1.実りの季節の山陽路

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 10月14日、鉄道の日


 2002年10月14日
 加古川→備中高松→浦田→広島→三段峡→広島→加古川

  今回は加古川から、山陽本線を西に向かうことになる。使用するのは「鉄道の日記念 西日本一日乗り放題きっぷ」。JR西日本エリア内の普通列車を1日利用できるもの(3000円)で、97年の紀州旅行、99年の近畿ミニループ旅行、2001年の2日がかりの山陰旅行に続いて4度目の使用。

  この「鉄道の日」というのは、日本初の鉄道が新橋〜横浜間に開業した日付(明治5年10月14日。ただし、太陰暦だった当時の暦では9月12日)に基づいている。近年、JR・私鉄を問わず、この期間にあわせたイベントが数多く行われるようになったが、今年の10月14日は、「十月の第二月曜」に改められた体育の日とちょうど重なって休日となり、しかも好天。絶好の‘鉄道の日堪能日和’となった。

  加古川 6:08 → 姫路 6:23[22] [普通 943M/電・223系]

  例によって、乗り放題切符の効力を有効活用するため、早朝からの出発。6時08分発の下り電車で加古川を出発。姫路では10分の接続、その間に、東京から広島へ向かう臨時寝台特急「サンライズゆめ」が入ってきた。この電車は10時前に広島に着くが、私はその後を、鈍行で寄り道しながら追いかけることになる。

「サンライズ」の名のごとく、登ったばかりの朝日を背に受けて入線 

  姫路 6:33 → 岡山 7:59 [普通1403M/電・115系]

  新快速用223系から乗り換えた岡山行きの電車は、115系の4両。例によって姫路を境にした落差で、ここから一気に旧態依然となる。それでも、真中の2両は転換クロスシート。なりは湘南色の115系だが、実は元新快速用117系からの改造車なのであった。今となっては殊更優れた車両というわけでもないが、115系一族の中では居住性のよい部類だろう。

  だんだん明るくなる中、播州平野を西進、相生からは北へ向きを変えて山間へ入って行く。休耕田には、この時期おなじみ、私にとっては実に有り難くないキリンソウが我が物顔で繁茂している。

相生付近にて、併走する0系新幹線 

  上郡から、岡山への県境となる船坂峠越えにかかる。モーターをうならせ、勾配を駆け上がる…と、なにやら線路脇に自動車の大群、そして三脚の大群。どうやら今日、鉄道の日イベントで岡山に集結するジョイフルトレインを狙う、ファンの群れのようだ。向こうは「撮り鉄」、こっちは「乗り鉄」。「乗客」の立場からすれば異様な光景だが、「鉄」としては自分も同類なわけで、複雑な気持ちになる。

  岡山県に入ると文化圏も移り変わり、黒や灰色のかわら屋根の家が増えてくる。車窓には黄金の稲穂、カラフルなコスモスが流れてゆく。万富手前で吉井川を渡る鉄橋のところには、これまた大勢の撮影隊の皆さんが列をなしている。私の持っている入門用一眼レフなど目じゃない、超望遠の‘ごつい’カメラが所狭しと並ぶ。

  相生で別れた赤穂線と東岡山で合流すると、岡山も間近。ここからまっすぐ広島に向かうのもつまらないので、吉備線に寄り道することにする。

 歴史街道・吉備路

  岡山 8:05 → 備中高松 8:24 [普通 729D/気・キハ40系]

  吉備線は、岡山から北へまわって、伯備線総社へ至る路線。かつての山陽道沿いらしく、「吉備津神社」「造山古墳」「国分寺跡」など、沿線には名前からして古代を思わせる史跡が連なる。

  岡山の市街を抜けると、沿線は何か時代の流れから取り残されたような、いたってのどかなもの。なだらかな丘陵地に囲まれた田園地帯を、ディーゼルカーがマイペースで進んで行く。

