旅客機も新幹線もなかった時代、長距離を最速で移動できる手段は鉄道だった。「最速」といっても、今よりはるかに時間のかかる旅であり、一昼夜をかけて走り抜く列車もざらだった。もちろん私自身がその時代に生きていたわけではないから、当時の様子については、記録からの情報と想像に基づいて「・・だろう」と語るしかない。
おそらく人々は唯一の交通手段として、今の水準では決して快適とは言えない環境に、好むと好まざるとにかかわらず長時間身を任せたことだろう。それだけに、「旅」という行為そのものに相当な覚悟や思い入れがあり、今とは比べものにならない重みが伴っていたのではないだろうか、と思う。
1958年に登場した20系客車は、いわゆる「ブルートレイン」の元祖として寝台特急列車のステータスを築き上げた。その車両が「走るホテル」と称されたことからして、当時の人々の羨望の的であったことがうかがえる。堅いボックス席でひしめき合って何時間も過ごすという庶民の旅のスタイルからすれば、自分用の寝るスペースがあるという、それだけでもかなりの贅沢だったのだろう。
5年後に東海道新幹線が開通しているが、この両者はまさに、高度成長期の「華」といえる存在だったのだと思う。しかし皮肉にも、その新幹線の延伸がしだいに夜行列車の活躍の場を狭めてゆくことになる。
さらに旅客機、高速バスといった選択肢の広がりは鉄道の地位を相対的に低め、寝台列車は速度やサービス水準に比してコストパフォーマンスの悪い存在として、利用者にも営業側にも背を向けられていった。私がじかに知る夜行列車の姿は、そのようにしてすでに凋落に入ってからのものだ。
国鉄民営化前後にはテコ入れの動きもあったものの、その退潮は今やとどめがたいものだった。JR各社は一部の例外を除き、夜行・寝台列車に新たな投資をせず、サービスの陳腐化が更なる客離れを招く悪循環となった。JRにとって、脚が遅い上に複数社をまたぐ列車は扱いに困る代物であり、大半の夜行列車はその手間に見合わぬ存在として立ち枯れるに任されていった感がある。
21世紀の始まる時点で既に「前時代の乗り物」として統廃合が進んでいた夜行列車は、いよいよその残り火までも吹き消される段階に達した。2009年3月、「はやぶさ」「富士」が廃止。「富士」は1929年、東京〜下関間(当時、関門トンネルは未開通)の特別急行の名として、日本で初めて付された愛称だった。その廃止をもって東京駅を発着する「ブルートレイン」、また東京から九州に達する在来線列車がすべて姿を消したというのも、皮肉な話。
さて、ここから取り上げるのは、私にとって関わりのある夜行・寝台列車たちの思い出である。その大半は既に過去の存在となってしまっている。運転区間や時期などのデータは、WikipediaなどWeb上からの情報に基づいている。
寝台特急「明星」
関西〜鹿児島を結ぶ寝台特急で、1975年(山陽新幹線全通)時点では熊本行きを含め、電車・客車合わせて7往復(このほかに「なは」が1往復)あったとのこと。しかし、新幹線が九州に達したことは、予想以上に寝台列車の利用者を減らしたのだろう。84年の時点で、関西〜鹿児島夜行は「なは」と「明星」の2往復のみとなる有様で、しかも「明星」は長崎発着の「あかつき」と併結運転を行うようになった。この種の併結は、のちに寝台特急の統廃合が進むにつれ、頻繁に行われるようになる。
私は、母の実家のある鹿児島からの帰りに2度利用した。当時小学生だったが、記憶に残る初めての夜行列車だった。
上の写真は86年5月、大阪での様子。東海道・山陽本線ではEF65の牽引で、「明星・あかつき」の併記ヘッドマークを掲げていた。
その年の11月に、「明星」廃止。以後は「なは」1往復体制となったが、臨時列車として20系客車の「明星」が運転された。そののち急行「霧島」→「桜島」として1996年まで運転され、これが20系客車の現役最後の活躍になったという。
寝台特急「サンライズ出雲・瀬戸」
1998年、寝台特急用電車285系が導入され、従来客車で運転されていた「出雲」の1往復(東京〜山陰本線経由〜出雲市)と、「瀬戸」(東京〜高松)を置き換え、「サンライズ出雲・瀬戸」となった。両者は岡山で分割・併合される。
583系以来の寝台電車の登場だったが、輸送力重視・昼夜兼用で中途半端な構造にならざるを得なかった583系とは対照的に、個室寝台に特化した現代的な設備となった。また、「ノビノビ座席」が各1両組み込まれた。これはカーペット敷きの床に横になれる、フェリーの2等客室のようなスタイルで、指定席扱いである。
98年10月、この「ノビノビ座席」を利用して、三ノ宮から東京まで乗車した。やはり横になれるのは有り難い。車体には「夜明け」をイメージしたベージュとワインレッドを配し、内装には暖色の木目調の建材を使うなど、従来の暗く冷たいブルートレインのイメージを一新しようという意気込みが見て取れた。
新世代の寝台列車のスタイルとして、発展が期待されたのだが、結局それ以上の進展はなかった。他の寝台列車に使用するには交流電化に対応させねばならず、JRにそこまでの意欲はなかったのだろう。そうこうするうちに東海道系のブルートレイン(客車寝台列車)は全廃されてしまった。なお、同時に「ムーンライトながら」も臨時化されたため、今や東京を発着する定期の夜行列車としても、「サンライズ出雲・瀬戸」は唯一の存在となっている。
特急「ドリームつばめ」
