移り変わっていった。鹿児島本線は九州の「背骨」なので、特急には常に最新鋭の車両が導入されてきた。そして今回は、ついにそれが新幹線に代わった。古びたコンクリートの旧駅舎(今では閉鎖され、一部を弁当屋が使用している)の背後に、ガラス張りの新幹線駅。屋根は出水に飛来する鶴の翼をイメージした、三角形を組み合わせたデザインとなっている。何もかも変わってしまったものだ、と思う。
来るときは肥薩おれんじ鉄道に乗ってきたので、新幹線の「つばめ」利用はこれが初めてだ。「つばめ38号」自体は新八代行きだが、ここでも通例で「博多行き」と案内される。丸みを帯びた「800系」の白基調の車体が、出水駅のホームに入ってくる。
現在「リレーつばめ」に使われる先代の「つばめ」が黒基調で、文字通りツバメのイメージだったのと比べると、こちらはむしろ「かもめ」に近い。車内は、座席背面に木を使うなど、全体に「和」を意識したと思われ、これも「リレーつばめ」のシックな内装とは一線を画している。こうして列車毎にコンセプトが非常にはっきりしているのが、九州車両の特徴だ。
腰を据えるか据えないかといううちに、駅を出た列車は機敏に加速してゆく。天気は今日も良く、高架の高い視点からは平野の向こうの海と、そのまた向こうに横たわる島が見渡せる。この島は長島といい、祖父母に何度も連れて行ってもらった場所である。出水平野が尽きると、在来線は風光明媚な海岸線に出て、鹿児島県に別れを告げていたのだが、新幹線はすぐにトンネルに入ってしまうから味気ない。それだけに、トンネルの間から一瞬見える海を見逃すまいと目をこらす。
たった7分で次の新水俣に着き、あと10分少しもすれば新八代だ。ここからはもう、山の中をトンネルで突っ切るだけのつまらない区間となる。在来線時代、博多から八代までは平野部中心で、特急も高速で走れていたが、八代以南は山がちな地勢のため海岸沿いのカーブが多く、ほとんどが単線で、スピードの出しにくい区間だった。近年ではだいぶ改善されていたが、昔は八代から出水までに1時間以上を要しており、ここまで来てからが長い、という印象だった。そんな区間を、今ではものの20分ほどで走り抜いてしまうのだ。これだけの短縮効果が見込まれたからこそ、新幹線の新八代以南先行開業が急がれたわけだ。もっとも、遠い方を先に造っておけば、手前(博多〜新八代間)も確実に造ってもらえるだろうという思惑もあったとかなんとか・・
そんなわけで、九州新幹線の味をもっと堪能したいところだが、慌ただしく終点を迎えることになる。3日前に通った「初代・鹿児島本線」である肥薩線を球磨川と共に一気にまたぐと、八代市街地の東側に回り込んで、新八代駅に到着する。ここではJR初の試みとして、新幹線と在来線の特急が同じホームで接続している。特急「リレーつばめ」が、新幹線ホームにお邪魔してくる格好だ。着いたホームの向かいに、既に次の列車が待っているから実に分かりやすい。これは新幹線全通までの暫定的な措置だが、ほかにもこういう接続ができるようになれば、新幹線の利便性はさらに高められるかもしれない。
新幹線と対面接続する在来線の「リレーつばめ」。左の線路は将来博多、大阪方面へ
私は向かいにいる博多行きの「リレーつばめ38号」には乗り込まない。その出発を見届け、本来の在来線側に設けられたホームに向かう。ここは乗り換え前提の駅だから、造りは実にそっけない。「リレーつばめ」以外の列車は、高架の下にあるそのホームに発着するが、それぞれ改札口が別で、乗り換えには一旦外に出なければならない。新幹線や「リレーつばめ」で新八代まで乗ってきて、それから1区間だけ普通に乗って八代へ・・といった使われ方は、あまり想定されていなさそうだ。それでなくとも、新幹線に中心地を外されてしまった八代市民には、不満の残る構造かもしれない。
