21世紀にも入ると、「急行」という存在そのものが、すでに古びた種別となりつつあった。これは、その代表格であったキハ58系の命運とも直結していた。汎用性の高さ、優等列車用として造られた質の高さから、長らく第一線での活躍が許された同車も、JR世代の車両と比べれば性能面・居住性の面での見劣りが否めず、急速に置き換えが進められていった。
この時期には、まだ快速としての活躍も続いており、それはかつての「急行」を彷彿させるものだった。一方このころからは、レギュラーを降りてヘルプ要員的な起用が目立ち、国鉄世代車両を使用した「リバイバル列車」としての出番も増えていった。いつでもどこででも見られていたのが、時と場所を選ばねば出会えなくなり、日常の足から、ノスタルジーを覚えさせる存在へと移りつつあった。
快速「とっとりライナー」 2001年10月9日 大山口駅
山陰本線は長らく旧態依然で、車両のデザインもなぜか国鉄時代のものを変えていなかった。2001年7月には、島根県側の区間で高速化が完成し、車両も刷新されたが、鳥取県側はまだそのままだった。鳥取〜米子間で運転される快速「とっとりライナー」は、急行色のキハ58系での運転。2両編成ながら原型に近い車両で、比較的平坦な区間を快調に、目いっぱい飛ばして走る様は、地方幹線の急行を彷彿させるものだった。その走りの本気ぶりは、下のリンクからの動画でご確認いただけよう。
この2年後、鳥取県側も高速化が完成し、「とっとりライナー」は新型のキハ121・126に置き換えられた。速度や性能はアップしたかわりに、造りの安っぽい車両になってしまった。
快速「南三陸」 2002年1月1日 仙台駅
東日本の非電化区間においては、軽快気動車キハ100形・110系が台頭していたが、東北路線においては、まだまだキハ58系の勢力が強かった。その多くはエンジンの換装・塗装変更を受け、00年代後半まで命脈を保つことになった。
21世紀に入って、さすがに「急行」として残るものは少なくなったが、高速バスなどへの対抗策として、都市間の速達列車としての起用されるものが多く、仙台と石巻・気仙沼などを結ぶ快速「南三陸」もそのひとつだった。キハ58系とキハ40系が使われたが、リクライニングのキハ28が指定席車として連結され、古いながらも格の違いを見せる存在だった。
下の動画は2004年の乗車時のもの。換装エンジンであるため、オリジナルのキハ58系とは異なり、やや力強い走りとなっている。
「南三陸」は2007年にキハ110系に置き換えられたが、指定席には引き続きリクライニング席車が連結されるなど、そのステータスは健在だった。だが、2011年の東日本大震災で大被害を受けた気仙沼線は長期不通を余儀なくされており、「南三陸」も時刻表から姿を消した。
花輪線普通 2002年1月2日 安比高原駅
盛岡を中心とした、花輪線や山田線などでも、国鉄世代の気動車がまだ主力を担っていた。2002年の年明け、花輪線にて乗車した普通列車。パウダースノーの雪道を、割に軽快な足取りで進む。
快速「八幡平」 2002年1月2日 鹿角花輪駅
盛岡のキハ58系・52形の一部は、国鉄時代の塗色となっていた。これは、山陰のようにその色のまま使われてきたわけではなく、わざわざ塗り戻したいわゆるリバイバルカラーだ。国鉄末期〜JR初期に、旧態依然なイメージを脱ぎ捨てるべく、こぞって塗り替えられた国鉄急行色。それが今や、かえって過去を偲ぶ存在となりつつあり、塗り戻しはその象徴的な出来事であった。
花輪線内唯一の速達列車だった、快速「八幡平」。たまたま国鉄カラーの車両が入っており、快速ながら急行を彷彿させる姿となっていた。「八幡平」には2007年までキハ58系が使われた。花輪線では、JR東日本管内ではかなり遅い2008年までキハ58系の活躍が続いた。
快速「西長門リゾートライナー」 2002年8月5日 阿川駅
山陰本線を下関から東萩へ向かう臨時快速。芸備線の急行に使用されていたタイプの塗装。
夏期の観光輸送を当て込んだと思われ、2両のうち1両が指定席だったものの、PR不足からか利用は数人程度。しかも冷房の調整が利かないという有様だったが、おかげで窓を開けて日本海の眺めを堪能できた。山陰「本線」と言っても、西端の区間は特急「いそかぜ」(2005年廃止)を除いて優等列車は既になく、キハ58系の起用は貴重なシーンだった。