九州内には2本の夜行特急、鹿児島本線の「ドリームつばめ」と日豊本線の「ドリームにちりん」があった。それぞれ、夜行急行「かいもん」と「日南」を特急車両で置き換えたものだった。2000年5月の旅行では、「周遊きっぷ(九州ゾーン)」の効力を生かし、宿泊費の節約と島内を効率よく巡ることを目論んで、この両者を利用することにした。
「ドリームつばめ」は、「つばめ」(当時)用の787系を使用し、博多〜西鹿児島(現・鹿児島中央)間に運転。787系自体が上質な車両なので、快適に過ごすことが出来た。同車のシックなデザインは、夜行でも違和感がなかった。
写真は昼行「つばめ」のもの。
2004年の九州新幹線部分開通に伴って熊本〜鹿児島中央間が廃止され、残った博多〜熊本間が下り最終/上り始発「有明」となって存続した。九州新幹線が全通した後も継続され、2013年の時点で下り「有明7号」の熊本着が1:48、上り「有明2号」の熊本発が4:45という異例の深夜・早朝列車だったが、2014年春の改正で熊本乗り入れもなくなり、下り「有明5号」(博多0:15→長洲1:20)に名残を残すのみとなっている(2015年現在)。
なお、下り「ドリームつばめ」の博多発は日が改まってからだったが、前日の新幹線から乗り換える場合、通常は同一日のうちの乗り継ぎに限られる特急料金の乗り継ぎ割引が、特例で適用された。
特急「ドリームにちりん」
日豊線側の夜行「ドリームにちりん」(博多〜宮崎空港/南宮崎間)は、783系「ハイパーサルーン」での運転。九州を走る夜行列車として最後まで残ったが、2011年春に廃止された。
「ドリームつばめ」と同じく、2000年の九州旅行の際に利用。787系ほどではないものの、九州の特急車は概して質が高く、居住性は高い。それにしてもさすがに、連続の車中泊は厳しかったが。
寝台特急「なは」
関西と鹿児島本線方面を結んだ寝台特急。
その愛称は、沖縄の本土復帰を願って公募された中から選ばれたもので、1968年の「ヨンサントオ改正」でデビュー。(沖縄は72年に復帰。)当初は昼行特急だったが、1975年の山陽新幹線全通に伴い、新大阪〜西鹿児島間の寝台特急となった。当時、同じ区間を走る「明星」が7往復だったのに対し「なは」は1往復。ところが、86年以降も残ったのは「なは」のほうだった。沖縄本土復帰の「記念碑」的なその愛称を、なくすわけにはゆかなかったのだろう。
以後、個室B寝台や、座席車「レガートシート」が組み込まれるなど、それなりにテコ入れのなされた列車である。1997年に「はやぶさ」が熊本までの運転に短縮されたので、西鹿児島に達する唯一の寝台列車となる。
なし崩しに統廃合の進んだ九州夜行の中にあって、比較的堅調に存続していた「なは」だったが、2004年に九州新幹線が部分開通すると、運転区間が熊本打ち切りになった。これにより、仮に鹿児島中央へこの列車で行こうとすると、2度の乗り換えを強いられるようになった。新八代または八代まで乗り入れれば新幹線との直接連絡もできただろうが、この時点ですでに先の見えていた「なは」に対して、積極的な手を打つ意志はなかったと思われる。
2005年、日豊線向けの「彗星」が廃止され、それまで「彗星」と併結していた長崎本線向け「あかつき」が、「なは」とコンビを組むことに。奇しくも、廃止直前の「明星」に近い姿になった。「なは」はこの時点で、電源車を除き9両(熊本以南7両)から4両に短縮。最終的に車体はまともな補修もなされず、「飼い殺し」に近い状態だった。
九州新幹線の全通を待つことなく、ついに2008年3月、「なは」は「あかつき」共々廃止となり、これをもって関西〜九州間の寝台列車はすべて姿を消した。翌2009年には、東京発着の「はやぶさ・富士」も廃止され、大阪より西に「ブルートレイン」は存在しなくなった。
私が「なは」に乗ったのは2001年、2003年と2008年の3回。いずれも、鹿児島県の出水にある母の実家を訪ねるためだった。一度目はゴールデンウイークの時期、親族一同集まるために母や弟と利用したが、時節柄満席に近く、全員バラバラに乗る羽目になった。特に私は、熊本で切り離される車両しか空いておらず、熊本から立席特急券で乗り直した。連休時期とはいえ、まだ「なは」に元気のあった時代といえる。
二度目は、九州新幹線の通じる前年。まだ出水まで直通することができたが、熊本から先ではガラガラにすいていた。入院していた祖父を見舞うためだったが、祖父はこの出水の機関区で機関士を務めていた。「なは」を降りて、2年ぶりに訪れた出水駅。その機関区のヤードがあった場所に、新幹線の立派な駅が開業を待ってそびえていた。しかし、祖父がその開通を目にすることはなかった。
その後、前述の通り、「なは」は熊本止まりとなり、「あかつき」と組むようになった。関西では牽引するEF66電気機関車が、「なは/あかつき」の併記ヘッドマークを掲げて走っていた。
最後は2008年1月。廃止を2ヶ月後に控えた「なは」を利用。廃止前の「惜別乗車」組も増えており、車内はほぼ満席となっていた。車内は「昭和」を色濃く残す無機質な内装。客車独特の丸みを帯びた乗り心地。車中泊ではなかなか寝付けないことも多いのだが、このときはなぜか、すんなりと床に就くことができた。
九州の冬の夜明けは遅い。7時を過ぎてようやく空が明るみを帯びてくると、もう終点の熊本が近かった。こうなるとなおさら、運転区間の短縮が惜しい。熊本で下車し、乗ってきた列車を見渡すと、電源車を含めてたったの5両編成という短さに、「役目を終えた」寝台特急の寂しい末路が重なった。