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2001年2月12日 道場→木津→大阪→京都→柘植→奈良→北新地→道場 |
2001年、建国記念日の振替休日。今回は福知山線(JR宝塚線)の道場から出発する。トップ走者としてやってきたのは103系の普通列車。宝塚まではトンネルが連続する区間で、旧式電車のモーター音が騒々しい。
宝塚で一旦改札を出て、今回の旅で使用するJスルーカードを買う。道場駅は無人駅でこういったものの購入ができないので、宝塚までは普通に切符を買って乗車した。Jスルーは一種のプリペイドカードだが、従来のオレンジカードと違うのは、そのまま自動改札機に通して使える点だ。下車時に残高が引かれ、残高がなくなるまで使える。(不足する場合は下車駅で精算する。)早速宝塚駅の自動改札機に通してみる。無事通過。裏面には乗車日時と乗車駅が印字される。(注1)
さて今回の旅行だが、大阪近郊区間に設定された運賃計算の特例を使用した大回り乗車に挑戦する。このエリア内では、同じ駅や経路を二度通らない限り、運賃の計算は実際の乗車経路にかかわらず最も安くなる経路で計算することになっている。それで、経路が重ならないように一筆書きの要領で行程を組めば、どんなに距離が長くても最短距離の運賃で済んでしまう。制度の抜け穴のような使い方だが規則上は問題ない。もっとも、途中で改札を出ることはできないし、有効なのは乗車当日限りなので実用的な意味はなく、あくまで列車に長く乗っていたい酔狂な人間のための裏技である。
この大阪近郊区間だが、1997年にJR東西線が開通したことで、ルートの選択肢が広がった。また1998年に湖西線や関西本線の柘植以西、加古川線などが加わってエリアが大幅に広がった。その気になれば百円台の切符で何百キロと乗ることもできる。
今回Jスルーカードを使用するのは、ひとつには不測の事態に備えるためだ。最初から降りる駅を定めて切符を買ってしまうと、予期せぬ事態でコースを変更したり改札を出たりする必要が生じた場合に面倒なことになる。Jスルーだとその場の判断で大回りを打ち切ることも可能だ。もうひとつは消極的な理由だが、不正乗車を疑われるのを極力避けるため。規則を破ってはいないとはいえ、車内検札などで突っ込まれたときに説明するのは大変だし、理解のある相手とも限らない。そういうプレッシャーを覚えながらではせっかくの旅行も楽しめない。Jスルーならそもそも行き先が分からないので、怪しまれることもないだろう。
外はようやく薄明るくなってきた。次に乗るのは木津行きの快速。宝塚線からJR東西線、片町線(学研都市線)を経由する。福知山線も片町線も、国鉄時代は関西近郊と思えない旧態依然とした汽車路線だったが、JR化後の進展はめざましい。この2つが東西線を通して結びついたことで、それまでには考えられなかった新しい交通の流れを作り出した。
207系は通勤電車だが車内は広く感じられ、走りも快適だ。さきの103系とは隔世の感がある。そんなことを思っていた矢先、道場から乗った普通列車を川西池田で抜く。
「快速」ではあるがダイヤ上の制約かスピードは出さず、スローペースで尼崎へ。しばらく停車し、JR神戸線の快速および普通と接続する。ここからJR東西線に入る。神崎川を渡ると地下に入り、すぐに加島へ。まるで地下鉄の駅だが、壁には波の模様が描かれている。景色は見えないがかなりの下り勾配にかかっているのが判る。それだけ地下鉄などがたくさん走る大阪中心部では深い場所をくぐらねばならないのだろう。
次の御幣島(みてじま)では舟、海老江では藤の花、新福島では松など、それぞれの駅の壁に描かれているのはその場所のシンボルなのだろう。大阪梅田に近い北新地は稲穂、大阪天満宮は梅の花、大阪城北詰はひょうたん。地下区間の終わりが近づき、今度は急な登り勾配にさしかかる。
地上に上がって京橋。大阪環状線との接続駅で、ここから学研都市線に入る。「ほうしゅつ」と書いて「はなてん」と読む放出では、ホームの新設が行われている。計画の進む大阪外環状線の受け入れのためだろうか。新大阪方面から放出を経て関西本線(大和路線)方面を結ぶこの新線が開通すれば、大回り乗車の経路もまた少し変わってきそうだ。
しばらくは高架路線を進む。このあたりの雰囲気はなんとなく私鉄的だ。住道から地上に下り、路線は北側に針路を取る。学研都市線は生駒山地を北側に迂回するようなコースを取っている。しだいに郊外へ移る。
