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4.飯田線走破 |
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岡谷のホームに降り立つと、その前方頭上には、両側の山々を渡す格好で、長野自動車道の巨大なコンクリート橋がそびえている。線路だけでなく、街そのものが見下ろされているかのようだ。クルマ社会の優位ぶりを象徴するかのような光景。これから飯田線に入る、2両編成の電車は、すでにホームにいた。
出発まで30分ほどあり、車内で待つことにする。時刻はまだ10時前だが、先刻小淵沢で手に入れた「元気甲斐」に手を付ける。朝の始動が早いのでそろそろ空腹を覚えてきたし、客が増えると機を逸する可能性もある。しかも今回はせっかくの名物駅弁、じっくりいただけるうちに、と思う。
心して、開封。まずは2段重ねの上段。同封のお品書きによれば、以下の八品。
少しずつ多彩なおかずを詰め合わせ、懐石料理の風情。それぞれに手がかかっているのだろう。どれかひとつでも十分おかずになりそうだ。特にくるみ御飯は、味付けも見栄えもよく、こんな調理もあるのかと感心する。
幸せな気分に浸るうちに、電車は岡谷を出発する。まずは塩尻方面に向かう中央本線と分かれて貧相な単線へと入ってゆくが、籍の上ではまだこちらも「中央本線」である。1983年に、トンネルで短絡する現本線が開通するまでのメインルートだった。諏訪湖から流れ出す天竜川に沿って谷間を進み、辰野へ。本来はここが、中央本線と飯田線の分かれるジャンクションだったが、その意味合いは薄れてしまっている。ともあれ、これより豊橋に向け、195.8km、6時間超に及ぶ一本道の旅が始まる。
地図を見れば、飯田線は途中の中部天竜まではおおかた天竜川に沿っている。このうち、この電車の終点である天竜峡までは、伊那谷とよばれる、幾分広い谷であり、その先は一転して狭い谷となっている。地図と、事前情報からわかるのはそこまでで、これから実際にどんな風景が繰り広げられるのかが楽しみだ。
飯田線は昨日の大糸線 松本〜信濃大町間と同じく、私鉄を国有化した路線であり、ホームの短さや、こまごましたカーブの多さなどにその名残がある。特に、駅の頻度が顕著で、平均して約2kmにひと駅の割合。間隔が1kmに満たない区間もある。スピードが出る前に次の駅に着いてしまい、なかなか前に進まない。寝つきの悪かった車中泊の疲れが出て少し居眠りし、目が覚めれば伊那市付近。時刻表の上では10駅近く、それでも距離的には辰野からまだ15kmほどだ。
地図で見ると、南下する線路の東側には南アルプス、西側には中央アルプスが並行している。つまり、左手の山脈の裏には先の中央東線、右手の山脈の向こうには昨日たどった中央西線が走っていることになる。感覚的には相当遠くに来たと思えるのだが、それも山の表裏に過ぎないと思うと、改めて不思議な気がする。
それぞれの山脈を代表する甲斐駒ケ岳(2966m)と木曽駒ケ岳(2956m)が、このあたりで対峙することになる。ただし「甲斐」のほうは、どれがそれかはっきりしない。「木曽」のほうは、駒ヶ根の市街地のバックに、両腕を広げるかのようにそびえている。こちらを顔とするならば、昨日上松で山の間にのぞいていたのは「後頭部」だったことになる。空は曇り、雨の近い雰囲気になってきた。
駒ヶ根を出てしばらく進むと、妙なことに気付く、東側の天竜川が離れ、谷が左手の下方へ向かい、飯田線は木曽駒ケ岳のふもとの高台へと移ってゆく。そして伊那福岡を過ぎたところで、列車は右側に急カーブを描く。なぜこんなところでと思っていると、中央アルプスから天竜川へと流れ込む川の谷に阻まれて、山側へと迂回しているのだ。川ひとつわたるのに、わざわざΩ形に回り込む。それほどにこの谷は深く、高低差がある。
しかし、その川の上流部を見れば、中央自動車道のものと思われる立派なコンクリートの橋が、その谷をものともせず、一直線に渡っている。こちらは「伊那電気鉄道」という一私鉄が昭和初期に通した線路、あちらは先進国ニッポンが巨費を投じた道路。違っていて当然ではあるが、岡谷でのあの光景に続いて、鉄道派の当方としては複雑な思いがする。
