2002年8月5日、早朝の山口、宇部新川。時刻は6時半、夏の陽はすでにまぶしく輝きはじめていました。
そんな朝日に照らされて、ホームでひときわ存在感を醸していた電車が1両。
チョコレートブラウンともいうべきか、上品な茶色一色で身を包み、おでこにサーチライトのような丸い照明が一基。配線やリベットがむき出しで、それがまた重厚さを増し加えています。
この電車こそ、いまや営業用ではJR最古の電車、いわゆる「旧型電車」では唯一の存在となった、
クモハ42001。
これまで写真でしか見たことのなかったその電車が、目の前にいるというだけでも、十分感激もの。「ワンマン」という無粋な標示を別にすれば、おそらく昔の姿そのままでしょう。
車体をひととおり眺めた後、車内に踏み込む。
木の香り。昔、小学校の教室がこんな香りだった。そう、床が木張りで、ときどき「油びき」と銘打ってワックスがけをしていた。それを彷彿させる香り。
しかも、床だけではない。壁面も、窓枠も、そして座席の背板も木製。最近の建材のような、安っぽい材木ではない。年季を経、使い込まれた木だけが見せることのできる、しっとりとした質感です。
そんな中にあって、座席の濃紺がコントラストをなし、客室の品位をさらに高めています。現代人の体格からすれば狭く、おそらく膝をつき合わせなければならないような幅です。
この車両、クモハ42が世に出たのは1933年、昭和8年のこと。これは私の母方の祖母が生まれた年です。京阪神から首都圏、伊東線を経て、1957(昭和32)年、山口にやってきました。13両が製造されたうち、宇部に来たのは3両。しかし、2000年までに他の2両は廃車され、001号はついに同族最後の生き残りとなったのです。
さて、6時43分、発車時刻となりました。朝一番のこの電車は、宇部新川から雀田に向かい、そこから小野田線本山支線に入ります。2.3km走って終点の長門本山に着くと、あとは雀田と長門本山の間を往復し、晩の最後の列車で宇部新川に帰ってきます。
ゴロゴロとドアが閉まり、電車が重い腰を上げる。床の底から響く低いモーターのうなりと共に、前進を始めます。宇部新川の工場地帯を横目に、ある程度まで加速すると、あとは慣性で、次の居能駅まで進みます。
居能を出ると、宇部線から分岐して、小野田線へと入ってゆきます。かつて、石灰やセメントの輸送用に敷かれたというこの路線ですが、その用途についてはトラック輸送に取って代わられ、本来の存在意義を失ってしまいました。そんな路線の、そのまた枝線が、クモハ42の最後の働き場となったのも、妙な縁といえます。
工場地帯を抜け、厚東川を渡ると、広々とした水田地帯へ。相変わらず、クモハ42にはスピードを出すそぶりがない。ただ、いつか着ければいいだろうとばかりに、区間の大半を慣性で進んでゆく。これぞ老練の走りか、と納得する一方、少しはモーターを高鳴らせた走りも、と期待した当方には、ややもどかしさも禁じえない走りでした。
クモハ42は、時の鉄道省が、京阪神の私鉄各社との輸送競争の切り札として開発・投入した車両だといいます。すなわち、現在の「新快速」のルーツともいえます。最高速度95km/h、これは当時の電車としては画期的で、大阪〜三ノ宮間を24分で結び、阪急特急と覇を競ったそうです。しかし、もうそんな昔のことは忘れてしまったわい、とばかり、電車はのんびりペースを崩そうとしません。
車内の装備を見ても、贅を尽くした高級車ではないにせよ、庶民的ながらも上質なものを作ろうとした心意気が伝わってきます。もちろん、その後それを大事に使い、維持してきた人々の努力も見逃せませんが、クモハ42はそうした労力に値する車両であったということであり、70年近い使用に耐えうるだけのものを持っていたということにもなります。
電車は駅に着くと、ちょっと一休み、とばかり、ポコポコポコとアナログな機械音を響かせながら小休止。ローカル線だから許される、ゆとりあるダイヤで、先を急ぐこともなく進むことができます。
軽く坂を越えて、電車はゆっくりと雀田に到着します。Y字形に線路が分岐し、右は小野田に向かう線。そして左は本山支線、クモハ42はこちらにに入ります。このあと、最終で宇部新川に帰るまで、この電車はこの先だけで行ったり来たりを繰り返すこととなります。