吉備線沿線で輝く稲穂 

  右手に巨大な鳥居が通り過ぎると、備中高松に到着。

乗ってきた列車が走り去る 

  ここで途中下車。古代からは時代がかなり下るものの、ここにも有名な史跡がある。駅から北へ数百メートル歩くと、その史跡が見えてくる。「備中高松城」。戦国時代、中国の大名毛利氏の征伐に乗り出した羽柴(豊臣)秀吉に対し、毛利方の清水宗治が篭城して抵抗した城である。

  山の岩壁や石垣の上にあるという、通常の「城跡」のイメージからすると、高松城はなんとも拍子抜けする造り。城跡はまるでただの公園で、なだらかな丘に囲まれた盆地に、盛り土もなくそのまま敷地があるという構造。

  この城の場合、近くを流れる足守川が、天然の要害となっていた。秀吉はこれを逆手に取り、足守川をせき止めて城の周りを水浸しにし、補給を絶つ作戦を取った。そのさなかに本能寺の変が発生。秀吉は急ぎ、宗治の自害と引き換えに中国攻めの手を引き、そのまま「大返し」を果たして明智光秀を討ったのだった。

  公園内には、城攻めの際の模式図があった。城を囲むように、北東の丘陵地には羽柴軍が、南西には毛利方の軍が陣取っていたという。その睨み合いのさなか、孤立無援になった清水軍の境遇を察するにつけ、そんな時代に生まれなくて本当によかったなぁと思えるのだった。

丘陵に囲まれた備中高松城跡 

  備中高松 8:54 → 総社 9:12 [普通 731D/気・キハ40系]

  高松駅に戻り、吉備線の旅を続ける。引き続きのどかな風景が続く中に、ときどき住宅地やアパート群が流れる。吉備線は、岡山市街のベッドタウン路線として一役買っているらしく、乗降もそれなりに多い。私の地元の加古川線では電化工事が始まったところだが、こちらのほうがよほど電化のし甲斐があろうに、と思う。

  総社 9:24 → 倉敷 9:33[34] [普通 846M/電・115系]

  総社で吉備線の旅は終わり、伯備線電車に乗り換えて南下し、倉敷へ。

 古株キハの誘い

  倉敷から再び山陽線西進の旅を続けることになる。しかし、倉敷のJRホームの脇にある、水島臨海鉄道のホームに、見覚えのある車両が。

  この前月、開通40周年ということで、JR赤穂線で記念列車が運転された。そのとき使用されたのが、キハ20と呼ばれる、かつて地方ローカル線で活躍したタイプの車両。キハ20自体はJRにはもう残っていない(その一族のキハ52が少数残るのみ)ので、水島臨海鉄道の気動車を借り、わざわざ国鉄時代の塗装に改めて運転されたのだった。この記念運転が好評だったため、さらに9月中、何度か運転され、私も9月21日に赤穂まで車を走らせて見に行った。(そのときの写真が↓)

播州赤穂にて 

  驚いたことに、ちょうどたまたま、私が倉敷に着いたときにその車両に出くわしたのだ。JRのホーム側から写真を撮っていると、反対側の臨海鉄道ホームから、駅員氏が声をかけてきた。

  「どこから来たの?」

  「神戸のほうからです」 (私は神戸市民ではないが、旅先で聞かれたときはいつもそう答えている。)

  「ホームページを見て?」

  「・・いや、違うんですけど」

  どうやらこちらも鉄道の日の記念として走らせている模様。JRから返却されたのを、そのまま使っているわけで… 写真だけ撮って去るつもりだったが、駅員氏との短いやりとりで、乗ってやろうと気持ちが傾いた。

  JRのりっぱな橋上駅を出て、片隅の通路から薄暗い鉄筋の駅舎に移る。こちらは「倉敷市」駅を名乗っている。貼ってある時刻表でダイヤを確かめる。あいにく、終点の水島まで行ってしまうと、今後の予定が狂ってしまう。そこで、途中の浦田で折り返すことにした。

  倉敷市 9:47 → 浦田 9:59 [水島臨海鉄道普通/気・キハ20]

