0系は、100系以下N700系に至る後継の車両と同じ線路の上を走ってきた。その居並ぶ様には、44年間に及ぶ新幹線の進化の歴史が凝縮されている。ただし、300系との並びの写真は、残念ながら持ち合わせていない。
100系と
500系と
700系(レールスター)と
700系(のぞみタイプ)と
N700系と
0系は、100系以下N700系に至る後継の車両と同じ線路の上を走ってきた。その居並ぶ様には、44年間に及ぶ新幹線の進化の歴史が凝縮されている。ただし、300系との並びの写真は、残念ながら持ち合わせていない。
100系と
500系と
700系(レールスター)と
700系(のぞみタイプ)と
N700系と
0系チャイム(車内にて収録) 到着時 / 終着時 / 旧到着時(いい日旅立ち)
私が生まれたのは、山陽新幹線が博多まで通じる少し前のこと。鹿児島に出産のために帰省した母は、往路は在来線、復路は新幹線に乗ったというので、私はその全通と縁が深い。もちろん、その時代は「新幹線イコール0系」の時代。新幹線の車両はそれしかないので、あえて「0系」という呼称を使う必要もなかったことだろう。
その少し前に起こったオイルショックの時まで、日本は高度成長に沸き、「新幹線ネットワークを全国に」という壮大な計画もぶち上げられていたという。そんな時代がもう少し長く続けば、その数年後には九州新幹線が造られ、0系が鹿児島に達する光景も見られたかもしれない。
両親の実家が九州だったので、帰省で最初に乗るのが大抵は新幹線だった。(フェリーを使うこともあった。)早朝の新神戸駅から新幹線に乗るのだが、当時は「ひかり」の多くが新神戸を通過しており、博多まで行こうと思えば停車駅の多いタイプの「ひかり」に乗るか、岡山まで「こだま」を使って乗り換えるかしかなかった。
生田(いくた)川を跨ぐ格好で山裾に立つ新神戸駅は、両側をトンネルに挟まれている。東に六甲トンネル、西に神戸トンネル。その地理的制約から、通過列車があったにもかかわらず通過線がない。このためホームに柵が巡らされ、列車が到着する時以外は出入りできない構造になっている。それでも、ホームの端から柵までは2,3mほどだから、そのような至近距離で新幹線の通過を見られる貴重なポイントだったことになる。私にとっての、新幹線に対するある種の畏怖は、ここで植え付けられたのだと思う。
生粋の鉄道好きだった私には、新幹線での帰省は一大イベントであり、六甲トンネルを照らす0系の照明は、その「オープニング」であった。列車接近のアナウンスとともに、トンネルの中にうすあかりが灯り、それが次第に明るさを増して、ついに丸鼻とともに、実体が姿を現す。この演出効果も相まって、これから遠くに行くんだという期待は大いに高まったのだった。
車内に踏み込んで座席に着くころには、列車は神戸トンネルの闇の中に入って行く。何度かトンネルを出入りして、抜けるころにはスピードも乗ってくる。加速の過程が景色で見えない分だけ、いきなり高速の世界に放り出される感覚がまたたまらない。終点博多まで、今の「のぞみ」や「ひかりレールスター」などと比べるとかなり時間のかかる旅だったと思うが、私にとっては全く飽きることのない旅程であった。
1985年、100系がデビュー。東海道・山陽新幹線の線路上に、初めて0系でない車両が営業運転を始めた。しかし0系は翌86年まで増備された。デビューの1964年から製造終了までが約22年、それから全廃までが22年。あとの22年間にもたらされた新幹線の進歩を思うと、「国鉄」と「JR」の大きな隔たりを実感する。
思えば、幼少期に私が国鉄に対して抱いていたのは、「古くさい」というイメージばかりだった。新幹線が20年以上かたちを変えなかったのも、ひとつに国鉄の労使紛争が影響していたという。この巨大組織の破綻を招いた停滞が、皮肉にも0系天下の時代を長続きさせ、広い世代に「新幹線の原型」として認識される結果につながったといえる。
