現在では鉄道資料館として公開されているこの建物は、もと長浜駅舎で、現存する最古の駅舎とされる。しっくい塗りの上品な洋館のような建築が気品を感じさせ、白壁が青空に映える。
明治15年(1882年)、現在の北陸本線がここから敦賀方面へと開通し、長浜における鉄道の歴史が始まった。翌年、長浜から関ヶ原に向かう路線が開通。明治22年(1889年)4月に新橋から長浜までが鉄路で結ばれ、長浜〜大津間を琵琶湖航路でリレーする格好で、今で言う「東海道本線」が1本につながった。長浜駅はその中継地点として重要な役割を担ったことになる。
ただしその2ヶ月半後には、米原を経由する現在の東海道本線が開通し、当初開業した長浜〜関ヶ原のルートは廃止された。長浜はメインルートから外れ、駅そのものも移動して、明治36年(1903年)にこの駅舎は役割を終えることになった。「駅」としての務めを果たしたのは20年余りに過ぎないが、それが後々も大切に保存され、100年を経て今に至るのは、「こここそ鉄道の街」という長浜の自負によるのだろう。
ゴールデンウイークただ中の京都は、初夏を思わせる暑さだった。そして時節柄、人も多い。こんな日に嵯峨野の観光トロッコに乗ろうとは、なんと無謀だったか。
トロッコ亀岡駅の狭いホームに行列を作り、ようやく乗り込んだ満員のトロッコ列車。足下にごつごつした振動を伝えながら、保津峡をゆっくりと進んでゆく。窓ガラスを介さずに見る保津川の流れ、新緑の色がすがすがしい。これが「風を感じる」という体験か。
川には急流下りの小舟。あちらも今日はフル回転だろう。列車はトンネルへの出入りを繰り返しつつ、舟が下ると同じ方向に進んでゆく。
京都を代表するふたつの現代建築が対峙している。
青空の下、黒塗りの壁のようにそびえる京都駅舎。真っ正面には、天に向かって突き立つ京都タワー。いずれも、建築時には「京の景観にそぐわぬ」と物議を醸した存在だが、京を訪れた人々がまず目にするシンボル的存在であることは事実だろう。
ちょうど京都駅舎の壁が鏡のように、京都タワーを映している。タワーの高さは131m。これは、建築時の京都市民の数が131万人だったことに因むのだという。
かつてSLやまぐち号に乗ったとき、「SLは乗るよりも見るものだ」という感想を抱いたものだ。SLの牽く列車といっても、乗ってしまえばSLは見えないので、普通の列車とさして変わりがない。蒸気機関車の醍醐味は何と言っても、煙を吐き、轟音を立てるその姿にあると思う。
それを間近に体験できるのがこの梅小路蒸気機関車館だが、小学生、中学生の時以来、この2003年まで来る機会がなかった。久々に目にする「動くSL」だが、なぜか子どもの頃よりも、その存在感が圧倒的に感じられた。これは不思議な経験だ。
蒸気機関車を動かすには多くの人の手がかかる。緻密な管理と熟練を要する、人間くさい機械だ。それを知るようになったからこその感慨があったのかもしれない。また、実際にSLを動かしていた祖父を持つ身であることも関係しているのだろう。
中国地方を縦走する芸備線。並走する中国自動車道を横目に、山間部ではわずかな本数の列車が行き交うローカル線である。
岡山県の新見から谷を進み、広島県に入ったところがこの東城。これまで辿ってきた中では比較的まとまった街だが、列車で訪れる人は多くない。駅前から広島方面へと出ているバスの方が、はるかに便利なのだ。
そんな東城駅だが、先へ進むのに列車を乗り換えさせられる。わざわざ跨線橋を渡って、1両編成から1両編成への乗り継ぎだ。長いホーム、右側のヤード跡地らしきものは、かつてはここも鉄道の拠点として栄えていたことの証だろう。この先、芸備線は道後山を越えて備後落合へと向かう。
現在、この右側のホームは使われていないとのこと。つまり、東城駅もホーム1本で事足りる駅になってしまったということだ。
見るたびに、人は大したモノを造ったものだと思う。全長4km近いこの橋は世界最長の吊り橋であり、対岸に横たわる淡路島がついに「地続き」になった。そしてその下を漁船から大型船まで、大小種々の船が行き交う。見ていて飽きない。
2月の前半、しばしば「暦の上では春になりましたが・・」と言われる時期。まだ空気は冷たいが、徐々に日が長くなり、光に強さが伴ってくる。傾きかけた初春の太陽は海峡の水面を照らし、うららかな小春日和を演出する。
山陰の入り江に面する高台の駅、鎧。その独特のシチュエーションが気になっていて、いつか降りてみたいと思っていた。
鉄橋で有名な餘部から京都方面へひと駅。鉄橋を渡りきってすぐトンネルに入り、出た先がこの鎧駅である。北側のホームがそのまま入り江を見渡す展望台のようになっている。写真の右側にはこじんまりとした漁村。昔からここで、肩を寄せあって暮らしてきたのだろうか。今は穏やかなこの海だが、冬になれば目の前の防波堤が文字通り鎧のように、荒波から小さな港を守るのだろう。
鉄道に関連した建造物の中で、その威厳において他に比べられるものがあるだろうか。完成は明治45年。明治最後の偉業ともいえるだろう。その高さ40m超。集落の中に突き立つ赤茶色の鉄橋は、文字通り山陰本線の足場を支えてきた存在だ。
しかし今、通る列車は少なくなった。北には日本海、冬場には風当たりが厳しい。そんな中、かの痛ましい列車転落事故が起きた。規制により列車が止まる事が増え、鳥取へのバイパス線である智頭急行が開業したこともあって、幹線としての役目は果たしづらくなった。しかし、1,2両の普通列車が行き交うばかりでは、この鉄橋にはいかにも不釣り合いだ。
やはり、この鉄橋は特急が走ってこそだ。橋桁にさしかかるのは、特急「はまかぜ」。これもまた年期を経た車両だが、ゴールデンウイークとあって、堂々たる7両編成。刻む足音が、連続音となって一帯に響く。
関西在住だが、大阪にはあまりつながりがない。「大阪らしい」風景といえば、通天閣や道頓堀といったミナミのイメージが強いが、そちらに足を運んだことはほとんどない。かといって、キタはありきたりの商業都市のように見え、これといったインパクトがない。
私が推したいのは、「水都」としての大阪の風景だ。大阪湾に近い側、大阪環状線で言えば大阪から内回り線に乗ってまわる側だ。
水都といっても、美しい風景というわけではない。工業・商業・そして人の生活が同居する雑多ぶりと、その間で水をたたえる川や運河の緩さが、絶妙の対比になっていると感じられる。そして東京などではとっくに追い出された旧式の通勤電車が、いまだ主力として走っている。
神戸三宮。私にとっては最もなじみの深い都市である。南方へまっすぐ伸びるのはフラワーロード。今回は列車で素通りする立場で眺める。すると、ごく見慣れた風景であるにもかかわらず、旅のひとこまとして目に入ってくるから不思議である。
1995年の阪神・淡路大震災から、この時点でまもなく10年を数えようとしていた。あれほどひどく破壊された街だが、もはや視界の中に、その痕跡を認めることはできない。逆に違和感を覚えるとすれば、古いものが古びた姿で混じっていないということだ。