  昔の規格の車両らしく、室内は薄暗く、座席は狭い。車内のプレートによれば「昭和35年製」。倉敷市を出ると、しばらく山陽線と並んで走る。乗る予定にしていた快速「サンライナー」が、あっというまに横を追い越して行ってしまった。

  駅というよりは停留所ともいえそうな駅をいくつか辿り、古びた車体をゆすりながら、列車は市街地の中をゆっくりのんびりペースで進んで行く。10分少しのミニトリップ。名残惜しく思いつつ、浦田で列車を後にした。

浦田で、キハ20を見送る 

  浦田 10:07 → 倉敷市 10:18 [水島臨海鉄道普通/気・MRT300]

  帰りは対照的に、「MRT302」という近代的な響きの(といっても、単に「水島・臨海・鉄道」の頭文字を取っただけだろうと思うが)車番をつけた軽快気動車。それでも時速50km以上は出さず、明らかに性能を持て余してるなという走りで、いたってゆっくりと進んで行く。利用者は結構多く、市民の足としてしっかり機能しているようで、幸いだった。

 海、山、広島

  倉敷市に戻り、今度こそ山陽線の旅に復帰となる。

  倉敷 10:26 → 糸崎 11:34[35] [普通 1737M/電・115系]

  ここから広島へ至る区間は、これまで何度も通過してはいるが、すべてが夜間。意外にも、日の高い時間に通るのは今回が初めてで、実質初体験の区間となる。倉敷からしばらくは、変化の乏しい田園地帯が続き、電車は結構なスピードで飛ばす。

  広島県に入り、福山を経て、尾道に近づくと、一転車窓風景が変化する。今回の行程で初めて海に接近、しかもそこには、造船所の巨大なクレーンが立ち並ぶ。そして、その頭上をまたぐ巨大なつり橋。これは、本州四国連絡の「尾道・今治ルート」、いわゆる「しまなみ海道」を形成する尾道大橋。山側に目を転じると、そそりたつ斜面の中腹にまで立ち並ぶ民家群。「坂の街」と呼ばれるだけある町並み。

  港湾都市の尾道界隈を抜けると、列車は海際を進む。快晴の空の下、穏やかに広がる瀬戸内海。浮かぶ島々。そして後方に遠ざかる尾道大橋。うららかでさわやかなブルーの世界に、しばし見とれる。

尾道から糸崎にかけての、瀬戸内海を望む区間 

  次の糸崎で、電車の乗り換え。だだっ広い敷地に引込み線が並ぶばかりのさびしい駅。乗り換え先の電車は、岡山から来た1本前の電車。この糸崎で14分停車して、次の(つまり私の乗ってきた)電車を待ち受け、1区間走っただけで、次の三原でまた9分停車する。こんな、一見無駄で不可解なことをする理由は、糸崎が岡山支社と広島支社の境界になっているという、JR側の事情による。糸崎と三原で、岡山エリアと広島エリアとのズレを補正するわけだ。

  糸崎 11:37 → 広島 12:56 [快速「山陽シティライナー」 1735M/電・115系]

  糸崎は何もない駅だが、次の三原は新幹線接続駅だけにそれなりに賑わいがある。9分停車の間に、昼食として立ち食いうどんを食しておく。

  この電車もまた115系。しかしリニューアルの施された車両で、内装は近畿の221系なみに改善されている。走りも一般の115系と比べれば若干おとなしくなっているようで、こんなのならずっと乗っていてもいいや、と思えるものだった。

  三原を過ぎると再び内陸に入り、山越えにかかる。勾配を駆け上がりながら、針路を北西、南西、そしていったん東にターンし、再び西へと、ヘアピン状に回りこむかたちで距離を稼いで、高度を上げてゆく。西条でまとまった乗客があり、ここから列車は快速「山陽シティライナー」として広島を目指す。今まで登ってきたぶん、八本松から瀬野へと、一気に駆け下ってゆく。次第に谷が開け、広島の市街地が広がってきた。

 

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