京都府に移り、松井山手で7両編成のうちの後部3両が切り離される。そして線路も単線に。ここまでの大阪近郊路線の風情から一気にローカル然とした雰囲気になり、落差が激しい。ここからは向きを南側に転じる。やがて左側に近鉄京都線が沿ってくる。複線のりっぱな線路で、こちらとは比べるべくもない。祝園(ほうその)駅はそんな近鉄の駅と通路で連結されており、それまでにいた乗客のほとんどが下車した。
関西本線、奈良線と接続する木津。宝塚から街あり地下あり田舎あり、一時間半以上に及ぶ旅だった。奈良に近い(木津駅はぎりぎり京都府だが)この場所まで1本の電車で来られたというのが感慨深い。乗ってきた電車はそのまま、宝塚行きの快速となって折り返してゆく。
ここからは大和路線を経由して大阪を目指す。奈良への2区間は再び103系の普通。このデジタルとアナログの混在が、JR西日本の「らしさ」だ。
奈良からは221系区間快速。奈良盆地から大和川の渓谷、そして東大阪の街並みへ。
この列車はJR難波へ行ってしまうので、新今宮で大阪環状線(時計回りにまわる外回り線)に乗り換える。またも103系のごつごつした走り。宝塚からの「大回り」は一旦大阪で打ち切ることになる。環状線の西側はJR東西線をまたいではいるが接続駅がないので、重複にはならない。(東側は京橋で接続しているので、内回り線ではダメ。)大阪駅の自動改札にJスルーカードを通すと、そのまま出てきて裏には降車駅と残高「¥680」の印字が。宝塚から大阪までまっすぐ行けば25.5kmのところを、大きく迂回して130.6km。運賃320円で2,210円分の距離を乗ったことになる。
大阪で一旦改札を出て仕切り直し、ここから大回りの第二弾となる。この時間に大阪に来たのには訳がある。この春をもって廃止になる特急「白鳥」に会うためだ。(注2)
大阪から青森までを走り抜く「白鳥」は大阪を10時12分に出て、青森到着は22時59分。約1,040kmに及ぶ旅路である。鉄道で3時間を超える距離だと飛行機のシェアが優勢になるといわれるこの時代に、24時間の半分以上をかけて走る列車が存在していたこと自体がものすごいことだ。本州の北の果てへ向かうというドラマ性も含めて、ファン的にはロマンあふれる列車だが、日本海沿岸を縦走するからには途中ダイヤが乱れる可能性も高く、そうなると影響も広範に及ぶわけだから、運行の現場としては厄介な存在だったのではないか。
一ヶ月あまり前に北海道旅行の復路の途上、秋田で「白鳥」に会っている。時刻は夜の20時を過ぎ、ヘッドマークは雪に覆われてその行路の厳しさを物語っていた。その光景がまだ記憶に新しい中での今回。あの列車を大阪まで巻き戻すような感覚だ。
北陸方面への特急列車の出発ホームとなる11番ホーム。その向かいの10番ホームとあわせて、既にカメラを構えた人たちがわんさと待機している。「白鳥」の前には、リニューアル485系による「スーパー雷鳥11号」、そして臨時の「雷鳥83号」が11番線から出発する。「雷鳥83号」は、かつて碓氷峠を越えた特急「白山」に使われていた489系が、当時の塗色のまま登場。鳥取方面から来た特急「スーパーはくと」と対面する。活躍の場も時代も大きく違うが、白とブルーとピンクという似たような配色を使っているのが面白い。
次に11番線に入ってくるのが10:12発の「白鳥」。ただし電光掲示板によると、その次になぜか定刻9:19発の新大阪行き寝台特急「なは」が入ることになっている。こちらも西鹿児島からはるばる900km以上やってくるわけだが、1時間ほど遅れているということだ。もし「白鳥」が同じように1時間以上遅れれば、青森到着時には日付が替わってしまうことになる。
やがて主役の「白鳥」が入ってきた。国鉄特急カラーのボンネット形先頭車に、白鳥の絵柄があしらわれたヘッドマークをつけている。ホームの大勢が一斉にカメラを向ける。10番ホームにも身を乗り出して撮影する人々の群れが。3月2日の廃止日ともなれば、一体どんなことになるのだろうか。
側面に移って列車を一望する。「白鳥」は堂々9両編成。方向幕の「青森 FOR AOMORI」の文字に、さあこれから長旅に出るぞという意気込みが伝わってくるかのようだ。波打つ車体に年季を感じるが、日本海の多少の嵐にはびくともしない頑丈さもある。もともと北日本から九州まで、各地を転戦していた485系にとっては、1,000km余も ものの数ではない距離なのかもしれない。このボンネットのフォルムは、剛と柔の塩梅が実に良い。
