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2004年10月31日 道場→和歌山→王寺→天王寺→加古川→谷川→道場 |
JRの都市圏には運賃計算の特例がある。「近郊区間」とよばれるエリア内では、乗車経路が重複したり同じ駅を二度通ったりしなければ、乗車駅から降車駅までの最も安い経路で運賃を計算する、というものだ。たとえば大阪から関西本線の木津駅へ行く場合、最短ルートは片町線経由(49.0km、820円)だが、実際には「大和路快速」に乗って大阪環状線と関西本線を辿るほうが便利だ。このルートだと大阪〜木津間は55.2km、距離から算出した運賃は950円になるが、特例によって820円の切符で済む。
この制度は本来こういう状況を想定したものだが、それを利用した裏技として「大回り乗車」という乗り方ができる。一筆書きのように、同じ駅を通らないようにできるだけ長い距離を安い切符で乗り通すというものだ。もっとも、途中では駅改札を出ることができないので、せいぜい駅構内をうろうろするくらいしかできない。つまり、「できるだけ長い間乗っていたい」という電車好きの道楽にほかならない。
今回はこの制度を利用して、和歌山線と加古川線という2つの路線を乗り通してみたい。いずれも「大阪近郊区間」に含まれてはいるが、その外縁にあたるローカル色の濃い路線だ。奈良県の王寺と和歌山を結ぶ和歌山線はほとんどが初の利用。加古川線は12月の電化前にディーゼルとして最後の乗り心地を味わっておきたい。
今回の予定だが、まずは道場からJR東西線の新福島へ向かう。徒歩で大阪環状線の福島に乗り換え、そこから道場へ戻る切符で和歌山線、加古川線を巡る。大きく8の字を描く回り道ルートだ。もっと距離を稼げる経路も組めるが、今回のメインは和歌山・加古川の2路線なので、そこを重視する。
宝塚で東西線直通の快速に乗り換え、尼崎から地下に潜って新福島へ。地上に上がると、環状線の福島駅は目と鼻の先だった。これなら同じ駅扱いにしてもよさそうなほどだ。
オレンジ色の旧式電車に揺られて大阪環状線を進み、天王寺へ。ここから阪和線に乗り換えるが、いつもながらこの駅は構造がわかりにくい。トイレを探して右往左往し、その後阪和線のホームへ向かう。
8両編成の前5両は関西空港行きの「関空快速」、後ろ3両が和歌山行きの「紀州路快速」。これから目指すのは和歌山だが、阪和線ホームが行き止まり式の櫛形になっているせいか、前へ行くほどすいており、前から2両目に席を見つけた。
天王寺を出てしばらくすると、地平へと下る。ただし、横では高架化工事が進められており、上り線は杉本町まで高架に移っている。下り線もじきに移行するのだろうが、過密ダイヤで「開かずの踏切」も多いという阪和線、根本的な解決への道は遠そうだ。
和泉府中を過ぎると、ところどころ田園風景になってくる。電車の走りも、どことなく伸びやかになる。女性車掌のアナウンスがたどたどしく、素人っぽい。見習い期間なのだろうか。
日根野で「関空快速」と「紀州路快速」が切り離される。このまま乗っていると関空へ連れて行かれてしまうので、後方の和歌山行きに乗り換える。乗り込んだ3両編成は結構な混み具合。これなら両数を逆にした方がよさそうに思える。
和泉砂川から山を越え、大阪府から和歌山県へと移る。和歌山駅の手前で紀ノ川を渡る。これがこの後、和歌山線を進んで行くにあたって、車窓の友になる。ただ、下り坂という予報にたがわず、空には雲が広がってきた。
和歌山からは、いよいよ和歌山線に入ることになる。時刻表を見ると駅は多く、そこを走るほとんどの列車が律儀に各駅に停車する。例えば、次に乗る列車は、高田から桜井線に入る奈良行きで、100キロ超の区間に3時間超を要する。電化されているとはいえ、実態はなかなかのローカル線に思える。
予想されたことだったが、その電車というのは、旧式の通勤電車を2両編成に改造した105系だった。前後で先頭の形状が違い、先頭側は103系に貫通扉を取り付けたような幌付きの顔、後方は窓周りの黒い、パンダのような顔だ。