以前は1日11往復していたのが、2001年春から半分以下の5往復に。朝2往復、夕方3往復で終わってしまいます。一応、平日は通学者の利用もあるようですが、歩きでも間に合う程度の距離だけに、鉄道の存在価値は薄く、クモハ42を運転するがために残されている路線との印象も受けます。
残り2.3km、「支線の支線」だけに、軌道の状態も良くないようで、旧式の台車はその振動を車体にダイレクトに伝えます。ゆっさゆっさと上下左右に揺さぶられる走りに身を任せます。
そして線路は、唐突に終わりを迎えます。長門本山駅。たった1両分のそっけないホーム。レールはそこでぷっつり途切れ、正面には道路、その向こうには海が見えます。
乗っていた客は、一人を除いて、駅周辺にとどまり、折り返し列車の出発までめいめい写真を撮ったり列車を眺めたりしてすごしていました。運転士はいつのまにか反対の運転席に移り、続く雀田行きの出発に備えています。
この電車の運転席は、電話ボックスのような狭い空間で、その中に所狭しと計器類が並んでいます。ワンマンカーではありますが、バスタイプの運賃表示機や運賃収集箱といったおおげさなものはなく、運賃表の張り紙と、小さな運賃箱が設けられているだけです。
2002年の初夏、ある鉄道雑誌に、「クモハ42、定期運用を離脱」との記事が載りました。ゴールデンウイークに小野田線でイベントとして運転されたのが、「さよなら運転」と誤解されたようです。
結局その後もクモハ42は本山支線にとどまり、雑誌の次号にはそれが誤報だったとの訂正記事が載せられました。とりあえずは胸をなでおろしたものの、こうした誤報が流れること自体、去就問題が間近いところに迫っている証拠。このぶんではいつ本当に引退するかしれない。そういうわけで、この夏の乗車を決意したのでした。
6分後、電車は長門本山を出発、往路と1人入れ替わっただけの同じ顔ぶれで折り返してゆきます。
陽は高く昇り、夏の朝のすがすがしい風を切りながら、クモハ42は相変わらずのゆったりペースで、身をゆすりながら進んでゆく。しかしまもなくこの電車ともお別れとなります。私は今後のスケジュール上、雀田で小野田行きに乗り換えなければなりません。
この旅からおよそ20日後、新聞のひとつの記事に目が留まりました。
「おつかれさま『クモハ42』」
2003年春の同車引退を伝える記事でした。70年弱にわたる期間に走りぬいた距離は、502万キロに及ぶといいます。関西や首都圏でも活躍したとはいえ、その期間の大半は山口での「余生」だったことになります。それでも、電車の通常のライフサイクルからすれば、それだけの年月を現役として全うしたのは、驚嘆すべきことです。
さすがに近年は老いが隠せず、特に「相方」がいなくなってからは負担も増したことから故障が目立ち、代走を立てなければならないケースが増えてきたそうで、これ以上は引っ張れない、と判断されたのでしょう。残念ながら来るべきものが来たか、という印象でしたが、その前に乗っておけたのは幸いでした。
ついに雀田に到着しました。もう1往復乗りたいという未練を振り切って、電車を降ります。V字形の特徴的なホームの反対側に、小野田行きの電車が入ってきました。クモハ123。荷物車を改造した国鉄末期の傑作(?)で、こちらも時代を物語る個性派です。
2003年春以降は、このクモハ123が本山支線を任されることになります。
考えてみれば、本山支線を走る電車がクモハ42でなければならなかった理由は、もはやなかったはずです。営業側の都合からすれば、メンテナンス等に要する余分の手間を考慮すれば、早くクモハ123に代えてしまったほうがよかったことでしょう。たった2キロ強、朝夕しか電車の走らないこの線自体、すでに存在意義を大方失った路線に思えます。ですから、クモハ42がこれまでこうして、ささやかながら活躍の場を与えられてきたのは、ひとえにJRサイドの配慮であったといえるでしょう。
結局、2002年夏のクモハ42訪問は、私にとって、最初で最後となりました。最後の夏のその姿を、忘れることはないでしょう。
2003年3月14日をもって、クモハ42は現役を引退しました。願わくば、動ける状態で保存いただき、時々はその雄姿を人々の前に見せてほしいものです。