もともと「白鳥」に乗るつもりはなく、この11番ホームで見送るつもりだった私だが、これを見せられるともう乗らずにはおれない。気分の上では青森まででも行きたいところだが、さすがにそれは無理なので、せめて旅立ちの高揚感だけでも味わうべく、京都までの2区間に乗ることにする。
自由席は先頭側3両。下り列車ではあるが先頭は9号車で、その9号車に乗り込む。(途中新潟で進行方向がかわり、その先では先頭が1号車になる。)車内の混雑は意外とさほどではなく、座席は無事確保。撮影する側からされる側になり、静かにホームを離れる列車に身を任せる。国鉄世代の優等列車車両は、古びてはいても独特の安定感がある。
新大阪駅を出ると、鉄道唱歌のオルゴールの後案内の放送。青森までの停車駅が読み上げられる。最後のほうに、秋田や東能代、弘前といった、一ヶ月前の旅行で辿った土地の名前が出てくる。まさに別の世界へつながる列車なのだと思う。急行を猫も杓子も特急にしてしまった結果、本来の「特別な急行」という意味を離れ、特別でも何でも無い、単に「トッキュー」という名称を持つだけの列車が大半になってしまったが、この「白鳥」は本来の意味での特別急行の生き残りだったのではないかと思う。だが3月3日からはこの列車もこま切れにされ、こういう感慨にふけることはできなくなる。
複々線の外側を快調に走る。途中駅にはやはり撮影者が多い。車掌が来たら特急券を買おうと待ち構えていたが、指定席側から検札を行っていたのか、京都までついに現れなかった。
大阪から27分で京都に着。黒壁のようにそびえる駅ビルの麓に降り立ち、北へと飛び立つ「白鳥」を見届ける。これで本当に「白鳥」とはお別れだ。なお大阪からの特急料金は、京都駅構内の案内所で事情を伝えて精算した。
さて、大阪から開始した大回り第二弾だが、最初よりさらに外側をまわって草津線から柘植(つげ)を経由し、関西本線を西進するルートを取ろうと思う。98年に大阪近郊区間が大幅に拡大したことで、こんなところまで足をのばすことができるのだ。やろうと思えばこれより湖西線に入り、近江塩津から米原を経由して草津へという琵琶湖周回ルートでさらに距離を稼ぐこともできるが、今回はそこまではしない。京都駅で昼食用に駅弁「あなご寿し」を購入し、次なる列車に乗り込む。
新快速で草津へ。行楽客が多く、そこそこ混んでいる。
草津線に入ると、とたんに景色はローカル然とし、滋賀の田園を進む。単線の貧相な線路を、旧式の113系がバウンドしながら走ってゆく。遠くには雪を被った山々が望まれる。
近江鉄道や信楽高原鉄道と接続する貴生川(きぶかわ)で乗客の多くが下車し、車内は閑散としてきた。車窓風景はいっそうのどかになる。ここで京都で購入した「あなご寿し」に手を付ける。細長い容器に詰められた飯の上にあなごの身が載せられ。プリプリした食感。味は意外とあっさりで、このあたりが京都らしさか。シンプルながら上品な内容だった。ボックス席を独占し、列車に揺られながらの駅弁とは、まさに旅の至福の時だ。(注3)
忍者を連想させる甲賀(こうか)を過ぎると終点柘植が近い。柘植の手前で滋賀県から三重県に移る。三重は近畿地方に含められる場合もあるものの、いわゆる「近畿二府四県」の中には含められず、兵庫県民である自分からしても三重は東海(中部)地方という印象だ。実際、伊勢湾に面した桑名や津あたりだと名古屋とのつながりが断然強く、近畿の一部という認識はないのではないかと思われる。一方、かつて伊賀国といわれた地域は山脈で遮られることなく滋賀県と隣接しており、分水嶺で区切っても淀川の上流にあたる木津川流域にあたり、ここを近畿と呼んでも違和感はない。もともと伊勢・志摩と伊賀をひとつの県にくっつけたこと自体に無理があるのではないかと思えるが、それを言えば古くの畿内(摂津)から山陽(播磨)、山陰(丹波・但馬)、淡路までもひとつの県に取り入れたわが兵庫県も、なかなかに無理がある。
国鉄が分割された際の境界を見ても、JR西日本とJR東海の境は概ね「二府四県」の区切りと一致するが、伊賀地方はJR東海ではなくJR西日本のエリアになっている。そういうわけで、大阪近郊区間が拡大されたときに柘植までがその一部になり、同区間は二府五県にまたがる広大な範囲になったのである。
柘植は関西本線との接続駅で、同線は非電化なので電車は草津線方面にしか出入りできない。草津からやってきた電車は、そのまま草津方面に折り返すことになる。次の加茂行きまでは30分近くあるが、ルール上改札を出ることはできず、ホームにも何もない駅で外に出ても寒いだけなので、しばらく電車の車内で暖を取りながら待つ。