ここから、今日の「青春18きっぷ」が効力を発する。熊本行きの普通電車は八代平野を快調に進む。沿線では、九州新幹線の高架がぼちぼちと姿を見せている。全通までにはあと4,5年かかるが、これが完成すると、(ダイヤにもよるが)新神戸から1度の乗り換えもなしに出水まで行けるようになるだろう。その「架け橋」となる部分の工事を目の当たりにしているというのが、感慨深い。
熊本駅の西側には、かつてブルートレインなどが留め置かれていた車両基地があったが、跡形もなくなり、平らにならされた敷地の中で工事が行われている。ここに新幹線の駅ができるのだろう。
さて、ここから豊肥本線に入って行くが、乗るのは「あそ1962」という新しい観光列車だ。新しいといっても車両そのものは相当古い。2両編成のうち、1両はその名が示すとおり1962年製の古参で、もう1両は65年製。昨日車で追いかけまわしたキハ58系と同型だが、車体はチョコレート色に塗られて金の帯をまとい、内装はレトロ調に改装されている。これまたJR九州お得意の大胆なリニューアルだ。この列車は宮地行きだが、私は阿蘇まで乗ることにしている。
昨年まで、同じ区間を、「SLあそBOY号」が走っていた。肥薩線矢岳に保存されていた58654号蒸気機関車を再整備し、観光列車として走らせていたのだが、さすがに急勾配を有する区間での激務がこたえたか、故障が相次ぐようになって、2005年で引退となった。それに代わる列車として、今年登場したのがこの「あそ1962」だ。58系そのものが絶滅に近づいている中、もう一働きできる場が与えられたことは喜ばしい一方で、旅先でよく出会っていた車両が、今やSLに準じる懐古趣味の対象になってしまったのかと、複雑な気もする。
私自身、その存在を知ったのは7月に入ってからだったので、果たしてどの程度知れ渡っているものかと思っていたが、平日にもかかわらず意外と賑わっている。車内は「昭和30年代のイメージ」らしいが、多分本当の30年代に近いのは、キハ58系オリジナルの薄暗く野暮ったい内装のほうだろう。(その時代に生きてはいないので、確たる事は言えないが。)もちろんあくまでも「イメージ」の話だから、これはこれで悪くはない。
熊本駅を出た「あそ1962」は、豊肥本線へと入る。熊本と大分を結び、「本線」と名乗る主要路線ではあるが、その入り口は脇道に入って行くような心許ない線路だ。ただし、市街の端をかすめる鹿児島本線より、豊肥本線の方が「熊本の近郊路線」の雰囲気が強い。今では肥後大津まで電化され、その名も「平成」という駅を含め、比較的近年にできた駅が多い。
豊肥本線にキハ58系というと、かつて運転されていた急行「火の山」を彷彿させる。乗った時は中学生だったか、ローカル風情の濃い列車で、それがむしろ新鮮だった。1992年に四国から渡ってきた特急車両に置き換えられ、その系譜が現在の「九州横断特急」に及んでいるが、ある意味で「あそ1962」は「火の山」のリバイバルといえるかもしれない。確かに、足下からゴロゴロという振動を伝えながら淡々と進む乗り心地は、その時代を思い起こさせる。
しだいに郊外へ移る。光の森はこの春開業したばかりの駅で、特急「有明」の折り返し点となった。北側の閑散とした造成地に郊外型大店舗だけが威容を誇る。博多からの特急の終点としては寂しい風景だが、発展はこれからなのだろう。