87年の民営化後、JRのドル箱となった新幹線の技術革新は飛躍的に進んだ。92年に登場した300系「のぞみ」は最高速度270km/hに達し、「はしれちょうとっきゅう」の歌詞にある、「青いひかりの超特急 時速250キロ」の壁を越えた。長年「最高速」の代名詞であったものの、その停滞ゆえに陳腐なイメージをも伴っていた「ひかり」の名称を二番手に降格させたところに、新幹線の刷新と更なる高速化への布石という意味合いが込められていたように思える。
97年には最高速度300km/hの500系がデビュー。速度アップが一段落ついてからは、総合バランスに優れた700系(99年)、そしてN700系(07年)へと進んでいった。それに伴い、ハレ(特別な日)の乗り物という印象の強かった新幹線は、いつしかケ(日常)の交通手段になっていった感がある。
一方JR化以後、私自身が新幹線に乗る機会はすっかり失せてしまった。皆で九州へ帰省することがなくなり、個人では「青春18きっぷ」を使った東向きの旅行が増えたためだ。その間に前述のとおり新旧交代が進み、0系は21世紀に入るまでに東海道区間からいなくなり、山陽区間でも「ひかり」の任を終えた。2000年5月に博多まで利用したのは、その春に0系「ウエストひかり」に代わってデビューした「ひかりレールスター」だった。
それ以降も新幹線に乗る機会はあまりなかったが、関心さえもすっかり遠ざかっていた新幹線の「今」を捉えておこうという意識は強くなった。0系や100系といった、かつて慣れ親しんだ車両が短くなり脇へ追いやられる姿を目の当たりにし、それらがいずれ消えゆく存在だという現実が切々と伝わってきたからだろう。特に0系は単なる歴史的価値からではなく、「遠くへ行く」ことへの高揚感を最初に味わわせてくれた列車、私自身の「旅」の原点という意味で、自分にとっては特別の存在だったのだ。
それだけに、0系が白と青のツートンを捨ててグレー塗装に替えられたのは、個人的には非常に残念だった。それでもまだ、走ってくれるだけ有り難い。2004年ごろには消えると言われつつ、その後も山陽路にはその姿があった。デジタルカメラを持つようになってからは、沿線で撮影を試みることも多くなった。
2007年6月にN700系がデビューし、山陽区間には0系からN700までのすべての車種が揃うことになった。しかし当然、最新鋭が台頭すれば他の何かが退くことになる。その「何か」がまず最古参であることは想像に難くなかった。仕事などの「ついで」で撮影することの多い私だが、それ以後特に0系を意識して出かけることも増えてきた。
2007年10月、新倉敷から三原まで0系のこだま号に乗った。普通列車乗り放題の「鉄道の日記念切符」を使った旅行の中で、この区間だけあえて乗車券と特急券を購入しての利用だった。99年、02年に乗ってはいるがいずれも夜間だったので、景色を見ながら乗車するのは実に十数年ぶりのことだった。なかなか乗らない加速、沿線風景を目で追えるスピード。トンネルの出入りを繰り返しつつ淡々と進む様子は、まさに幼少の私が胸高鳴らせて乗ったそのもの。駅を通過することなく、停まっては後輩たちに道を譲る様だけは、当時と異なっていた。
それから間もなくして、ついに0系定期運転の明確なリミットが示された。2008年11月末。
朗報だったのは、08年4月以降、最後まで残る0系3編成が国鉄時代の塗装に戻されるというニュースだった。既に6両編成になってしまった0系に、往年の姿の再現は不可能だが、今できる精一杯の復元であったろう。グレー編成では「何か違う」という印象しか残らなかったと思う。
しかし3月の改正で、0系の列車はさらに数を減らしてしまった。ダイヤを辿ると、3編成でぎりぎりまわせる運用である。つまり1本でも潰れてしまうと、もう台無しになる。100系などで差し替えは利くと思うが、0系目当てで乗る人や撮る人はがっかりするだろう。古い車両だけに、保守にはさぞかし気を遣ってきたのではないかと思うが、裏を返せばそれが、0系という車両の持つ信頼感だったのかもしれない。
関西で0系を見られる機会は実質朝だけになってしまったので、早起きして西明石駅などに出向く機会が多くなった。同駅は私にとって「穴場」的存在だったが、4月以降は休日を中心に撮影者が目立つようになった。夜明けの早い夏期には早朝の走行風景もとらえられたが、秋が深まるにつれてそれも難しくなってきた。そして11月ともなると世間の注目も増し、惜別ムードは日増しに高まっていった。