国鉄の頃、奈良線で乗った105系には冷房すらついておらず、乗り心地も悪くて、ひどい電車だなと子供心に思った記憶がある。今ではさすがに冷房はついたが、外観は当時とほとんど変わっていない。和歌山線の電化は1984年のことだが、国鉄末期にてこ入れされたところでは、間に合わせで入れられたのが、そのまま居ついてしまっているケースが多々ある。ロングシートのこの電車に2時間以上延々と乗らねばならないと思うと正直気が重いが、他に選択肢がないので仕方ない。
和歌山線の105系と、紀勢線の新たな顔、オーシャンカラーの117系
電車は和歌山を出ると、大阪側に戻る格好で少し北へ進み、そこから大きく右へカーブして阪和線と別れる。しばらくは東へ向けて、無人駅を拾いながら、ほぼまっすぐ進む。紀ノ川の南側の田園地帯だが、景色は単調だ。モーターのうなりと、線路からの振動が激しく伝わる。
船戸を出ると、まもなく紀ノ川を渡る。その流れは濁流になっている。この先も線路はしばらくこの川に沿って進むことになるが、渡るのはこの1回きり。つまり今後は常に、和歌山線は紀ノ川の北側を並行する。渡った先は岩出駅。街の中に位置し、和歌山を出て初めての有人駅。ここで乗客のかなりが下車した。
しばらくは紀ノ川から少し離れる。沿線はさらにのどかになり、果樹園も目立つ。粉河(こかわ)は3線を有する駅で、ここで日中の列車の半分が折り返す。この先はほぼ1時間おきの運転だ。ちなみにこの電車はワンマン運転で、乗り降りは基本的に1両目だけで行なわれるので、自分が乗っている2両目の車両は人の出入りが少ない。
平地が狭まり、西笠田では一旦紀ノ川が間近に近づいてくる。駅の間隔は狭いがスピードは結構出ている。体感的にそう思えるだけかもしれないが。
川を隔てた南側に高い山々が連なる。有名な高野山はこの方向なのかと思っていると、高野口という駅に着いた。駅名からして、もとは高野山の玄関口として栄えたのだろう。しかし今では、無人駅になっている。和歌山から約1時間、減り続けていた乗客が再び増えてきた。おそらくこの先の橋本で南海線に乗り換える利用者だろう。流動の「分水嶺」を越えたことになる。
その橋本はJRのホームと南海高野線のホームが横に並び、跨線橋で結ばれている。南海はここから、一方は大阪・難波に直結し、もう一方は高野山方面へと達している。長いホームを持て余し気味に、国鉄時代製の野暮ったい電車が2両停まるその隣に、ステンレス車両の難波行き急行が並んだ。ここでの両者の力関係は、この光景を見てのとおりなのだろう。この駅で乗客はほぼ総入れ替えになった。
山にかかる雲が厚くなった。天候は悪化の一途で、今日いっぱいもつかどうか怪しくなってきた。隅田(すだ)を最後に和歌山県を離れ、奈良県に入ると同時に、紀ノ川は吉野川と名を変える。その吉野川から離れて高台に上り、五条へ。9分の停車で、ここでも客は大きく入れ替わった。時刻表のうえでは一続きなので、これで3時間通すのかと思っていたが、実際に乗ってみると実質は橋本や五条といった拠点で区切られた列車なのだと気づく。105系は決して長旅向きの車両ではないが、自分のような乗り方のほうが特殊なのであって、‘通常の’利用にはこれでよいのだろう。
和歌山からの長きにわたる紀ノ川(吉野川)との道連れの旅もここでお別れとなる。和歌山線は北へ向きを転じて吉野川の谷を離れ、登り勾配にかかる。そして北宇智駅へ。ここは近畿二府四県で唯一という、スイッチバックを有する駅だ。
勾配区間のスイッチバックには2種類あり、ひとつはあまりに勾配がきつい区間で距離を稼ぐためのスイッチバック。これは今のJR線でいえば、出雲坂根(木次線)と立野(豊肥本線)の2箇所しかない。もうひとつは、勾配区間に駅や信号場を設けるためのもの。SL時代には坂の途中で列車を停めるのは危険だったので、平坦な引き込み線を設けて一旦そこに入れるようにしたのだ。車両の性能が向上した今となっては、この手のスイッチバック線は必須ではなくなり廃止される傾向にあるが、篠ノ井線の姨捨や土讃線の坪尻・新改、肥薩線の大畑・真幸などにまだ残っている。