関西本線の列車はキハ120の単行ワンマン。極限まで減量化された運用だ。今回の旅行では唯一の気動車。
列車は伊賀の盆地へと駆け下り、中心駅の伊賀上野で多くの客を降ろしたのち、登りに転じる。すっかり寂れた単線非電化路線でが、各駅のホームはざっと8両分ほどの長さがあり、ホームの端からポイントまではさらに余裕がある。昔は「本線」の名にたがわず、優等列車や貨物列車も行き交っていたのだろう。今はほぼキハ120の独壇場であり、見る影もない。
峠を越え、月ヶ瀬口から京都府に戻る。木津川の谷を進み、やがて加茂へ。ここで非電化区間は終わり、電車に乗り換えとなる。
加茂駅は96年11月に訪ねており、古風な駅舎が印象的だったが、惜しくも橋上駅への建て替えが進められていて前の駅舎は跡形もなくなっていた。ここから通称「大和路線」となる。ガラガラの「大和路快速」に乗ってひと区間で木津へ。朝以来、5時間ぶりに戻ってきた。
奈良からは桜井線に入り、高田から和歌山線を経て和歌山へ、そして阪和線を北上するルートをとれば、さらに大回りの旅になる。和歌山県に入れば、今回の旅行で二府五県すべてを制覇することになる。しかし奈良駅で出発を待つ電車を見ると、その気も萎えてしまう。ロングシートで乗り心地も悪い105系電車で、和歌山まで3時間ほど乗り通すのはきつい。かたやこちらは快適な大和路快速。結局腰が上がらず、そのまま大阪を目指すことに。
この先は5時間前と同じ景色の移り変わり。さて、時間がまだ早いので大阪で少し店や列車を見て回りたいと思う。このままこの列車に乗っていれば大阪まで連れて行ってくれるが、大阪まで行ってしまうとコースが一巡してしまい、まずいことになる。そこでJR東西線に入り、大阪の最寄りである北新地に向かおうと思う。
ルートが重複しないように北新地に達するには、先ほどとは逆に天王寺から大阪環状線の内回り線に乗り、東側へ回る必要がある。おなじみオレンジ色の103系に乗って京橋へ。そこからJR東西線に乗り換える。
大阪駅からスタートした2度目の大回りは、その大阪駅の目と鼻の先である北新地で打ちきりとなる。1度目の大回りは宝塚での入場から大阪での出場まで3時間ほどあったが、特に自動改札で引っかかることもなく無事通過できた。だが今回は、大阪での入場が9:29と記録されており、それから既に5時間以上が経過している。こんな至近の駅同士でそこまで時間がかかるとは明らかに不自然で、もしかするとこの度は自動改札ではねられるのではないか…
そんな不安は見事に的中し、自動改札は無情にもバタンと閉じ、有人改札に行くよう促される。
有人改札で事情を伝えると、Jスルーカードに処理をしてすんなり通してくれた。ルール上問題ないとはいえ、不正防止のために一応チェックを入れるということだろう。ちなみに、大阪〜北新地間は京橋経由で7.8km、170円の区間だが、大阪〜草津〜柘植〜奈良〜天王寺〜京橋〜北新地と回ったことで203.3km、3,570円分乗車したことになる。
その後は梅田で本屋などをチェックした後、大阪駅に入って、朝に「白鳥」が出発した11番線へ。「白鳥」と同じく国鉄特急カラーのボンネット車両で運転される特急「雷鳥」が入ってきた。私が初めて大阪駅に列車の写真を撮りに来たのが1986年5月。出入りする列車たちの顔ぶれはずいぶん変わったが、この「雷鳥」の姿はほとんど変わっていない。
あとは道場へ向かう帰り道。運賃計算の都合上、大阪から道場まで通すよりも、宝塚で切るほうが運賃は100円ほど安くなる。そこで宝塚で一旦改札を出る。 道場駅はJスルーに対応しておらず、残高も足りないので、券売機でカードに現金を足して道場までの切符を購入する。これで今回お世話になったJスルーカードはお役ご免だ。すっかり暗くなった道場には、17時35分の着。
注記の内容は2016年9月現在。
1. Jスルーカードは1999年に登場。JR西日本の近畿圏および近鉄などで利用できた。2003年以降はチャージ式のICカード「ICOCA」に移行し、Jスルーカードは2008年に発売を終了。現在は自動改札機での使用はできない。
2. 「白鳥」の愛称は2002年12月、東北新幹線八戸延伸に伴い、八戸・青森〜函館間の特急(それまでの「はつかり」に代わる)に採用され復活した。しかし2016年3月、北海道新幹線の開業により廃止され、再び過去のものとなった。