この先はいよいよ市街を抜け、豊後街道の杉並木を見ながら進む。ここも「火の山」で通過したことが記憶に残っている。肥後大津で電化区間が終わり、ここからは昔ながらの、ディーゼルオンリーの豊肥本線の旅となる。阿蘇の外輪にさしかかり、車の進みかたは至ってゆっくりになる。坂に面したときのこの非力さも58系らしい。
外輪山が立ちはだかる立野。ここで20分の停車時間がある。ここはいわゆるスイッチバック駅で、豊肥本線はここから一旦熊本方へ引き返す格好で高度を稼ぎ、再び向きを変えて阿蘇山の北側を目指す。一方この先、旧国鉄高森線から転換された南阿蘇鉄道が直進し、阿蘇山の南側に回り込んで高森に至る。
実はこの高森線は、延岡から高千穂に至る高千穂線とつないで、熊本と宮崎県延岡を結ぶ路線の一部となる予定だった。だが、工事中のトンネルが水脈を切って異常出水を起こすトラブルがあり、国鉄末期の財政難も重なって、高森〜高千穂間を残して工事は中止。どんづまり路線となった高森、高千穂両線は国鉄から切り離されて第三セクター化され、この計画は夢と消えた。それぞれ観光色を打ち出すなどして生き残りを図ったものの、高千穂鉄道は2005年の水害で大打撃を受けて休止(注1)。南阿蘇鉄道は、夢破れた九州横断鉄道プロジェクトの忘れ形見ともいえる。その南阿蘇鉄道のホームでは、両側を小さい機関車に挟まれたトロッコ列車「ゆうすげ号」が発車を待っていた。
さて、この停車時間の間に、立野駅の先にある「立野橋梁」に案内してくれるというので付いてゆく。南阿蘇鉄道の線路に沿って炎天下を数百メートル歩き、見えてきたのは、深い谷をまっすぐに渡る褐色の鉄橋。木々に囲まれ、その谷の底は見えない。
立野橋梁は、やぐらのように組まれた鉄骨の上に橋桁が乗った「トレッスル橋」と呼ばれるもの。山陰本線の余部鉄橋と同じタイプで、長さ約139m(注2)。さすがにスケールでは余部に及ばないが、V字の谷が間近に迫るぶん迫力がある。
まもなく、近くで踏切が鳴り出した。来る列車はといえば、先に停まっていた「ゆうすげ号」しか考えられない。果たして、2両の機関車に挟まれたトロッコ列車が、ゆっくりと鉄橋にさしかかる。これは良い画だ。やはり鉄橋はただの建造物としてではなく、列車とセットであってこそ、風景として完成される。ギャラリーに注目されて、乗っている側も爽快だろう。
トロッコ列車は前方のカルデラへと去り、自分たちは立野駅に戻って、「あそ1962」の旅を再開する。逆方向に発進した列車は坂を駆け上がり、熊本方から来た線路が下方へと離れてゆく。そして再び前進。せっかくなので運転室の後ろに立ち、この急勾配に挑む様をじっくりと見てやろう。約1年前に同じ道を辿ったとき、乗ったのはJR世代のキハ200だったが、その性能をもってしてもこの坂には苦戦していた。このキハ58系はといえば、もともと急行用とはいえ、エンジンは旧式で馬力がない。外輪山の裾に張り付くようにして、のろのろと進んでゆく。速度計を見ると、時速25kmほどしか出ていない。半世紀近くを経てきた車両には、さぞかしきついだろう。
スイッチバックで一旦高度を稼いでいるが、谷間との高度差が次第に縮まり、ようやく阿蘇北側のカルデラに登り詰める。立野から次の赤水まで、7.9kmに18分を要した。もっとも、この区間は普通の車両でも15-17分ほどかかるので、あそ1962が極端に遅いというわけではない。ここからは一転、かせが取れたかのように、列車は右手に阿蘇山、左には連なる外輪山を見ながら小気味よく進んでゆく。
列車は宮地行きだが、乗客の大半は阿蘇山の玄関口、阿蘇駅で下車する。私もここで「あそ1962」の旅を終え、バスで阿蘇山へと向かうことにしている。