北宇智のスイッチバックも後者の部類で、五条方面から来ると、まず駅の脇を通り越して引き込み線に入って止まり、そこからバックしてホームに入る。その後再び前進して駅を出、本線に復帰する。変化に乏しい和歌山線の旅の中で、貴重なアクセントとなるシーンだった。(注1)
山を越え、吉野口へ。こんどは、近鉄吉野線の駅が横に並ぶ。近鉄のテリトリーに入ってきたということは、奈良に近づいてきたということでもある。ほどなく、奈良盆地へ向けて谷がひらけ、列車もスピードを上げる。2時間余にわたった、乗り心地の悪いロングシートの旅もあと少し。ほとんどが単調な旅程だったが、ある種の達成感と、なんともいえない疲労感が募ってきた。
この電車は高田から桜井線に入るので、JR難波行きの区間快速に乗り換える。車両はこれまでと一転、クロスシートの静かな電車で、まるで特急にでも乗った気分になる。
この列車で王寺までゆけば、とりあえず和歌山線全線を乗り通すことになる。ここで今後のスケジュールを確認して、困ったことに気づいた。当初の計画では、王寺から奈良・京都を経由して加古川に向かい、加古川線を攻略するつもりだった。だがこのままそのルートで乗り継いでゆくと、どうも加古川線にうまくつながず、加古川線走破までに日が暮れてしまう。出発前に一応つながることを確認したつもりだったが、どこかで何かを勘違いしたのだろう。
もうひとつ試しに、奈良から片町線を経由する方法も検討したが、これでも間に合わない。となると、王寺からそのまま、大和路線を経由して大阪を目指すしかないが、これだと天王寺で切符のルートが一巡してしまい、まずいことになる。結局、天王寺の一つ手前の東部市場前駅で下車し、一旦ルートを切ることにした。
王寺で和歌山線の旅を終え、同じ列車に乗ったまま大和路線に入る。区間快速は東部市場前に停まらないので、久宝寺で普通電車に乗り換える。久宝寺は大阪外環状線の接続駅となる予定の駅で、受け入れの工事が進められている。(注2)
天王寺手前の東部市場前駅で下車し、福島からの切符が回収される。ここからもう一度、道場までの切符を買わなければならないから、そのぶんが損になるが、和歌山線であれだけ電車に乗ったのだから、距離の点では十分すぎるくらいだ。駅を出たところで、「大玉」という触れ込みで売られていたたこ焼きを、昼食用に購入する。8個で360円。
仕切り直しでホームに戻り、大和路線から大阪環状線を経由して大阪へ。
大阪駅では幾らか時間がある。コンコースに降りると、さすがに人の流れが半端ない。今日はこの駅で、JR西日本のICカード「ICOCA(イコカ)」の1周年記念イベントがあったようだ。前もって機械で金額を「チャージ」しておき、自動改札でカードを触れさせれば、乗った分だけが引かれてゆくという、新しい形式のプリペイドカード。使い切りタイプの「Jスルー」カードに代わって、今後普及してゆくと思われる。イベント自体は終わっていたが、構内では今もICOCAの販売が行なわれている。
あまり日常的にJRを使うわけではないが、「ひかりレールスター」の携帯ストラップがもらえるというので、このさい購入してみる。2,000円のうちチャージ額は1,500円で、残りの500円はカードを返還すれば戻ってくるらしい。貸家の敷金のようなものか。
ここからは新快速で加古川を目指す。大阪駅の混雑からすると、意外にも列車はすいていた。そこで、さきほど購入したたこ焼きを食す。ソースのにおいが漂うのが若干気になりつつだった、見た目の通りのボリュームで、満足感があった。買ってから1時間ほど経過しており、もうすこし温かいうちに食べられたらよかったが、旅先での食事はタイミングが難しい。