痩せ線路 負けるな僕はこれにあり
小林一茶の心境である。なお、一茶は信州(北部、野尻湖近く)の出身らしい。
そんなカーブを二度三度と繰り返す。初めての路線でもあり、自分の貧しい把握力と想像力では、今どういうところを進んでいるのか、つかみきれない。隆起・浸食を繰り返して形成されたのであろうこの地勢、風景そのものはのどかなのに、実にダイナミックだ。電車は谷が来れば迂回し、斜面にへばりつきながら越えてゆく。このありさまを俯瞰する目がほしい。
アルプスの裾に何とか食らいつく
やがて列車は急な下り勾配にさしかかる。どんどん下り、気が付けば、さっきまであんなに下方に見えていた天竜川が目の前だ。
飯田で、あまり多くなかった乗客の大半が入れ替わった。飯田線の旅もおよそ三分の一に達したことになるが、まだまだ先は長い。正午を過ぎ、また小腹が減ってきたので、「元気甲斐」の残る下段に手を付ける。こちらの内容は以下の通り。
こちらもすべてが旨く、特に鶏が美味だったが、全体としては上段のほうが口に合っていたように感じられた。帰って調べてみると、上段は関西風、下段は関東風でまとめられていたそうで、納得した。
満足のうちに「元気甲斐」を食べ終えるころには、伊那谷も狭まり、この電車の終点である天竜峡が近づいた。谷を深くえぐってきた天竜川も、このあたりでは普通の姿。だが間もなく、この川の別のさまを見ることになる。
飯田線の拠点のひとつであり、その名のとおり、名勝「天竜峡」の玄関口である天竜峡駅。たいして大きな駅ではないが、こじゃれた駅舎を構えている。次の列車までの約1時間が、ここでのフリータイムとなる。
駅を出て少し歩くと、天竜川にかかる橋がある。見下ろすと、狭い岩場に囲まれ押し寄せる水の流れ。それが下流側では、そそりたつ両の絶壁の間に集められて、まっすぐに進んでゆく。近くには「川下り」の船着き場がある。ただし時期も時期、しかも正月とあって、人も船もいない。
ほぼ垂直にそそり立つ双璧の真ん中を流れる川、その水面は深緑色の鏡のような様。この色は、昨日「寝覚ノ床」で見たのに似ている。澄み切って淀みがないぶん、一層冷たげだ。この水をテーマに、二つの句を。
急流の動きも鈍る重い水
山あいに冷たさ秘めて沈む水
絶壁には、針葉樹の濃い緑と、枝だけになった広葉樹の枯れたような色がまじりあう。険しい岩場にも、木々がたくましく根付いている。冬のこのわびしげな姿も風情なのだろうが、ここはやはり新緑や紅葉の季節にこそ、来てみたい所だ。
駅に戻り、ここから中部天竜までの乗車券と特急券を購入する。この区間は普通列車の本数が極端に少なく、1日9往復。それで、ここだけ特急「伊那路」を利用することになる。特急としては短い3両編成だが、飯田線では十分なのだろう。
天竜峡を出るころから、ついに雨が降り出した。天竜峡駅を出るとすぐにトンネルに入り、出た先はもう、天竜川の峡谷。下車せずに列車だけ乗りとおしていたなら、それ以前からの車窓の豹変ぶりに面喰っていたことだろう。
道理でこの区間、普通列車が少ないわけだ。谷の大部分を川が占め、集落と呼べるものは駅の周囲にわずかに認められるばかり。川が蛇行を繰り返すため、列車は川の脇すれすれを進んでいたかと思うと、すぐにトンネルに入る。この繰り返しだ。
はっとしておもてを見ればすぐ闇に
列車の進み具合は、駅を通過するのと、特急なりに静かなのを除けば、これまでの普通列車と大差なく、のんびりとしている。この「伊那路」はもともと、JR化ののちに設定された臨時急行だったのを、1996年に毎日運転の特急に昇格したもの。そのさいに新型の特急車両に置き換えられ、2往復体制となった。こうして出世したものの、元来飯田線は、特急がガンガン走れるような路線ではない。「急行」で置いておくのが妥当だった列車にも思える。
天竜川の流れは、車窓から見る限りは意外と緩やかで、時折ダム湖とみられる幅の広いところもある。天竜峡で見たと同じ、深緑色の水をたたえ、山々を映す大きな鏡のようになっている。雨が次第に強くなり、谷の景色も一層沈んで見える。外から見ればこの電車の足音は、その雨音をひと時かき消す、アクセントのような存在なのだろう。
