私とキハ52の、おそらく最初の接点となったのがこのとき。1987年夏、雨の熊本。
特急や変わった列車にばかり目が向いていた、当時の私。奥の引き込み線に休んでいたブルートレイン群を撮影したさいに、たまたまそこにいて一緒に写ったのがこの車両でした。車体番号は「キハ52 113」。
屋根部分に錆の浮いた、見るからにみすぼらしい風貌の気動車は、中学生Yakaには何ら魅力のないもの、べつだん意識されることもないものだったのです。
この87年は、国鉄が分割民営化されてJRが発足した年。九州の列車は急速に新塗装に移行しており、これは当時オレンジ色のキハ52を撮影したものとして唯一の、貴重な写真となっています。今思えば、「顔」を撮らなかったことが悔やまれてやみません。
私のアルバム上に、次にキハ52(※)が現われるのは、1990年1月。私が初めて四国に渡ったとき、高松駅で撮影したものです。(※:この写真は、キハ20系列の他の車両だった可能性もあります。)
特急「うずしお」号を撮影したときに、これまた「おまけ」で背後に小さく写っていました。小さいとはいえ、これが「顔」を初めてとらえた写真ということになります。
おそらく高徳線を走っていたものと思われ、0番線にちょこんと停まっています。すでにJR四国色である水色を基調とした塗装に替えられています。
しかし四国はエリアが狭いために車両の新旧交代が早く、島内のキハ20系列は、この後1,2年のうちに淘汰されてしまったようです。
私の(記憶にある限りでの)キハ52初乗車は、さらに2年半後、1992年8月のこととなります。
九州は肥薩線、「矢岳越え」と呼ばれる吉松〜人吉間の厳しい峠区間で、単行で孤軍奮闘していたのが、すでに九州色に塗り変わったキハ52。ループあり、スイッチバックありの難所を、パワフルに進んで行く走りには、ファンとして「しびれる」ものがありました。思えば、このときから、「キハ52」という車両に特別の愛着を感じ始めたような気がします。
2基のエンジンを持ち、かつ単行運転のできるキハ52は、この肥薩線のような、急勾配を擁する閑散区間で重宝され、その存在価値ゆえに現在まで生き延びることができたのです。
その後数年は、この車両との接点はなく、以後出会うのはもっぱら北陸以北でのこととなります。九州の52は全廃。2002年夏時点で2両が直方の留置線に放置されていて、朽ちるに任されていました。
キハ20系列が世に出たのは1957年、実に半世紀近くも前です。非電化区間の主力として量産され、気動車を地方路線の主役に押し上げた存在でした。そのうち唯一生き残る、2エンジン・両運転台のタイプがキハ52で、1958年から65年ごろまで製造されたようです。私の生まれる10年以上も前のことです。
1996年12月、長岡から乗車した飯山線の列車は、キハ52の単行。1965年製ながら、1992年に更新を受けており、内装は明るくきれい。越後川口までの上越線区間では、30年選手とは思えない激走ぶりに驚かされました。
十日町で、まもなく開業の北越急行の駅をバックに写真撮影。前世代の気動車と、高架バイパス路線が見事な対照でした。
翌97年春、北越急行開業。さらには秋田新幹線開業に伴い、工事期間の代替輸送用だった新型気動車が転入してきて、独自の塗装だった飯山線の旧式気動車は姿を消しました。
99年の年末には、飯山線と同じく豪雪路線の米坂線で、再びキハ52に出会いました。このたびの車両は、通路の床が一部ブカブカしていて、さすがに老いを感じざるを得ませんでした。
それでも、人里離れた雪深い山地をゆっくりゆっくり、踏みしめながら進む姿には、閑職に追われつつも持ち場を守るひたむきさを感じたりもしました。
JR西日本エリアでも、かつては地方路線を中心にキハ52が活躍していました。中でも、木次線のキハ52 128は、朱色とクリーム色という国鉄時代の色を唯一残す車両でした。
西日本区間でキハ52が走るのは、最終的に大糸線(南小谷〜糸魚川間)だけになってしまいました。95年から2年以上にわたって災害で不通になった、姫川沿いの区間を含む険しい道を単行で往復します。東日本の車両と違って車内は薄暗く、いかにも旧態依然。しかしその姿が、難所に挑む老兵の奮闘を一層印象付けます。
さて、晩年は山陰の予備車として働いていた128号機が惜しまれつつ姿を消し、ついに国鉄塗装のキハ52は消滅してしまいました。私としては、漠然とながら、一度は乗ってみたいものだと思っていたので、それがかなわぬままの廃車は、実に残念な話でした。
その後、私は鉄道模型(Nゲージ)の、国鉄色キハ52を1両購入しました。かなわなかった夢をせめて模型で、というわけでした。(このページの上段を走るキハ52のアニメは、それをデジカメで撮影したものを基にして作成したものです。)
ところが、2001年になって、盛岡地区の気動車に国鉄塗装が復元されました。その中には、キハ52の2両も含まれました。ついえた夢が復活し、2002年の正月、山田線で乗る機会が実現しました。
ぴかぴかの塗装に、「盛岡行」のサボ。険しい山越えの夜道に挑む列車は、たびたびギアを落としつつふんばる。この「息遣い」が、冬の夜汽車の旅情をかきたてます。
もっとも、この種の塗装変更は、車両置き換え前のファンサービスという意味合いも強く、裏を返せば、残された時間は少ないということ。この時期に乗っておけたのは幸いでした。