須磨を過ぎると海が近づく。雲が厚く垂れ込め、水平線はぼんやりしている。この天候ではせっかくの明石海峡大橋も冴えない。舞子からしばらく、海側に山陽電鉄の線路が並ぶ。普通列車をあっというまにとらえ、追い抜いて行く。
加古川駅では、数年前から高架化工事が行なわれている。昨年5月に神戸線のほうは高架ホームに移ったが、ここから分かれる加古川線は今年12月の移行に向け、目下工事中だ。そしてこの切り替えと同時に、加古川線は電化されることになっている。
上り線ホームから新しい加古川線ホームの様子がうかがえる。以前はついたてで目隠しされていたが、今は取り払われ、すでにほとんどが完成していて看板なども取り付けられているのが判る。そのホームは神戸線のと比べると極端に短く、幅が狭い。加古川線は4両編成が最長だから短いのは当たり前として、出発点・終点となるべき駅がこの狭さときては、電化してもこの程度の利用だろうと高をくくっているように思えてならない。電化を集客のチャンスにするんだ、というくらいの気概が欲しいものだが、しょせんこれが現実なのかなとも思う。
現状、加古川線は孤立した状態で、地平の仮ホームから発着する。出発を待つ谷川行きは1両のディーゼル車で、深緑色の車体に既に大勢の乗客を乗せている。
実は、加古川線は私にとっては、国鉄時代から比較的身近な路線だった。小学生時分、友人と神戸電鉄と加古川線を乗り継いで、加古川駅に列車の写真を撮りにきたことがあり、朱色の気動車など、そのときの写真が今も残っている。また、母が加古川にいた知人に会いに行くのに付いて、今では三木鉄道となっている三木線から加古川線を乗り継いだが、帰りは厄神での接続が悪く、何もないホームで長く待たされた記憶がある。
そのときの印象は、「ものすごいローカル線」というものだったが、その様子は近年まであまり変わらなかった。現状、大阪から在来線で最も速く到達できる非電化路線であり、大阪近郊区間内でここのほかには関西本線の柘植〜加茂間しかない。しかし1995年の阪神・淡路大震災で阪神間の交通網がことごとく寸断された間、迂回経路として活用されたことなどから、電化というかたちでテコ入れされることになった。
電化への動きが始まってから、私は頻繁に沿線に出かけて様子を記録してきた。線路際に架線柱のポールが立ち、架線が張られ、ホームは電車に合わせるために嵩上げされた。この夏からは電車の試運転も始まった。しかし意外にも、これまでに起点から終点まで全線を乗り通したことはなかった。それで、電化前のディーゼルへの惜別として、今回の乗り通しを企てたのだ。
列車は満員で、自分はトイレの真ん前に立たされる羽目になる。厄神までは加古川市内にあたり、利用も多い。ここで1両でのワンマン運転というのは無理がある。降車客のチェックも到底目が届くまい。電化を機にこうしたアンバランスさが是正されればと願うが、JR西日本のことだから、これをきっかけにさらに減量してしまうのではないかと思う。列車の動きは緩慢で、暑い。
和歌山線は大半が紀ノ川に沿っていたが、加古川線はその名の通り、播磨平野を流れる加古川に沿っている。昔はその支流に沿って、三木線・北条線・鍛冶屋線という支線があったが、いずれも廃止か第三セクター化され、JR線としては加古川線を残すのみとなった。元三木線の三木鉄道と接続する厄神を過ぎると、日中1時間おきの運転となる。
厄神を出るとまもなく加古川を渡るが、河原の草木がことごとく横倒しになり、ゴミが散乱している。つい先日、10月20日に台風23号が記録的豪雨をもたらし、この加古川流域にも大きな被害が出た。今年は希に見る台風の当たり年だったが、そのとどめとも言えるものだった。(しかもその直後の23日には新潟県中越地震が発生した。)私自身、当日はその豪雨の中屋外で仕事をしていたのだが、その間にこの河川敷を満たすだけの水が一気に流れ下ったのかと思うと、ぞっとする。
そのときと比べれば実にかわいいものだが、ついに雨が降り出した。神戸電鉄や北条鉄道(もと国鉄北条線)が接続する粟生(あお)からは学生が増えてきて、車内が賑やかになる。自分が電車で高校通学していた時代を思い出す。社町、滝野でその大勢が下車し、列車は西脇市に到着する。