現在、この列車の流れを汲む「みすゞ潮彩」(長門市〜新下関間)が、キハ40系の改造車で通年運転されている。
久大本線普通 2002年8月5日 日田駅
久大本線の普通列車。黄色いキハ125の2両の後ろにキハ65 36が併結されていた。日田出発時点ではガラガラだったが、次第に客を増やし、終点久留米までに超満員となった。久留米で花火大会が行なわれていたためで、キハ65は増結車だったのかもしれない。
このキハ65 36はJR四国から渡ってきたもので、最終的には後述する「TORO-Q」に使用された。
赤穂線「電化40周年」臨時列車 2002年9月21日 播州赤穂駅
赤穂線全通(1962年)から40周年を記念し、水島臨海鉄道キハ20を借りて国鉄塗装にし、記念列車として運転。その際に、JR西日本のキハ28と組み、国鉄ローカル列車を彷彿させる組み合わせが実現した。キハ20は国鉄色のまま水島臨海鉄道に戻り、現在に至る。
なお千葉のいすみ鉄道が、JRから引退したキハ52を国鉄カラーに戻して運転しており、その後キハ28も急行色にして導入。奇しくもこのときの記念運転と似た組み合わせが復活することになった。
吉備線普通 2002年10月14日 備中高松駅
岡山と鳥取を結ぶ急行「砂丘」は1997年に廃止(智頭急行経由の特急「いなば」に置き換え)となったが、1往復は岡山〜津山間(当初は因美線内を快速として智頭まで乗り入れ。1999年に因美線乗り入れ中止)の急行「つやま」として存続した。このため一応、急行用のキハ58系が岡山に残っていた。
写真は吉備線にて、キハ58系(先頭が砂丘カラー、2両目が国鉄色)とキハ47(岡山ローカル色)という3パターン混成の普通列車。急行そのものが数を減らす中、こうした純粋な「間合い運用」も珍しいものとなった。
翌2003年、「つやま」はキハ40系に置き換えられたが、同じ区間を走る快速「ことぶき」との差がほとんどなくなり、2009年に廃止された。
リバイバル急行「わかさ」 2003年3月8日 胡麻駅
国鉄世代車両が影を潜めるにつれ、それを逆手に取り、「一日限りの復活」をうたうリバイバルトレインが登場するようになった。
「わかさ」は小浜線を走った急行で,山陰本線・舞鶴線経由で京都にも発着していたが、1999年廃止。その京都乗り入れ時代を再現するべく、この日だけ京都〜西舞鶴〜敦賀間で運転。昔なら珍しくもない光景だった急行色の6両編成だが、塗装の多様化・短編成化が進み、車両そのものが数を減らす中、これだけの車両がそろうというだけでも希有な機会だった。以後リバイバル運転は数多く行なわれたが、キハ58系の編成長は年々短くなっていった。
急行「だいせん」 2003年5月4日 大阪駅
福知山線・山陰本線を経由し、大阪と米子を結んだ急行。かつては昼夜設定され、夜行は寝台車を含む客車で運転されていた。福知山線が電化されると夜行のみとなった。
その後1999年に、キハ65の「エーデル」車両に置き換えられ、寝台車はなくなった。夜行なのにパノラマ車というのもミスマッチだが、ほかに持って行き場がなかったのかもしれない。気動車化後の「だいせん」は、私自身は利用機会のないまま2004年に廃止された。
急行「みよし」 2003年10月13日 広島駅
芸備線の急行。かつては広島から中国地方、そして山陰へと至る主要経路であり、急行が多数運転されていたが、2000年に急行区間を広島〜三次間に統一して「みよし」とされた。自由席のみ2両編成が基本で、車両設備も陳腐化が目立ったが、4往復の運転で、急行らしい面目は一応保っていた。
2007年についに廃止。これが、急行としてのキハ58系の終焉となった。私が「急行」としてのキハ58系に乗車した、最後の列車でもある。
快速「あまるべロマン」 2004年5月3日 鎧駅
山陰本線の見所の一つであった余部橋梁。明治期の建造物であった無骨な鉄橋は、キハ58系や181系といった山陰の主力たちの見せ場でもあった。だが悲劇の列車転落事故を機に風による規制がかかることが多くなり、智頭急行の開通などもあって、この区間の存在感は昔と比べて小さくなった。そして鉄橋そのものも、架け替えられる運びとなった。
それを前に、観光シーズンに運転されていた快速「あまるべロマン」は、キハ65「エーデル」車。旧鉄橋最後の日々は、「エーデル」晩年の活躍の機会でもあった。もう一方の主役であった特急「はまかぜ」のキハ181系も、鉄橋架け替えと同時期に引退している。