翌日、花輪線で出会ったのは、盛岡地区オリジナル塗装のキハ52。パウダースノーの覆う谷あいを、雪を巻き上げながらゆきます。レールの継ぎ目を踏むたびに、ポコンポコンとよく揺れるものの、走りそのものは軽快で、悪くない。
2002年はじめの時点で、キハ52が走る路線は、花輪(一部東北)、山田、岩泉、米坂(一部羽越・白新)、大糸線だけとなりました。
その後も活躍を続けたキハ52でしたが、2009年3月の改正で、ついにJR東日本エリアでの定期運用を終え、この時点で、JR路線で定常的に運用されるのは、大糸線の3両のみとなりました。この区間で生き残れたのは、単行運転用であり、かつ2つのエンジンを積んで急勾配に対応できるため、重宝されてきたという理由があります。この3両はそれぞれ、2004年から06年の間に昔ながらの姿に塗り替えられ、ファンの注目を集める存在となりました。
キハ52 115。かつての128号や、2002年に乗った山田線の車両と同じタイプの、赤とクリーム色の塗装。
2009年8月、大糸線を訪れたときに乗ったのは、まずこの車両でした。相変わらず、古びた印象の強い車内。車内の化粧板は薄汚れ、壁を這う配線には市販のコードカバーのようなものがかぶせてあるなど、およそしゃれっ気のない内装です。座席部のテーブルには、瓶の栓をこじって開ける「栓抜き」が。
エンジンも旧式のままで、ゴロゴロという振動を足下に伝え、トンネルの出入りを繰り返すうちに、油臭さが充満してきます。
キハ52 125。115号の配色違いのようなデザインですが、近年の鉄道ではあまり見られない地味なカラーリングです。3両の中では最後に塗色変更された車両です。
姫川に沿って深い谷間をゆく大糸線。至る所に落石よけのシェルターや柵が設けられています。そんなむき出しの荒々しい自然の中を、列車は恐る恐る、進んでゆきます。
大糸線のキハ52は、基本的に1両で運転され、本数も少ないので、車両同士が出会う機会は多くありません。途中の根知駅では、1日に4度だけ、列車の入れ違いがあり、そのときにこうして、キハ52同士が顔を合わせます。
「替わりがいない」ことを主な理由に、大糸線での活躍が続いてきたキハ52ですが、ついに2010年春をもっての置き換えが決まりました。それが、全国のローカル路線を駆け巡ったキハ20系気動車の、JR路線における終焉を意味するものでした。
2010年1月。この時点で既に、キハ52はその春に引退することがアナウンスされていました。昨夏に、最後になることを覚悟で乗っていましたが、やはりもう一度、今度こそ締めくくりとして、乗っておくことにしました。
糸魚川駅で出発を待っていたのは、夏にも出会った115号。これが、私の乗る最後のキハ52ということになります。
手前は、北陸本線の419系電車。寝台特急電車からローカル用に改造され、その後北陸路を四半世紀にわたって駆けてきました。決してスマートではない電車でしたが、こちらもそろそろ引退かとの声が聞かれており、去りゆく者同士の残り少ない顔合わせでした。この後、キハ52から遅れること1年、2011年春に引退することが明らかになりました。
大糸線の3両のうち、昨夏にお目にかかれなかった、朱色一色のキハ52 156の姿が、糸魚川駅構内に。これがキハ20系本来の姿として最も馴染み深いスタイルです。残念ながら乗車機会はありませんでしたが、見られただけでもよしとします。構内には立派な煉瓦の車庫がありますが、数年後に控える北陸新幹線開業に先立ち、取り壊されることになっています。駅の風景も、そこにいる役者たちの顔ぶれも、大きく様変わりしようとしています。
大糸線の車両はワンマン対応、窓枠の中に行き先表示器が取り付けられ、当初のかたちからは若干手が加わっています。「原型」を好む向きからは好まれないかもしれませんが、手を加えられながらも現役を全うしてこれたのは、むしろ重宝され使われてきた証拠といえるでしょう。
糸魚川を出た列車は、日本海側特有の陰鬱な空の下、雪道を進んで山間へと入ってゆきます。積雪に覆われた各駅では、残り少ないその活躍をとらえるべく、カメラを構える人たちの姿。
夏には険しい地勢をさらしていた姫川。今は雪が覆い、その厳しさは和らげられていますが、列車はゆっくりと、かつしっかりと勾配に挑んでゆきます。これぞ、老兵の貫禄か。
新潟県から長野県に入ると空が明るくなり、白銀の世界が広がってゆきます。キハ52の小さめの窓から、明るい光が差し込みます。終着・南小谷は間近。
たった1両の気動車は、南小谷で客を入れ替えて、もと来た道へと足早に引き返してゆきました。現役の車両としての最後の見送りは、あっけなく終わってしまったのでした。
大糸線の3両のキハ52は、2010年3月の改正で定期運転を終了。私が最後に乗った115号はその後、保存のため岡山の津山に送られました。残る2両は8月の臨時運転を最後に現役を退き、これをもってJR路線におけるキハ20系列の歴史に、終止符が打たれました。
その後、125号を千葉のいすみ鉄道が引き取り、復帰させることが明らかになりました。115号と同様の赤とクリーム色に塗りなおされ、整備を受けて、2011年春に復活を遂げました。雪深い大糸線から温暖な千葉へ、環境は大きく変わりましたが、第三セクター路線の看板列車としての新たな使命を帯びての再出発です。