ここで17分ほどの小休止を挟む。かつては野村駅とよばれ、鍛冶屋線と分岐する要衝だった。鍛冶屋線のほうが西脇の中心地に達していたので、実態としてはそちらがメインルートだったのだが、杓子定規な基準に基づいて鍛冶屋線が廃止されてしまい(各地で廃止反対運動が起きていたその時代、問答無用で通さないと話がまとまらなかっただろうから、仕方ない面もあるが)、野村改め西脇市駅が代わりの中心駅となっている。その名残で、ほとんどの列車はここ西脇市で分断されている。下り列車で加古川から谷川まで直通するのは、今乗っている1本だけだ。
時刻は15時半を過ぎたところだが、外はかなり暗い。「つるべ落とし」と呼ばれる秋の日の短さに加えて、この天候が雰囲気を重くしている。西脇も台風23号の被害が大きかったと伝えられるが、駅周辺にはその様子は見受けられない。もっとも改札を出ることができないので、それはホームから確認できる範囲にすぎない。
加古川を出る頃にはあれほど人で一杯だった車内も、もう閑散としている。客が増えたり減ったりを繰り返した和歌山線と比べて、加古川線は基本的に、北上するほどに客が減ってゆく一方的な流動だ。これは経営上不利な条件であり、だから加古川近郊であれだけ混雑していても、おいそれと車両を増やせないのだろう。特に西脇市から谷川に至る区間は、休日ともなると1日8往復。列車は1両で、常に空いている。「播磨」と「丹波」の境でもあり、人の流動そのものがごく限られていると思われる。鍛冶屋線をつぶしてこちらを残した判断は、この現状を見る限りは大失敗なのだが、谷川につながっていたおかげで代替経路として機能し、電化にまでこぎ着けたのだから、皮肉なものだ。
車体は軽くなったはずだが、列車はあいかわらずのっそりと進み出す。すぐに加古川を渡るが、こちらも荒れた雰囲気を残し、空の暗さと併せて不気味だ。
日本へそ公園とは奇妙な駅名だが、これは北緯35度・東経135度の交点を「日本のへそ」と名付け、周辺を公園として整備したもので、駅もその一角にある。谷川行きの列車から見て左前方に、その交差点の石碑がある。ちなみに、これは和歌山線にもいえたことだが、川に沿って進む路線の割に、川が間近に望める区間は意外と少ない。平地が緩やかに広がっているので、あえて川沿いに線路を引く必要がないためだが、加古川線で停車中に川が見渡せたのはここくらいのものだった。
外はますます暗くなり、もう日暮れの雰囲気だ。雨は本降りになり、稲光もしている。1995年、代替路線として活躍していた加古川線とは、どんな様子だったのだろうか? 直接的ではないにせよ、身近なところで被災していた自分に余裕はなかったし、多くの人が不便を強いられ、不要不急の外出がはばかられたその時に、興味本位で様子を見に行くことなど、不謹慎に思えてとてもできなかった。そうした過程を経て、まもなく加古川線には電車が走ろうとしているのだが、願うのはもちろん、二度とそういう用途でこの路線が使われないように、ということだ。
激しい雨の中、加古川から1時間40分ほどで、終点の谷川に到着した。2両分だけが嵩上げされた加古川線のホームには、カーポートのような簡素な屋根がついているが、その一部が割れている。これも、度重なる台風襲来の爪痕だろうか。
あとは福知山線に乗り換えて帰路を目指すのみだが、駅を出られないのでホームで待たねばならない。空の暗さと山間の雨音が、もしここで動けなくなったら、という不安をかき立てる。篠山口ゆきの電車は3分遅れで入ってきた。
谷川から篠山口にかけては、加古川の上流にあたる篠山川の渓谷を進む。谷向かいの道路は崩落しており、列車も時折徐行する。とにかく早く抜けてくれと願う。
篠山口、新三田で乗り換えて、道場駅に帰ってきた。もう外は闇。ここの改札には駅員もいないし自動改札機もない。東部市場前からの切符を据え付けの回収箱に投じ、紆余曲折を経た大回り旅行の締めくくりとする。