「最後の日々」の項に上げている写真には「こだま639号」が多いが、これは時間帯が比較的遅いことに加えて、西明石・姫路でそれぞれ10分程度の停車があるため、撮影がしやすかったという理由がある。西明石は新大阪を出て初めての長時間停車、姫路ではN700系2本に抜かれるとあって、両駅では車内の乗客も降りてきて、撮影会のようになっていた。11月10日には、この639号に西明石から姫路まで乗車した。
私にとって0系最後の乗車となったのが、11月22日。定期運用終了まであと9日と迫ったこの日は土曜日。出発点として選んだのは、やはり新神戸だった。ただし、かつて帰省の列車を待ち受けた下りホームではなく、上りホームで新大阪行きの「こだま620号」を待つ。神戸トンネルが明るくなってきたなと思うと、まもなく勢いよく出てきた6両編成は、そのままホームの真ん中に滑り込む。昔はもっとゆっくりと入ってきた記憶があるが、新型車にペースを合わせるためには、これくらいの走りが要求されるのだろう。あるいは、自分の時間の感覚が昔より随分速くなってしまったせいか。
方向こそ反対だが、発車後すぐにトンネルに入り、加速してから市街地へ飛び出す快感は、ここでも味わえた。まもなく終着を知らせるチャイムが鳴り、列車は速度を落として大阪の市街へと進んで行く。ただ速いだけではない、どこか懐かしい走り。終わってしまうのが名残惜しいが、列車は定刻通り新大阪駅に到着する。
その新大阪駅には、0系の到着を迎える人々が詰めかけていた。当日の新聞記事によれば、その数300人。折り返しこだま639号となるこの列車に乗り込んだ人も多かった。普段、この種の引退騒ぎとなると、集うのはいわゆるマニアという図式だが、さすがに昭和39年からのおなじみの形がなくなるとあって、最後にひと目見ておこうという家族連れや年配者などの一般客が目立つ。こうしてみると、やはり0系は「ハレ」の乗り物だったのだなと思う。
2011年、山陽新幹線全通から36年の歳月を経てようやく、その線路は博多より先に伸び、ついに鹿児島までつながることになっている。鹿児島本線などで機関士を務めていた母方の祖父は、私が生まれたころはまだ現役だったが、九州新幹線の新八代以南が開通する前年に亡くなった。工事中の新幹線の高架が窓から見える病院だった。
その線路に0系が達することはなかったが、直通列車用の車両(N700系7000番台)は08年10月から山陽区間で試運転を開始しており、わずかな期間だが0系と同じ線路の上を走ったことになる。11月30日、営業運転を終えた0系が、終点博多でその新型車両と顔を合わせるという演出もあったという。そして、残すは12月6,13,14日の、「ひかり」としてのさよなら運転のみとなった。
12月13日。0系「ひかり」の最後の見送りは、私と新幹線との出会いの「原点」であるこの駅でと決めていた。「ひかり347号」は往年の姿を再現すべく、今では「のぞみ」を含めたすべての列車が停車する新神戸を通過する。ところが仕事の都合で遅くなり、渋滞にも巻き込まれて、これはだめかもという状況に。それでもなんとか駅にたどり着き、下りホームに上がったのは、通過予定の8分ほど前のことだった。すでに、柵に沿って人々の列ができていた。
今では普通聞けなくなった、通過を予告するアナウンスが3度ほど流れ、六甲トンネルの中が明るくなったかと思うと、すぐにあの丸鼻が姿を現した。あっという間に近づき、巻き起こる風とともに目の前を走り抜ける。6両編成の通過は一瞬で、振り返るともう、赤いランプは神戸トンネルの中に消えようとしていた。自分自身の慌ただしさも手伝ってのことだが、「ひかり」の名にふさわしい、閃光のような別れだった。
44年の長きにわたって、(色は変わった時期もあったが)同じ顔で走り続けたパイオニアは、次代の担い手たちを見届けて、山陽新幹線の終点・博多で現役生活を終えた。2008年12月14日、18時01分の到着。