特急なので小さな駅は通過するが、そこにも人の生活がある。鈍行の数は少ないが、住民にとっては貴重なライフラインの一つなのだろう。「秘境」の雰囲気に興味は尽きないが、それにもまして睡魔が強烈に襲ってくる。中部天竜に着くまでの、特に後半は、眠気との闘いだった。
中部天竜駅には、「佐久間レールパーク」が併設されている。もとの車庫跡に古い車両を集め展示しているもので、週末や夏休みなどには解放され、一部の車両には立ち入ることもできるそうだ。その時期には大勢の家族連れやファンでにぎわうことだろうが、もちろんこちらも正月休み中。人影はない。
次の普通列車までの少しの時間、改札を出てみたが、駅前は山に囲まれた集落で、谷間に響く激しい雨音に気が滅入る。雪ならまだ風情もあろうが、このあたりがやはり暖冬傾向なのだろう。駅に置いてあった、レールパークのパンフレットだけを取って、駅内に戻る。ここを実際に訪ねられるのは、いつの日か。
飯田線の旅、残りは62.4km。まだ全体の3分の1弱を残している。あとは暗くなる一方の豊橋までの道のりを、2両編成の鈍行で2時間かけて乗りとおすことになる。天候がこのありさまだから、蓄積された疲れと相まって、いささか憂鬱な気分になる。
そんなところへ、車掌がオレンジカードの販促にやってきた。JR発足後しばらくは、こういう販売が積極的に行なわれていたが、最近あまり見なくなった。それでも飯田線は、レールパークをはじめとしたファン向けの企画の多い路線なので、ほかよりも熱心なのだろう。少し考えて、急行時代の「伊那路」と、現在の特急「伊那路」の並ぶ図柄の1,000円券を購入した。すると後で、車掌が再び訪れ、お礼にと飯田線の折り畳み時刻表をくれた。もう飯田線を後にする身だから、使うことはないが、ありがたく受け取っておく。
引き続き峡谷が続くものの、すでに天竜川からは離れ、峠を越えて豊川水系へと移る。静岡県から愛知県、昔の国名でいえば、徳川将軍家発祥の三河。本長篠、長篠城という駅名を見れば、織田・徳川軍が武田軍を破り、甲斐武田氏滅亡の契機となった長篠合戦を連想する。
雨に煙る山をぼんやり見る家路
列車は相変わらず、少し走っては停まり、を繰り返す。だがそうするうちにも、周囲の山々はなだらかになり、谷川も線路から離れてゆく。着実に、太平洋側に近づいてきた。遠くに認められた雪山の姿も、ここにはもうない。
雪山が消えて旅の終わりを知る
外はしだいに暗くなり、あまり乗客は増えないまま、正月の飯田線の旅は終わりに近づいた。ひたすらのんびり進んできた電車が、ようやくいくらか飛ばす走りを見せだすころには、もう豊橋が近い。
豊橋到着は17時10分。6時間36分にわたる一本道の旅は、期待とともに始まり、いささか食傷ぎみに終わった。
ひとつやりとげたという達成感と同時に、既に暗くなった中を、まだ延々と神戸まで帰らなければならないのかという気の重さが加わる。豊橋から大垣行きの新快速に乗り込み、少し気を許すと、気付けばもう名古屋だった。外を覗くと、雨に濡れた道路に、街灯や車のヘッドライトが映し出されている。
新快速 はやる気持ちを後押しす
大垣では、冷え込むホームで20分待ち。立ち食いそばの類の、温かい食べ物をと思ったが、店が開いていなかった。仕方なく売店でパンを買い、食べながら関ケ原越え。
米原で、まる一日ぶりのJR西日本区間に戻る。車両もおなじみの221系。そして、車内に響く会話の響きに、「関西に戻ってきた」との実感を覚える。やはり自分が関西人であったということ、そして1日半身を置いてきたのが、自分にとって異質な世界であったことを感じる瞬間である。
大阪を過ぎれば、神戸は間近。震災からまもなく3年。歯抜けになってしまった街は、今も回復途上だ。それでも、この街の灯は自分にとっては独特のもの、まさに旅の終わりを印象付けるものだ。
手元には、旅の行程で携帯してきたメモノートがある。見返すと、書き連ねた「旅の句」はここまで41。一瞬の思い付きで書き付けたものもあれば、推敲を重ねて何度も書き直したものもある。いずれもその一つ一つに、その瞬間における生の感情が反映されていて面白い。最後に、42番目の句を。
我が旅路 句を見返して思い出し